静かな夜をさがして

左衛木りん

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第1章 邂逅

朝の特別授業

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目覚めるとそこは見たこともない場所だった。生まれたての朝の光が毛布の縁にふんだんに降り注ぎ、ひんやりとした空気が頬に心地良く触れている。可愛らしい小鳥のさえずりも遮るものなく近く明瞭に聞こえていた。

(俺はいったい…ああ…そうだ。昨日久遠に会って、ここに連れてこられて…)

静夜は昨夜のことを少しずつ順に思い出した。しかし記憶の遡及は久遠の歌の箇所でどうしても塞がれてしまう。

(昨日のことは憶えているが、昨日より前のことは思い出せない…俺は…いったいどうしてしまったんだ…)

朝の爽やかさとは対照的なわだかまりを抱えて布団の上に身体を起こすと、きらきらとこぼれ落ちる木漏れ陽の下で瞑想をしていた久遠が振り返って微笑んだ。

「おはよう、静夜。よく眠ってたな。気分はどう?」

「うん。熟睡できて、気分はいい」

「そうだろうそうだろう」

久遠はにこにこと上機嫌で布団の中の静夜の側にしゃがみ込むと、いきなりぐいと距離を詰めて間近に顔を覗き込んだ。

「記憶は?何か思い出したか?」

「…いや、何も」

「…そっか。まあ焦らずに、もう少し様子を見よう」

そう言って久遠は静夜の少し乱れた黒髪を、まるで小さな子供にするように優しく整えた。

昨夜は星かランプの明かりしかなかったので、静夜はこのとき初めて太陽の下で久遠の容姿や顔立ちをはっきりと見た。

今になって改めて実感したのは久遠がうっかり少女と見紛うほど中性的な美少年であることだった。とりわけ印象的なのは磨き上げた大粒のエメラルドのような翠緑の瞳で、それらは今にもはばたき出しそうな濃い睫毛に縁取られている。肌は脂っ気とは無縁の雪白だが、不健康な青白さではない。裾の近くで緩く結んだ髪は豊かに実った小麦畑の黄金色だった。

食い入るような静夜の視線を浴びて久遠は首を傾げた。

「どうした?そんなにボーッとして…腹ぺこで頭が回らなくなってきたか?でも大丈夫、朝食ならできてるから。ああ、食卓は地面だから下に下りるよ」

巨木の足許の裏手には、ほどよい明るさの葉陰の下に朝食一式が整えられていた。パンとバターとチーズ、山羊のミルク、そして熟した林檎と色鮮やかなベリー。先ほどまでは空腹など忘れていたのに、食欲をそそる食べ物の数々を前にするとたまらなくなって静夜はつい胃の辺りを手で押さえた。

「ははっ、腹の虫が鳴き始めたか。あり合わせのものだけどおいしそうだろ?パンは早起きして僕が焼いたんだぞ」

「君が?」

「うん。他のとのついでだけど。こう見えても料理は結構やるんだ」

切り株の腰掛けに向かい合って座り、久遠が手際良く食べ物を取り分けた。

「それじゃ…いただきます」

「いただきます」

出されたものはどれも新鮮で風味が素晴らしく、空腹の極みにあった静夜の舌も胃も満足させてくれた。そして気持ちが落ち着いてくると彼はだんだん食べる手を緩め、バターをつけたパンのひとかけを頬張ってもぐもぐ口を動かす久遠を見つめた。

「どうかした?」

「いや…原礎も人間と同じものを食べるんだなと思って」

昨夜の現実離れした不思議な光景が強く印象に残っている静夜は、あのときの久遠の姿と今の彼の姿との隔たりをどうあっても埋められないのだった。

「当たり前だろ、人間とは少し違ってるだけで、僕たちだって生身なのは同じなんだから。おまえの周りの原礎たちも普通にごはん食べたり酒飲んだりしてたろ?」

久遠の言っていることの意味がわからず、静夜はいよいよ自分で自分が怪しくなってきた。

「俺は君たちはいわゆる妖精か精霊のような存在じゃないかと思ったんだが…」

「さっきから何言ってるの?それくらい人間の間でも一般常識なのに…あ!もしかしておまえ、その辺の基礎知識まで忘れちゃったのか!?」

「本当に人間の間でも一般常識なら、今の俺はそういうことになるな」

「あちゃー…それで話が噛み合わなかったんだな。昨夜から何か妙だと思ってたんだ…それならそうと、早く言ってくれたらよかったのに。訳わからないことだらけだっただろ?」

「なんだか言い出しづらくて…すまなかった」

久遠はうっすら苦笑いすると、今度は胸を張って堂々とこう言った。

「よし、それじゃ僕が先生になって原礎のことを一から教えてやる。特別授業だから、心して聞くように」

「よろしくお願いします」

こうして久遠先生による臨時の特別授業が始まった。

「原礎とは、生まれつき体内に“煌源こうげん”という力の源泉を持つ種族のことだ。煌源からは“煌気こうき”と呼ばれる特別な力が絶えず生み出されていて、原礎はこの力をさまざまな術や戦闘に用いる」

「戦闘?…君たちが?」

「大森林の外には凶暴化した獣がうようよいるから、必要に応じて退治するんだ。属するいしずえによって向き不向きがあるけど」

静夜は早くも困惑に襲われていた。久遠の細身の外見や雰囲気からは、彼が勇ましく戦っている姿はとても想像がつかなかったのだ。

「でも原礎にとって最も重要な役割は、自然界を見守り、豊かさや安全を保ち、人間や生き物たちとの共存に資することだ。原礎は皆、ある程度成長すると居住地を出、世界中を歩きながら、その土地の傷や病のあるところを治して整えたり、暮らしに困ってる人間たちの手助けをしたりする。その旅は“星養い”と呼ばれてる」

「…すまない…待ってくれ。少し抽象的で…いまいちぴんとこない」

「そうだよな。具体的に言うと、例えば岩が崩落して道を塞いでたら、その岩を取り除いて元に戻す。降るはずの雨が降らず作物が育たなければ適量が降るよう雨雲を呼ぶ。人間が自分たちの力ではどうにもできないほど難渋してるときに少しだけ力を貸すのさ」

「なるほど…」

「人間の住んでない場所では、雪解けの進み具合や土の様子を観察したり、野生動物の餌が豊富にあるかどうか野山や川を見回ったりもする。たとえそこに誰も住んでなくても、山の向こうや川下には必ず人里がある。その先の影響を考えて、実害が生じる前にあらかじめ手を打つんだ」

「原礎たちの働きのおかげで人間社会は豊かな恵みを享受できているというわけか」

「と言っても僕たちは人間を積極的にどんどん幸福に豊かにしようと思ってるわけじゃない。基本的に人間たち自身に任せて、その異状や変化が自然の活動の範囲内で影響が小さければ僕たちは手を出さずに静観する。最も注意するのは急速で極端な開発や搾取。そして人間や動物そのものに直接干渉はしない」

ここで久遠はふうっと息をついてミルクをひと口飲むと静夜に笑いかけた。

「少々ややこしい話が続いたかな」

「いや。とても興味深く、勉強になる」

よかった、と久遠は再び微笑んだ。

「原礎たちが集まる居住地や居留地は世界中にたくさんあるけど、この大森林はその中でも世界で一番大きい森なんだ。ここでは常に多くの原礎たちが暮らしてるし、旅に出たり旅から帰ってきたり途中で立ち寄ったりする者の出入りもとても多い。すべての原礎をまとめる長老もこの森にいる。ここはすべての原礎の故郷なんだ」

静夜にはこの森がどれだけ広く深いのか見当もつかなかった。ただ、今の自分が久遠と同じように不思議な力と魅力を持つ者たちに囲まれているのだと実感した今、俄に翡翠の屋根と呼ばれるこの地のそこかしこから無数の輝く眼がじっと自分を見ているような気がしてきて思わず周囲を見回した。が、二人以外には誰の気配もなかった。

「君は旅から帰ってきた後なのか?それとも今後旅立つ予定が?」

すると久遠は笑顔を照れたようにくしゃっと崩すと手をパタパタ振って答えた。

「いや、その…恥ずかしながら僕はまだ修行中だからどっちでもないんだよね」

「そうなのか」

「うん。じゃ、次は礎の話をしようか」

礎とは原礎たちの力の種類のことだろうかと静夜はとっさに考えた。

「原礎たちは皆基本的には同じ力を持つけど、それぞれの力が最も強く発揮される得意分野というか専門がある。僕の場合はそれが草葉で、礎名にすると“瑞葉みずは”となる」

そこで久遠はテーブルの空いたところに果物の籠からコケモモの実をひと粒取って置いた。そして説明しながらもうひと粒、またもうひと粒、と並べていった。

「瑞葉の他には、樹木を司る樹生いつき、石や岩盤を司る石動いするぎ、金属や宝石を司る珠鉄たまがね、風を司る風早かざはや、雲や大気の流れを司る雲居くもい、雨や雪を司る氷雨ひさめ、川や泉を司る静流しずる、野菜や果物といった農産物を司る果菜かな、主食となる穀物を司る穂波ほなみ、花を司る咲野さくの、そして土壌を司る土門どもんがある。全部で十二あるから“十二礎”と呼ぶ」

並べ終わると卓上には十二粒がひとつの円の中に均等に配置された図案が出来上がっていた。静夜は頭の中で久遠の言葉を反復しながら真剣にそれを見つめる。

「ただしそれぞれは単独では仕事を完結できないことが多い。自然界は複雑に絡み合ってるから、礎同士がお互いに助け合う必要がある。果物と果菜の関係を例にとってみよう」

久遠の白い指先がそのうちのひと粒を強調するように持ち上げた。

「果物がおいしい実をつけるには、まず果樹が丈夫であることが必要だ。ここでまず樹生が関わってくる」

そう言って、果菜の実に樹生の実をちょんとくっつける。

「果樹が丈夫であるためには健康な土壌が不可欠だから、樹生が土門に相談することになる。そして土壌を潤す水に問題があるとわかれば今度は土門が静流を呼ぶ」

樹生の実に土門の実を、土門の実に静流の実を、と数珠つなぎよろしく結びつけてゆく。と、今度は別の方向の実が動く。

「葉の状態によっては瑞葉が呼ばれ、その後氷雨が加わるかもしれない。氷雨の後ろには雲居がいる。こういう感じで、礎は分かれてはいるが実際には協力し合ってひとつの仕事をするんだ」

「互いの補い合いや連携が重要なんだな」

「そのとおり。さまざまな状況に直面することになる僕たち原礎は、今目の前にある問題を解決するために何が必要か見極め、どう対処するか考えなければならない。いざというときに最善の策が取れるよう、僕たちは旅や修行をしながら常に学び続けてるんだ」

久遠は並べたコケモモの最初のひと粒をぱくっと口に放り込んだ。

「原礎は困り事の解決だけじゃなくて他にも人間たちの暮らしや営みにいろいろ力を貸してるよ。樹生や石動や土門は土木建築、穂波や果菜は農業、珠鉄は鋳造や鍛冶というふうにそれぞれの得意分野で知識や技術を提供してる。咲野は栄養価の高い特別な蜂蜜を、瑞葉はおいしい草を食べて健康に育った山羊のミルクやチーズやバターを作って売ってる。戦闘力の高い者は行商の用心棒や魔獣退治をしたりもする。その対価や報酬として得たお金や物資や生活道具で僕たちの暮らしも成り立ってる。つまり相互扶助、持ちつ持たれつのいい関係ってこと。ね、妖精や精霊なんてふわふわしたものとは全然違うだろ?」

静夜は目から鱗が落ちた気分で、同時にまだ少し呆然としながら大きくうなずいた。

「確かに…俺は誤解してたみたいだ。昨夜見た光景や君の姿があまりにも、その…神秘的だったものだから」

「それはきっと、この大森林自体が神秘的な場所だからだよ。ここは煌気の密度が世界一高いからね」

そこで久遠は空気を切り替えるように両掌をぽんと打ち合わせた。

「さて、とりあえず僕からは以上。何か質問とかある?」

頭の中を整理し、少ししてから静夜は尋ねた。

「君たちが発揮する煌気は無尽蔵なのか?」

「普通に使ってる分にはそうだけど、無理矢理一度に大量の煌気を引き出すとショックで煌源が一時的に休眠状態になり力が使えなくなる。僕は実際に見たことはないけど、回復するには治療と相当の時間が必要だと聞いた」

「そうか。…それから、礎というのは親から子へ受け継がれるものなのか?それとも自分で選んだり、師から授けられたりするのか?」

「ううん、礎は親の礎に関係なくひとりひとりが個別に持って生まれてくるものなんだ。例えば、僕は瑞葉だけど父は雲居・アリスタ・光陰みかげ、母は風早・オーゼル・刹那せつな。そして姉は…ああ、僕たち双子なんだけど、樹生・アリスタ・永遠とわ。全員違うんだ」

「…」

静夜は質問への回答の内容よりも、久遠の口からごく自然に家族の名前が出てきたことの方が驚きだった。だが今の彼の周りに肉親たちの存在は感じられない。静夜がとっさに何も返せず後悔を露わにしているのを見て取ると、久遠は正面から真っ直ぐに彼を見つめて静かな声で言った。

「静夜って、優しくて正直な性格なんだね」

そして柔らかく屈託なく微笑んだ。

「意地悪してごめん。気にしなくても大丈夫だよ。別に珍しい話じゃないからさ」

「いや…」

「父は僕たちが生まれてすぐ姿を消して、今どこにいるかも知らない。母は小さいときに死んだ。姉さんは…」

なぜか久遠の声が詰まり、沈黙が差し挟まれる。

「…姉さんは旅に出てる」

その瞳には正体のわからない翳りがあり、うっすら浮かんだまま張りついた微笑は、どこか固く見える。

(…今のは…)

自分のことを正直な性格と言った久遠の方も同じくらい正直なのではないか。彼が垣間見せた憂惧を静夜はそっと胸の中にしまい、何も気づかなかった素振りで返した。

「そうか。星養いの旅に」

「うん」

すると久遠も当たり障りのない雰囲気で人懐こそうに笑った。

「早く静夜のこともいろいろ聞けたらいいのになあ」

「ああ」

取り繕ったような明るさも、ぎこちなくなった空気を和ませるには十分だった。

「…おっと、だいぶ話し込んじゃったな。そろそろ片づけるか。でさ、それが終わってひと休みしたら、付き合ってもらいたいとこがあるんだけど」

「もちろん。でも、どこに?」

「ついてくればわかるよ」

秘密めかして悪戯っぽく綻ぶ表情は、いつの間にか元どおりの、彼らしい朗らかさだった。
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