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第1章
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しおりを挟む酔いそうなほど甘く重厚なムスクの香り。
その中にピオニーやゼラニウム、ラベンダーのフレッシュな匂いがする。あまり女性的な香りは好んでつけないけれど、この匂いが似合うからと侍女がいつも特別に調合してくれる香水やアロマの香りだ。
この匂いは、あまりにも懐かしい。
今まで、もしかしたら悪い夢を見ていたのかな。
そうだ、死ぬ夢なんて見たから、気の毒だと思った誰かが実家からこの懐かしい香りを持ってきてくれたのかもしれない。
結婚してからは『他の人を誘うような卑しいものはつけないでください。ただでさえオメガのフェロモンも厄介なのに』と夫に言われたから、香水やアロマなどそういう類のものは全て実家に残してきた。この匂いを嗅ぐと学生時代に戻るような、記憶が蘇る懐かしい香りにノエル・ヴァレンタインはハッと目が覚めた。
「――おはようございます、ノエル様。今日はいつもより遅いお目覚めでしたね」
心地よく耳に響くソプラノ。淡いベージュの髪の毛を綺麗にまとめ、ライトブラウンのくりくりとした瞳がノエルの顔を覗き込んでいる。そんな彼女の姿に驚いて飛び起きると、彼女もまた大きな目を更に見開いて驚いていた。
「どうなさいました?すごい寝汗が……夢見が悪かったのですか?」
「る、ルナ……」
「はい、ルナでございます。そのままでは気持ち悪いでしょうから、ご入浴の準備をいたしますね」
「ルナ、い、いつこの屋敷に?宰相様が許して下さったのか?」
「宰相様というと、アルバート・ブラウン様ですか?」
「え?いや、え……?お義父様ではなくて、レイシス・ブラウン……」
ここにルナがいるのも理解ができなかったが、更に彼女の口から『アルバート・ブラウン』の名前が出てきたことも驚いた。アルバート・ブラウンといえば、確かにこの国・ロードメリアの宰相なのは間違いないが、それは数年前の話である。
でも彼女はきょとんとした顔をノエルに向け、困ったような笑みをこぼした。
「確かにレイシス様が宰相様になられるのは決まっておりますが、まだ16歳ですよ。宰相の仕事に就くのはまだまだ先の話かと」
「じゅ、16歳?」
「あぁ、17歳の年になりますね。なんせノエル様がもう18歳になりますから」
「………は?」
更に理解できないことを言われ、ノエルは気絶しそうなほど頭の中が混乱した。ノエルが18歳、婚約者のレイシスが17歳の年だと彼女は確かに言ったのだ。今のノエルは30歳を過ぎ、結婚して10年以上経過している。
夫のレイシスが宰相の職に就いたのは3年前。レイシスの父であるアルバートを病気で亡くしてから、彼が正式な宰相として君臨した。年齢が若すぎるという批判もありはしたが、彼はもとより優秀だったし王位継承第一位のイヴァンの幼馴染で信頼も厚かったため任命されたのだ。
でも彼女の話では違うらしい。
ノエルが知っている全ての情報と食い違っている。食い違っているというか、まるで『過去』に戻っているようだった。
「よほど悪い夢を見られたんですね。学園に行く前にゆっくりお風呂に浸かりましょう。クマ取りをして、その青ざめた顔もなんとかしないといけませんわ。最高のコンディションにならないと登校できませんものね」
「学園、って……?」
「本当にどうなさったんです?さては昨晩、夜更かしされましたね?」
ひどいお顔ですよ、と言われルナが指差したほうを見ると大きな鏡がある。その鏡に映り込む自分の姿を見てノエルは目を疑った。
「ど、ど、どういうこと!?」
「え?」
「なん、な、なんで!?俺、死んだのになんで学生時代に戻って……!?」
「はい!?死んだってどういうことですか、ノエル様!」
「ちがう、これはきっと天国だ、天国なんだ……俺みたいな奴でも神様が気の毒だからって天国に送ってくれたに違いない!」
「何を……!そんな縁起でもないことをおっしゃらないでください!」
これはきっと都合のいい夢だ。死んだなんて思いたくない自分が見ている都合のいい夢なのだ。
なんせノエルの専属侍女のルナは結婚と同時に専属から外され、ノエルの嫁入りについて来ることはなかったのだから。そんな彼女がいる時点でこれが夢だと気づいたらよかったのに、懐かしく自然だったのでつい普通に会話してしまっていた。
ここはきっと天国で、自分に都合がいい空間なのだろう。
やっとそう気がついたノエルだったが、頭痛がして顔を歪めた。額に手をやると変な声で呪文のようなものが頭の中に流れてきて、ぞわりと背筋が粟立つ。
どくどくと心臓が早鐘のように脈打ってきて、額にたらりと冷や汗が伝った。
「………今日、学園には行かないことにする」
「ノエル様…?」
「入浴の準備をしてくれる?やっぱりどこか変みたい……」
「お医者様をお呼びしましょうか?もしかしたらヒートの前兆かもしれません」
「そこまではしなくていい!とりあえず今日は放っておいて、ごめん」
「ちょ、ノエル様!?」
一度頭の中を整理したくてルナを追い出し、ドアに背をもたれたノエルはそのままズルズルと床に座り込んだ。
大きなため息をついて再び額に手をやると自然と息が止まる。なんだかジクジクと心臓が痛むような気がして、あの時の記憶が蘇ってきたノエルは胸の痛みと息苦しさに眩暈がした。
「どういうことなんだ……何が現実で何が夢……?」
一番最後の記憶は、薄暗い地下室のような場所に監禁されていたこと。銀色の仮面をつけて黒いローブに身を包んだ誰かに拘束され、耳の中に呪文を流し込まれたノエルはそのまま息絶えたこと。
――そう、ノエルは何者かに殺されたのだ。
「それなのにどうして、学生時代に……」
ノエルが最悪な人生の最期を迎えた時、年齢は31歳だった。ありとあらゆる悪いことが起こった人生だったので実年齢よりも大分老け込んでいたと思うが、鏡に映るノエルはぴちぴちで若々しく肌が輝いている。最後に自分の顔を見たのはいつだったのか覚えていないほど昔だけれど、この若さは18歳のノエルで間違いない。
何がどうなっているのか全くと言っていいほど分からないが、この心臓の鼓動は本物だ。自分の命が事切れた時の虚しさと、最期に聞いた『あの人』の冷たい声も耳の奥にこびりついている。
『煮るなり焼くなり殺すなり、好きにしろ』
間違いだったとしても、結婚していた人からそう言われたのは多少ショックだった。
ノエルは20歳の時に結婚をした。相手のレイシス・ブラウンは1歳年下の侯爵家の長男でありアルファで、ノエルが12歳、レイシスが11歳の時に『運命の番』だと分かり婚約者になったのだ。
彼には想い人がいたのに、ノエルと運命の番だと分かってしまったから両家に無理やり婚約を結ばれたといっても過言ではない。つまり、自分たちの意思ではなかった。
それをレイシスがずっと恨んでいるのも知っていたし、彼がずっとノエルではない違うオメガを好きだったことも分かっていた。
だからレイシスとの結婚では、それ以上多くのことをノエルは望まず慎ましく暮らしていたのだ。まぁ、そんなふうに自制していても、散々な人生だったのだけれど。
「本当に、何がどうなってるんだ?」
部屋はノエルの実家であるヴァレンタイン伯爵家の部屋で間違いない。用意された綺麗な制服もノエルがかつて通っていた学園のもので、机には鞄と整頓された教科書が置かれている。
ルナが淹れてくれたのであろう紅茶の匂いと、彼女が調合してくれたノエル専用のアロマが織り混ざった匂いがとても懐かしくて思わず涙が滲んだ。
「神様が助けてくれたのかな……」
悲惨な最期を遂げたはずの自分が、神様の力によって生き返ったのかもしれない。
『オメガは神の使い』
そのような言い伝えはあながち嘘ではないのかもしれないなと、ノエルは膝を抱えて顔を埋めた。
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