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三章 業火、舞い上がる
十九話 悪鬼、生まるる時
しおりを挟むガシャン!
春姫が力任せに投げつけた土器が、柱に当たって派手に砕け散った。
茵に座りわなわなと唇を震わせている春姫は、寝床から起きてそのままなのか、単衣姿で髪も乱れている。部屋の入口から出た濡れ縁に、老いた女官がひとり、床に両手を突き頭を下げていた。
春姫は憤怒の表情で、女官へ激情をぶつける。
「まだ返事来ないの!?」
「姫様の文は、お受け取りを拒否され……」
「本人に直接手渡せって、言ったでしょう!?」
「お言葉ですが、姫様。少将はほぼ陽炎殿か昼御座へいらっしゃるため、お会いするのも難しく」
「役立たず!」
「っ申し訳ございません」
四竜皇国では、竜皇に嫁ぐ概念がない。そのため後宮は、竜皇周囲の執務を執り行う高位女官が部屋を与えられ『女房』と呼ばれ、役人や貴族と良縁を結び、出ていくしきたりになっている。
春姫は右大臣の権限により、宮内女官として内裏の中に居室を持っている。右大臣直轄の神祇官補佐として、祭祀を執り行うのを手伝うのが役目だが、実際はなんの仕事もせず、だらだらと過ごしていただけだった。
扇合も、春姫がそのような立場であればこそ、女房たちは素直に従ったと言える。右大臣の後光だけではない。神の代理人である竜皇、竜皇の側仕えである巫女との交流を、神祇官補佐が取り仕切るのは当然のことだ。
ところが、春姫はそれを『自身の権力』であると勘違いをした。
黙って言うことを聞けばいいと、十七の女房が権勢を振りかざしたとて、相手は『神』の側仕えである。真っ向から逆らってはならない相手に下手を打ってしまったことに、春姫は気づいていない。
他の女房どもは、竜皇が巫女を寵愛する様子を目の当たりにし、逆鱗に触れるのを恐れ、遠巻きにするようになった。
「全部全部、あの女のせいだ……! わたくしの欲しいものを、横からかっさらって! わがもの顔で! 大体、竜皇だからってなによ。ただ居るだけじゃない!」
「姫様、いけません。陛下に対してそのような、不遜な言動は天罰が下ります。お慎みくださいませ」
「うるさい!」
扇合の際、春姫は竜皇である焔と会ってはいない。
あの場に残った女房どもが皆改めて崇め敬うほど、焔の放つ威光は凄まじかったわけだが、それを知らない春姫には、どんな言葉も届かなかった。
「あの坊主は、どこ行ったのよ!」
――すべて姫様の思い通りにいたします。
甘美な言葉で春姫を誘った陰陽師は、今まで何もかもを叶えてくれた。
気に食わない女房を蹴落とし、竜都へ降らせた。
欲しい織物を、奪い取った。家具も、櫛も、器もだ。
幸せそうなのが気に入らないと、縁談を喜ぶ女房たちを、気まぐれにいくつも破談にした。
巫女になりたくないと言えば、違う女になった。
「これへ! 連れてきて!」
「はっ」
春姫の側に侍るのは、もはや老いた女官ひとりだけだ。
肩を震わせ部屋を去るその小さな背中に春姫は、「役立たず!」ともう一度、罵声を投げつける。それ以降その女官すら、侍らなくなった。
❖
髪を梳くどころか着付けも、部屋の整いすらもままならない春姫の部屋は、荒れる一方であった。
いくら右大臣が人をやっても、春姫本人が些細なことで癇癪を起こして、帰らせてしまう。
本邸に帰れと命じても、内裏から出たくないと駄々をこねる。父親の言葉すら届かない様子に、誰もがお手上げ状態になった。
扇合から十日が過ぎたころ、すえた臭いを身にまとった春姫が、簀子縁でぼんやりと外を眺めている。
まだ寒いというのに、薄汚れた単衣をまとっただけで髪はほつれ、表情は虚ろ。
香を焚くことすらせず、ただただ、もうすぐ春を迎えようかという冬空を見上げている。
「憎い……憎いぞ……」
日に日に増していくのは、火の巫女・琴乃への憎しみだった。
少将へ嫁ぎたいからと無理やり白羽の儀をやめさせたのは、春姫である。喋ることのできない女なら断らない、そう言われて良しとした。
「あやつさえいなければ……わたくしは少将と結婚できたはずなのに……」
怨みは思考を鈍らせ、正常な判断を狂わせる。
憎しみを言葉にすれば、それは呪となる。
「なにが巫女よ……死ね……死ね……」
がりがりと高欄を爪で削る春姫の口角には、噛み締め過ぎたのか血が滲んでいる。
「ええ。死んでしまえば良いですね」
唐突な同意が、春姫の耳に降ってきた。
「……?」
「さすが姫様。高貴な生まれゆえ、そのお気持ちになられるまで、これほどのお時間がかかるとは」
顔を上げた春姫は、声の主を視界にとらえ、安堵する。
「おん、みょうじ?」
「はい。準備が整うてございますよ」
剃髪で袈裟姿の男が、玉砂利を鳴らしながら壺庭を歩いて春姫のもとへと近づいてくる。口からはすらすらと呪文のような何かを吐き出しているが、春姫には意味が分からないから、聞き流した。
「やれやれ。竜人最強の火を縛るに、これほどの贄がいるとは。苦労しました」
何を言っているのか分からないが、この男は、今まで自分のために働いてきた。きっとこれからまた、自分のために動くのだろう――絶対的な信頼は、春姫の頑なに閉じられていた心の扉を、いとも簡単に開いた。
男はするりと左手を持ち上げると、人差し指と中指を刀のようにして構え下唇へ添える。右手には、何かのお札を持っている。
「じゅんび、できた?」
「はい、姫様」
ぱああ、と明るく笑う春姫に、男も微笑んで見せた。
「白羽の儀を方位違えの儀とし、竜語を継ぐ御三家の姫の血を捧げよう――もはや竜皇などという、訳の分からぬ者に国を治めさせなどしない。ここは、人の世だ」
何を言われたのか分からない春姫は、ただぼんやりと首を傾げている。
「姫様の願いを、叶えまする」
という男の言葉に、満足そうに頷くだけだ。
「さあさ、今こそ。想いを解放しなさい」
男は右手に持っていた札を、高欄からだらりと外側に垂らしている春姫の腕へ、貼り付ける。
「なあに?」
「まじないです」
「あ……あ。あ」
「さあ、憎しみ。怨みつらみ。全てを力へ変えましょうぞ」
「ううう憎い。憎いぞ。あいつ。死ね……死なせる。おおおお、そうだ、ころす」
「はい。殺しましょう」
恋しい少将には袖にされ、権力を失い誰からも見向きもされず、孤独な姫は――
「あ。あ。あ。ああああ」
角が生え、牙が伸び――悪鬼となった。
❖
その頃、清涼殿の昼御座。
琴乃の穢れを吸った焔は、左大臣の神酒を飲み、回復していた。琴乃も目を覚まし、何事もなかったかのようにいつも通りの出仕をしている。琴乃の体調を見るためにも、その方が良いとの判断からだ。
焔は、茵の上であぐらをかいていたが、突然片膝を立て、呻くように言った。
「今……何か生まれやがった」
焔の側で文机に向かい、充輝の指導のもと扇合の礼状をしたためていた琴乃が、焔の緊迫した声に思わず顔を上げる。
「生まれた?」
焔は琴乃の問いには答えず、控えている充輝へ首を巡らせる。
「充輝。至急、陰陽寮へ号令を出せ。悪鬼討伐の令だ」
「! はっ!」
バッと立ち上がった充輝が、礼儀作法をすっ飛ばして駆けていく様を、琴乃は初めて見た。
それぐらい緊急の、しかも悪い事が起きているのか、と不安になり焔を振り返ると、やはり険しい顔をしている。
「この俺に、真正面から挑んできやがって」
物騒な言葉に、琴乃はみるみる顔を青くする。
「琴。大丈夫だ。すぐやっつけるから、心配するな」
そんな琴乃を安心させるためなのか、焔は珍しく口角を上げて慰めた。琴乃はその顔を見て、逆に不安でたまらなくなった――
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