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第2章:平穏と過ち
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しおりを挟む「今、舌打ちした……?」
「“パートナーとして”お前に触れたいと思うのは悪いことなのか?」
「あ、ちょっと!」
腰を抱いていた手がするりと白衣の中に侵入する。みぞおちから胸にかけて撫でられたり、無意識にきゅんっと疼いている下腹部を何度も大きな手で撫でられると思わず甘い声が漏れそうになった。
自分の口を塞ぎたくなってもエリアスの両手はカップを洗うために水桶に浸かっていて、しかもヴラドから両腕を拘束されている状態だ。逃げられない状況で追い込まれ、これからどうしたらいいのかエリアスはぐるぐると考えた。
「コマンドが欲しいならそうしてやる」
「そうじゃ、なくて……!」
「〈こちらを向け〉」
コマンドが欲しいわけじゃないと言ったのに、ヴラドの口からは容赦ない言葉が飛んでくる。水に浸かっていた両腕の拘束が解かれ、エリアスがゆっくりとヴラドのほうを振り向いた。
「あの、手……濡れてるから」
「いい」
ヴラドはエリアスの濡れた腕を自身の首に回す。それ自体はコマンドではなかったが、ヴラドに抱きつくような形になってドッと心臓が跳ねた。
「〈口付けを〉」
「へ……」
「聞こえなかったか? 〈口付けをしてくれ〉」
抱きつかせるだけではなく口付けまで要求するヴラドに開いた口が塞がらない。だがエリアスの心の底では、逃れられないコマンドを嬉しく思う自分がいた。
「ん……」
まるで小鳥が啄むような口付けをしていると「〈もっと深く〉」とコマンドを出された。その言葉と共にヴラドが薄く唇を開けて待っているので『深く』の意味が分かってエリアスは赤面する。
自分からはしたことがないのだが恐る恐る彼の口内に舌を差し込むと、後頭部を引き寄せられて息を奪われるような激しい口付けをされた。
「んぁ、あ、んー……っ」
「はぁ……このくらいしてもらわないと、俺のほうこそ満足できないぞ」
「た、ただのいじわる、じゃん……! 絶対こんなこと、しなくていいのにっ」
「スキンシップだ。お互いのことを知っていないと、最悪なプレイはしたくないだろ?」
「……じゃあ、こういうキスはもう対象外で」
「俺が好きだから、却下だな」
ああ言えばこう言うとは、まさにこのことだ。ヴラドの態度にエリアスが頬を膨らませて怒っていると、彼は「〈いい子だったな〉」と言いながら顔中にキスの雨を降らせる。その感触がくすぐったくて目を瞑ると、唇が甘く触れ合った。
「……こういうことを、他の者としたことは?」
「え? いや……この3年の間は一度も。その前のことは覚えてないから、初めて、に思える……」
「そうか。……過去のことを思い出したいと思うか?」
ヴラドの言葉にエリアスは考え込む。もちろん、思い出したくないと言えば嘘になるし、失ったものを取り戻したいと思うのは普通のことだろう。
でも、記憶を取り戻すことを怖いと思う自分もいる。
エリアスが瀕死の状態で見つかった時に、周囲には誰もいなかったとアイオンは言っていた。なぜエリアスが傷ついていたのか、なぜ河岸に倒れていたのか、何も分からないままなのだ。
その事実を思い出した時、果たして自分は自分のままでいられるのだろうか?と、不安なのである。
もしも何か最悪な出来事があって、そのショックから記憶に蓋をしていたとしたら?自分を守るために全てを失ったのだとしたら?そう思うと、思い出すことが全てではないような気もしていた。
「過去を思い出すのは、少し怖い」
「……なぜ?」
「もしかしたら何か最悪なことがあって、自分で記憶に蓋をしたのかもしれないし。全てを思い出した時、自分が自分でいられるのか不安だから……それにこの3年、俺を知ってる人と会ったことがないから、きっと誰も探していないんだと思う。いてもいなくても大差ないような人間だったんじゃないかと――」
「そんなわけないだろうッ」
ヴラドの怒声にエリアスの体はびくっと跳ね、彼の首に回していた腕を思わず離してしまった。エリアスが驚いて離れるとヴラドは傷ついたような、悲しそうな顔をする。
美しい白髪をぐしゃぐしゃと掻き回した彼は「……すまない。こんなふうに言うつもりじゃなかった」と呟いた。
「あの、ヴラド」
「……なんだ?」
「もしかして、ヴラドって俺のこと――」
そこまで言いかけると、診療所の外から「かかさまー! ととさまいますかー?」とシャロンの大きな声が聞こえて言葉を飲み込んだ。
「しゃ、シャロン! かかさまもヴラドもここにいるよ!」
何事もなかったかのようにエリアスが裏口のドアを開けに行くと、その背中に「俺は、お前の……」と小さい声が投げかけられたが、エリアスには聞こえていなかった。
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