柳生の影 ―十兵衛旅日記―

いわん

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其之三:旅立ちの前に

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「御免」俺は部屋に入るなり声をかけた。「又十郎、面倒をかけて済まぬが……」
「また、旅、ですか」弟、又十郎宗冬は読書を止め、俺を見上げ、にっこりと言葉を返す。読んでいた書は金春家より贈られた世阿弥の「風姿花伝」か「拾玉得花」か何かか。親父殿に似て、又十郎は能がこの上なく好きなのが、いいところでもあり、悪いところでもある。まぁ、能に関しては、俺も嫌いではないのであまり人の事をうるさくは言えないのだが。
「江戸からの文がありませぬのに。兄上は忙しいですな。少しはここで休まれたらよろしいのに」
「うむ……気を遣わせてすまぬな。ちょっとした厄介ごとに巻き込まれてな。相手はどうも俺が狙いらしいのだ。俺に恨みを持っている人間など、数えたらきりがない。旅に出て、その先で始末を付けてこようと思う」
「まぁ、兄上らしい方法、ですなぁ」生来、又十郎は笑顔を絶やさない。これも又十郎の人柄、性格なのだろう。「仮に兄上狙いでこの柳生の庄が攻め込まれたとしても、高弟以下柳生門弟で打ち払いますのに。兄上、少しはこの柳生の庄を頼られても、誰も文句なぞ言いませぬぞ。みな兄上を好いておるのですから」又十郎は笑った。
「うーん……それはありがたい申し出なのだが、どうにも、いまのところ、勢力も含め、相手が定かではなくてな。見当がつかぬ事も無いのだが、確証が無い。それに……」
「そんな事態が衆目に知られたら、父上がなんと怒るかわからない、と」又十郎はまた笑った。
「……ま、そんなところだ」俺はポリポリと頭を掻いた。
「出来うる限り、江戸の親父殿や衆目には知られたくないのでなぁ。長子十兵衛が、廃嫡を喰らってもなお、ここに出入りしているなど他の大名どもに知られては、親父殿も江戸で面目が立つまいに。この間、殿の前での試覧に俺が呼ばれたことも、外に漏れたら一大事じゃしの」
又十郎はその言葉に笑う。
「まぁ、兄上のことです。おそらく新しく雇った、あのかわいらしい下女に絡んだ話でござろう。あの下女は、いろいろ事情がありそうですからなぁ」又十郎に、事情を簡単に看破されていた。俺は物事を隠すのがとことん下手らしい。
「すまぬの」俺は頭を下げた。
「できれば、あの娘の事はあまり口外しないでほしいのだ。お藤殿のようになられても困るしの……」
「あー……それは確かに心配でありますな」又十郎はあごに手を当ててうなる。
「器量良しで利発そうですからなぁ。もうこの柳生になじむ心根の明るさもありますし。父上の好みではあるかも……」
又十郎も同様に思ったらしい。お藤殿に対する親父殿の手の早さには、当時、子の全員が呆れたものだった。息子たちより一回り以上も年下の娘御を、側室に迎えるなんて事を、素早く行動に移されては、誰だって呆れかえる。あれはお藤殿に非は全くない。単に親父殿の女子に対する手癖が悪すぎるのだ。もう隠居も間近い歳だというのに、親父殿は何をしているのか。好色にもほどがある。俺を含め、兄弟全員がその当時思ったものだった。
「そういう事であれば、こちらも気をつけますよ。隠居も間近の今の歳で、父上に同じ事をまた繰り返されては困りますからな。兄上が留守の際に父上が戻られた時には、ちゃんと釘を刺しておきます」と又十郎は笑った。
「では」急に又十郎が真剣な面持ちになった。
「柳生の庄の後事を憂うことありませぬ。この又十郎が命をかけて、この柳生の庄を守ります故」
あぁ、やはり、又十郎がこの家を継ぐべきなのだ。俺のように後先考えず剣に生きようとする人間よりも、左門のように病になってしまった者よりも、又十郎のような、己を過大評価する事なく、そしてこちらの信頼を裏切る事の無い人間が、大名たる親父殿の跡を継ぐべきなのだ。
俺は思わず笑った。
「又十郎がそういってくれるならありがたい。しかし、おぬしは死んではならぬな。大和柳生の大事な跡継ぎであるのだからな。必ず、生き延びよ。大和柳生を守れ。俺は今回の件で客死するかもしれんが……」
その言葉に急に又十郎の目に怒りの炎が上がった。
「なにを申されるか!兄上!」俺の迫力には及ばぬが、さすがは柳生家跡目。その怒気はかなりのものであった。
「兄上は、さっさと相手を打ち倒してきて早々に戻ってこられ、またのんびりと鷹狩りでも楽しんでいただきたい。残されるお市殿や娘子のことも考えなされ!戦う前から客死する、などと言う戯言、この又十郎、好きではありませぬぞ」
「わかった、わかった。冗談が過ぎたわ。すまぬ」やはり、又十郎は己がこの家を継がなければいけないという重圧があるのだろう。それに軽々に触れた俺の軽口が誤りであった。
「話は変わるが……」又十郎の怒りを鎮める意味でも、話を強引に変えた。
「今日の左門はどんな感じだ」
「いい意味でも、悪い意味でも、あまり変わりがありませぬ」又十郎の興奮冷めやらぬその声には若干の悲しみが含まれていた。
「兄上と会う事ぐらいは問題がないかと」
「そうか。悪くなっていないのなら重畳」俺は席を立った。
「一応、左門にも次第を話さぬとな」
「……兄上」又十郎が感情を押し殺した声で言う。
「左門にも、この件を話すのですか?」
「そうだ」俺は言葉を継いだ。
「仮にここが襲われた時、刀一つ持てず、敵一人にも対峙できず、誰も救う事なく捨て置かれたら、誰よりもその事を後悔するのは左門だろう。もちろん」俺は又十郎を見た。
「そうなったときに『先陣を切れ』などと馬鹿なことは申さぬわ。敵が来るやも知れんから、心がけだけはしておけ、とだけ告げるつもりじゃ。ぬし一人では、まだ、この柳生の庄を守るのは手に余るぞ?」
「左門……」又十郎は涙を押し殺していた。
「本当なら、この家は、兄上か左門が継ぐべきであるのに……」
「又十郎……それ以上言うな。俺が廃嫡になったのは俺の責任。左門が労咳になったのは……天命なのじゃよ。きっと」
「であれば、天はあまりにも惨すぎます!」又十郎は声を荒げた。
「……あまりにも、あまりにも……」
「又十郎」俺はしゃがみ、又十郎と対面した。「左門はそれを受け入れている。俺ら兄弟に出来る事は、左門が最も喜ぶであろう死に花の咲かせ方を考えてやる事じゃ」
又十郎は、既に泣いていた。
「兄上……」
双子のように育った左門の運命を誰よりも哀しんでいるのが、この又十郎であった。
俺は又十郎の肩をポンと叩くと、又十郎の部屋を出た。又十郎の部屋からは静かな嗚咽が聞こえてきた。

「御免」俺は左門が寝ている部屋を開けた。薄暗い部屋の真ん中で、左門――柳生左門友矩、剣の腕は俺と互角、女性とも見まがう美しさで、時の将軍家光公の寵愛を受けた小姓――が、労咳を患い、柳生の庄へ静養にもどり、その命、いつとも知れぬ状態で眠っていた。床の間に愛刀菊一文字が哀しげに置かれている。
「寝ているのか」静かな寝顔を見つつ、心の中で別れの挨拶をした。
――すまぬ。もしかすると、俺はお前を守ってやる事は出来ぬかもしれぬ。が、後事は又十郎に任せて安心せい。能や女に遊んでいるようで、又十郎は、我ら兄弟の中で一番のしっかり者じゃ。
そして、そっと障子を閉めようとしたとき、
「兄上」
左門の声が聞こえた。振り向いて答える。
「起きておったのか、左門」
「えぇ。兄上がこの部屋の前に立たれましたから。旅立つ前の兄上は、その剣気が強すぎるのですよ」
そうして左門は身体を起こそうとした。俺はそれを制止する。
「左門!起きるな!横になったままでいい!おぬしは病の身なのだぞ!」
「何をおっしゃいますか、兄上。そこまでの剣気を纏うということは、こ度の件、決して楽な事柄ではありますまい。その兄上が死地に赴くというのに、弟たる私がのうのうと寝て送り出すわけにもいきませぬ」そして、左門は笑った。
「それに、今日は身体の調子がいいのです」
左門も又十郎も誰に似たのか頑固者だ。自分がこうだといったら考えを曲げない。ま、この俺がもっともそういう性格なのかもしれんが。俺は観念して、左門が寝ている布団の横に腰を下ろした。
「調子はいいのか」と尋ねる。
「えぇ、ここ数日は食欲もありまして。茶粥が美味しゅうございます」
「ならいい。食べれなくては身体が保たないからな」などとわざとらしく言った。
「しかして、今回の兄上の敵は何者で?」左門はそんな世間話をあっさりと打ち切り、単刀直入で聞いてきた。
「この大和柳生、もしくは将軍家に仇なすものですか?」
「それがな……」観念して俺は答えた。この聡い弟に隠し立てなどしても無駄なのだ。愚兄賢弟とはよく言ったものだ。
「よくわからんのだよ」
「よくわからない?それは兄上らしくもない」と左門。
「敵はな、どうにも、この『柳生十兵衛三厳』を狙っているらしい。『柳生の家』ではなく」
「ほう」
「俺個人に恨みなりなんなりを持っている、となると、数が多くて見当がつかなくてなぁ」また頭を掻く。柳生の家への恨みつらみなら、相手もわかりやすいのだが、俺個人となると、どうにも正直、多すぎて見当がつかない。それこそ「廃嫡」後、その沙汰として「密命」を命ぜられ、陰で幕府の政に仇なす輩を、全国で斬ってきたからだ。
「兄上は斬り過ぎなのですよ」左門が笑った。
「……否定はせぬよ。ただ、この柳生の庄まで来て狙うような相手となると、ちょっと、な」
「あぁ、兄上が仇とわかっているのなら、『果たし状』を掲げればいい話ですものな」
「仇が俺だとわかっているのなら、『仇討ち』を願う事で、助太刀を交えて堂々と勝負を天下に知らしめられる、『密命』を賜っている『柳生十兵衛三厳』のその行為が世間に表沙汰に出来る。これほど『柳生家』の信頼を落とす、政治的に効果的な方法もないのに、しかし、相手はなぜか、その手を使ってこない」
「……確かに、それは妙ですな」
「それと、『柳生の家』の取り潰しを狙うなら、俺や柳生の庄ではなく、親父殿のいる江戸屋敷、親父殿本人を狙うだろうよ。それこそ、世間に恥を見せる、より効果的な手だ」俺は、ふぅ、とため息をついた。
「しかし、江戸から、そのような刺客が現れた、という報は入ってきていない。まぁ、仮に江戸屋敷に刺客が来たとしても、江戸には筆頭師範助九郎殿をはじめ高弟たちが詰められておるから、ちょっとやそっとの賊に襲われた程度では、問題もなく安泰だとは思うが。それにしても『廃嫡』の身である俺、柳生十兵衛三厳個人を、柳生の庄まできて狙う、という理由がな……正直、よくわからん」
「ということで、だ」俺は言った。
「俺自身を囮にして、相手の正体を探ってみようと思うのだ。今のところわかっているのは、今回の相手の目的は、『柳生十兵衛三厳を討つ』という事だけなのでな」
「兄上……」左門は呆れた顔をする。
「確かに、剣技において兄上に勝てる相手はそうはいないでしょう……紀州の助九郎殿でも尾張の方々でも難しい事かと。それにしても、それはずいぶんと分の悪い賭けではありませぬか?もし相手が、旅先にて、ここぞとばかりに大軍で押し寄せてきたら……」
「かといって、ここにいては、大軍が来た時に、一族郎党を巻き込んでしまう。柳生一門と自分の命を秤にかけて、自分の命を取るほど俺は驕慢ではないよ。俺一人で旅立てば、相手の目は自然と俺に集まる。少なくとも、その間は、この柳生の庄は安全になるわけだ。第一、今の時勢、自由に大軍を動かせる相手ならば、おのずと限られてくる。相手探しにはかえって都合が良い。それに」俺は腰の三池典太を軽く叩いた。
「この典太が一緒であれば、そうそう負けはせぬよ」
「兄上のご出立後、その相手が大挙して柳生の庄を襲ってきてとしても、この左門がいる限り、この山門一つ通らせませぬ」左門が不敵な笑みを浮かべる。
「そこじゃ」俺は言った。
「おぬしのその性格が気になったので話にきたのだ」
「いいか、左門」俺は言葉を継ぐ。
「ぬしは希代の使い手じゃ。おそらくは俺よりも上。助九郎殿すら超えているかもしれん。だが、ぬしは労咳を患っている身。おぬしの言うように、大軍がこの柳生の庄に押し寄せてきた時、おぬし、果たして最後まで戦が出来るか?」
左門は押し黙る。さすがに、自分の身体の状態は知っているようだ。
「だからな」俺は提案した。
「ぬしが務めるのは先鋒ではない。最後の大太刀じゃ。又十郎を守る最後の懐刀じゃ。もし、屈強なる敵に高弟が倒された時、その相手を斬り倒すのがぬしの役目。なに、大方の相手は、門弟たちで問題なく倒せよう。高弟たちには歯も立たぬであろう。だが、敵にも、ぬしのような鋭利な刃物が混じっているやも知れん。それを見つけた時、その時が、おぬしの出番じゃ」
「……了解いたしました」歯噛みをする左門の落胆と疲れの混じった顔。
「兄上のおっしゃるとおりに」
「約束してくれるな、左門」俺は念を押した。
「おぬしは又十郎を守る殿(しんがり)じゃ。先鋒ではない。本当に強い『本物』が敵から出てきたら、それがおぬしの相手じゃ。そやつ相手に、おぬしの新陰流を存分に振るうがよい」
「……承りましてございます」左門は頭を垂れていた。その肩は震えていた。
「ではな。左門。俺も旅先で死にたいとは思わない。なるべく大軍が来ぬような道を選ぶつもりだ。ま、そもそも相手が大軍と決まったわけでもない。おぬしも息災であれよ。次に会うときは、この件に片を付けて、笑いながら酒でも酌み交わそうぞ」俺はそう言い残して、左門の部屋から出た。仮に柳生の庄が敵からの襲撃を受けても、相手に「本物」がいない事を願いつつ。左門が太刀を抜かずに済む事を祈りつつ。

最後に挨拶も兼ねて、道場へと足を運ぶ。仮に大軍が襲ってくるとしたら、彼らがそれらに対する先兵となる。いつでも臨戦態勢にあるとはいえ、話を先に入れておいた方が彼らも気構えが変わるやも知れぬと考えたからだ。
「十兵衛様、ご出立ですか!」
声をかけてきたのは、古参の村田与三であった。
「あぁ、ちょっとした野暮用でな」詳細は語らない。語らずとも、ここが襲われれば門弟たちは獅子奮迅の働きをする事は折り紙付きだからだ。
「旅に出立、と見せかけて、女巡りですかな?」
「馬鹿を言え。そんなことが冗談でもお市の耳に入れば、俺はここに二度と戻って来れぬわ」冗談にもほどがある。俺にお市以外の女を抱くつもりなぞあるわけもない。好いた女以外抱く気になどなるものか。仮にそのような事をしたら……俺は怖気をふるった。
「わははは、天下に名高い十兵衛様も、お市殿には勝てないでござるか」
「……あれに勝てる男がいたら見てみたいわ……」俺は一人ごちた。この柳生の庄では「十兵衛は女房の尻に敷かれている」というのはもはや知れ渡っている笑い話であった。まぁ、そう噂するたいていの者も、間違いなく女房の尻に敷かれているので、連中も偉そうな事は言えないのだが。柳生の男はとことん惚れた女、女房に弱いらしい。
「お伊勢参りと……尾張の兵庫助殿に挨拶をしてこようと思ってな」と俺。
「はぁ、そうですか……でも、それは但馬守様がいい顔をしないのでは?」
「俺は廃嫡の身だ。廃嫡の人間が、誰に会おうが、家から文句を言われる筋合いは無いわ」
「ははは、確かに。しかし、この柳生の庄の誰も、十兵衛様が廃嫡された、なんて信じてるものはおりませぬがな。廃嫡された者が、その土地で家族共々仲睦まじく住んでいるなぞ、まったく『縁』が切れてないでござるからなぁ」
そう言われて、俺はポリポリと頭を掻いた。
「……廃嫡はお上からの正式な沙汰だよ。それに、左門がああいう状態である以上、今、この柳生の家の主は又十郎だ。だから、お前ら、俺の事よりも、又十郎の指示をきちんと聞けよ。火急の際には誰よりも又十郎を守るべし!よろしいか?」
俺の言葉に、与三をはじめ、道場にいた門弟たちは当然とばかり、おぉ、と力強くうなずいた。皆の心はその点において一つであった。心強いかぎりである。意図的に、お菊の件は触れずにおいた。今回の出立とお菊との関わりを問われるのは、今の俺としては説明しにくく辛い件である。そもそも、お菊の出自自体、きちんと皆には説明していないのだから。まぁ、その点は、お市に任せればうまくやってくれるであろう。
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