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第三章 ローリンローリン
ご褒美
しおりを挟む誰か俺を殴って欲しい。
「ご褒美」と聞いて一瞬でも思春期らしい妄想をしてしまった俺を。全力で。
「よしよし」
黒江は小声でそう呟きながら俺の頭を優しく撫でる。手のひらは少し冷たく、細くしなやかな指が頭部を何度も往復する。
理解のキャパシティを超えた現状に、そして気恥ずかしさとむず痒さに声も出せず、ただ彼女にされるがまま。
初めは子ども扱いか? と思ったが、かえってインモラルな事をしているような気がしてくる。
視界は彼女の腕に塞がれ、聴覚は彼女の手と自分の髪が擦れる音に占有されている。
「やっぱりちょっと高い……しゃがんで」
彼女はやや不服そうにそう言うと、空いた方の手を俺の肩に置いて下方向に軽く力を込めた。
そのまましゃがむ姿勢になって、上からペットや子どものように撫でられる。抵抗することを放棄していた身体はいとも簡単に彼女の望む通りに動いてしまった。
しかし、意識が分散した為か思考には余裕が生まれた。
「黒江、これはさすがにちょっと……」
「あっ、嫌だった? そうだよね、ごめんね。髪触るとか気持ち悪かっ——」
「い、嫌ではない! その、恥ずかしいだけで」
「そう? 嫌じゃないなら、続けさせて。ちょっとの間だけだから」
彼女は少し擦れ気味の声で、おねだりする子どものように言った。俺へのご褒美は黒江のわがままでもあったらしい。
言いながらも彼女の手は止まっていないし、「嫌ではない」と言った時点でそれ以上の返事はあまり意味をなさないのだろう。彼女は結構いじっぱりだ。
「拒否する理由はないけどさ……なんで“撫でる”になったのでしょうか」
それならばと、この行動の意味を問う。
頭を撫でられるなんて本当に小さい頃以来、まして家族以外からは初めての経験かもしれない。黒江だって人生の行動選択において“撫でる”なんてこれまで無かったはずだ。それに家ではなくわざわざ学校で、というのもよくわからない。
「ちょっと前に何かで読んだんだけど、『大人になっても頭を撫でられると嬉しい』んだって。セロトニン? オキシトシン? とか、安心するホルモンが出るんだって」
彼女は「どう、安心する?」と、子どものご機嫌を取るように聞いてくる。質問の返事になっているような、いないような回答だ。
それに正直なところ安心感は全く感じられていない。むしろ緊張して心臓はバクバクと大きく脈動している。だが、そんなことを言ってこの雰囲気を台無しにするのはさすがに気が咎めた。
「何かの映画で、同じようなセリフがあった気がするな」
「へー、もしかしたらその原作を読んだのかな? というか珍しいね。慎が映画のタイトル思い出せないなんて」
「誰かさんのせいで頭がいっぱいいっぱいなんでね」
わざとらしく非難するような言い方で返すと、彼女は一瞬疑問符を浮かべてから数拍置いてにへらっと表情筋を緩めた。
その間もゆっくりではあるが彼女の手は止まらない。
しばらく続いたクスクス笑いが徐々に尻すぼみになって、やがて沈黙が流れる。
「慎、ありがとね」
その言葉は静寂を切り裂き、頭の中にスッと入りこんできた。
「え?」
入ってきたが、理解はできない。何への感謝だろう。それは彼女のおかげでテストの成績が上がった俺が言うべき言葉だ。
「あ、恥ずかしいからこっち見ないで」
顔を見上げようとしたが頭を押さえられてそれは叶わなかった。彼女は「そのまま聞いて」と言葉を続けた。
「慎に勉強教えるのすごく楽しかったの。私の与えたものが慎の身になっていって、それがちゃんと結果として出て、誰かの……いや、君の力になれたって分かって本当に嬉しかった。今までは自分のことで手一杯だったから、こういう喜びがあることを知れたのは頑張ってくれた慎のおかげ。だからありがとう。新しい気持ちを教えてくれて。私に、価値を与えてくれて」
お礼を言われているはずなのに、胸にぽっかりと穴が開いたような感覚がする。
彼女は「過去の自分には何の価値もない」という考えを隠そうともしない。きっとそれが彼女にとっては当たり前の事だから。
『生きる意味というか、人生の大きな指針みたいなものを否定されたり、壊された経験ある?』
ふと、あの日彼女が言った言葉を思い出す。
恐らく、母親に台無しにされたという小説こそがそんな彼女が唯一自らを誇れる“人生の大きな指針みたいなもの”だったのだろう。
それすらも折られたあの日の彼女はどんな想いであの橋に辿り着いたのだろう。どうしても考えてしまう。
嗚呼、彼女の苦しみを、孤独を、寂しさを少しでも引き受けたい。理解したい。それなのに、どうしようもなく俺は——恵まれてしまっている。
「はい。なでなで終わりです。付き合って貰っちゃってごめ——え」
彼女が頭の上から手を離して必要のない謝罪をしようとしたとき、俺は半ば反射的に立ち上がり、彼女の細い体を抱きしめた。優しく、ただ彼女を包み覆うように、もしかしたら抱きしめているとすら言えないかもしれない。そんな消極的で逃げ腰の、言い訳みたいな抱擁。今はそれが精一杯だ。
それでも確かに彼女の体温は伝わり、彼女が間違いなくこの場に存在していることを改めて認識できる。
「こちらこそ、色々ありがとう……黒江」
混乱している彼女に、腹の底から絞り出すように言葉を吐いた。
「……言ったでしょ。頑張ったのは慎で私は別に」
彼女は驚きはしたようだが声色に大きな変化はない。受容でも拒絶でもない反応は、怖くもあったが同時に安心もする。
彼女の価値観をひっくり返すような、それこそ映画のようなセリフは思いつかない。現実はどうしようもなく地道だ。
「俺はそんな立派な人間じゃない。ただお前に手伝って貰ったから、それを無下にしないようにって思ったから必死になれた。それにお前が言ったことだからな、『感謝はテストの後にして』って。だから俺も勝手に感謝させて」
「たしかに、言ったけど。“色々”っていうのはなに?」
「日頃のアレコレ。この前だって晩飯作ってくれたし、それに映画の話できる相手、他に居ないんだ。実は」
ついでのように、ずっと言おうとしていたことを吐露した。
風間も亀井も、それぞれ熱中できる自分の趣味があって、お互いにその話をすることはあるが基本的に一方通行だ。
何かをオススメしても、本当に興味を示してくれる人は想像よりも少ない。皆自分の人生を生きているから。
「……それでハグ? らしくないね」
「さっきまで頭撫でてきた人に言われたくない。けど、確かに急にしてごめん。嫌だよな」
伝えたいことは伝えた。黒江が思っているより俺は良い奴でも特別でもなんでもない奴なのだと。黒江の存在は彼女が思っているよりありがたいのだと。
抱擁していた手を解き、一歩後退する。おそらく紅潮しているであろう顔は逆光で見えていないことを祈った。本当にらしくないことをしてしまった。
彼女はじっとこちらを見つめ、またニヤリと口角を持ち上げた。
「イヤとは言ってなかったんだけど?」
「……もっかいしましょうか?」
「ダメ。もう受付時間は終了です」
そう言って黒江はテーブルに置いていたカバンを手に取り、図書室の鍵をチリチリと鳴らしながら出入口に向かって歩き出した。
慌てて荷物を持ち、軽く忘れ物がないか確認してからその背中を追いかける。
「帰ろ」
前を歩く黒江の足取りは軽やかだ。
ほんのひと月前に俺の斜め後ろを付かず離れずトボトボと歩いていた彼女は、もう居ない。
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