静かな夜をさがして

左衛木りん

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第5章 相思

名もなき若葉

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明夜が動かなくなると静夜は剣を収め、小さくひとつ溜め息をついてから決意を込めきっぱりと言った。

「明夜が死に、黄泉がいない今のこの機会にこの砦を解放する。曜さんと界くんは誰も立ち入らないようこの実験室の保全を。暁良、おまえは脱退を望む者たちを糾合して一箇所に集めてくれ。俺は久遠と耶宵を助け出し、迦楼羅を取り戻しに行く」

「わかりました」

「わかった」

「了解。気をつけてね」

瞬ひとりだけは三人から離れて静夜に近づいた。

「僕は君と一緒に行くよ。久遠の様子が心配だから」

「お願いします」

そこで五人は三手に分かれ、それぞれの行動を開始した。



夜が深まり始める頃、夕食を終えた久遠は寝台に横になって虎視眈々と潮時を待ち構えていた。もうすぐ牢番の交替の時刻だ。必要な煌気は回復している。あとは機を逃さずに動くだけだ。

果たして階段の下から今日も定刻どおりに次の担当者がやってきた。

「交替の時間だぜ」

「ご苦労様」

(…来た!)

二人は定例の申し送りを始める。二人の注意がそれている間に久遠は素早く布団や敷物をかき集め、寝ているように見せかけるため、こんもりとした形に整えて毛布を被せた。そして意識と煌気を集中させ、葉変の術を自らにかけた。最初に旅に出る前に特訓した術のひとつだ。

(本当に使う日が来るとは思わなかったけど、一応習得しといてよかった…)

二人の視界の外で金色の光に包まれた久遠はたちまち一枚の緑葉に変化していた。

「じゃ、あと頼むよ」

「お疲れさん」

申し送りを終えて二人が離れる。今だ、と勢いよく宙に舞い上がって鉄格子をすり抜け、階段を下りようとする前任者の頭巾に飛び込んだ。やった、と心の中で拳を握る。そのまま久遠は階下層へ運ばれていった。

何も知らない後任者は遠目に檻の中を眺め、寝台の上の布団の塊を見て肩をすくめた。

「なんだ、もう寝てるのか」



宝物庫の場所は最初に連れてこられたとき明夜が迦楼羅を入れるのを見ていたので久遠はしっかり記憶していた。今彼はそのときの道筋を着実に逆行している。始めは退勤する牢番の頭巾に潜り込んで運んでもらったが、途中で枝道にそれたため、頭巾から通路に飛び出して床を流れる風と煌気の流れに乗って懸命に進んでいた。

(…おっと!)

のしのしと歩いてきた巨大な二本足に踏みつけられそうになり、慌ててよけると今度は足運びが起こす突風に煽られてくるくると舞う。

(…ふう、危ない危ない…さりげなく端っこを歩かな…いや、飛ばないと)

ひやひやする場面を何度もくぐり抜け、苦労しながらようやく宝物庫にたどり着いた。鉄格子の扉の奥にさまざまな箱や袋、行李、立てかけられた武具などが所狭しと詰め込まれている。幸い、入り口付近の椅子に座った番人はうとうと舟を漕いでいる。葉に変化した久遠はかさりとの音も立てずに鉄格子の中に滑り込むと、そこで術を解き、人の姿に戻った。

目の前には、鞘に収まり、木箱の上に置かれた迦楼羅が。

(やっとこのときが来たよ、静夜…)

胸の高鳴りを抑え、迦楼羅をそっと手に取る。それは信じられないほど重く、ずっしりと両手にのしかかって久遠は思わずよろめきそうになったが、なんとか縦向きに抱え直した。

(こうして迦楼羅を抱きしめてると静夜のぬくもりを感じる気がする…静夜が側にいるみたいに思える…)

あまりの恋しさに状況も忘れて迦楼羅を抱きしめ、冷たく硬い漆黒のその鞘に頬を寄せる。久遠にとっては数多の死と禍いと争いを呼んだ魔剣さえ、愛しい人の体温や匂いを思い出させる美しいよすがだ。しかし今は彼の残り香に浸っている時間はない。何しろ久遠は迦楼羅を壊そうとしているのだ。

(早く戻らないと)

他の宝物をくるんでいた大きめの布を剥がし、迦楼羅に巻いて隠す。そして外から鍵のかかった扉の前にしっかりと両足を開いて踏ん張り、息を殺して鍵に片手を伸ばす。

パキンッ!

瞬間的に発生した小さくも強烈な煌気が鍵を破壊して扉を開けた。すると案の定、音に驚いた番人が目を覚ました。同時に久遠は扉から風のように彼に襲いかかった。

「…お、おまえ、どうしてここに…!…ごふっ」

突き出された迦楼羅の柄頭が鳩尾に深々と食い込むと番人は失神してばたりと昏倒する。久遠は番人の身体を優しく床に転がすと、その頭巾つきの上衣を注意深く、かつ大急ぎで脱がせた。

その上衣を着ると、そこにいるのは誰がどう見ても布にくるんだ長物を運ぶ、仕事中の小柄な団員だった。

「…ごめんね」

久遠は気の毒のあまり床に倒れた番人にそうささやいた。しばらくは起きないだろう。どうか少しでも長く眠ってて、と心に祈って腰を上げたとき、久遠はびくっとした。

…ウオオォォォォ…

あの不気味な咆哮がまた聞こえたのだ。今度は前よりも近くから響いてくる感じがする。

「まただ…いったい何なんだよ?」

ふーっと吐息を漏らすと久遠はそそくさと宝物庫を後にした。



人の姿に戻ってからはこそこそせずに堂々と通路を闊歩したため久遠はまったく怪しまれずに自分の牢部屋まで上ってきた。しかしそこには最後の関門である牢番が待ち構えていた。ろくに監視もせず、久遠の脱獄にも気づいていないらしく緊張感や切迫感が見られない。しかし頭巾で顔を隠した謎の団員が現れたので不審そうに椅子から腰を浮かせた。

「…誰だあんた?ここはただの牢屋だぜ…うぐっ!」

あの番人同様腹に迦楼羅の強烈な一撃を受けた牢番は床にあっさり倒れ伏した。怠慢ではないかと思うほどのあっけなさに拍子抜けしてしまう。

(まあ、その方が都合がいいけど…)

準備は整った。久遠は牢部屋の檻の手前に迦楼羅を置き、その前に胡座で座ると襟許から瑞葉の精髄を引き出した。

何度か深呼吸を繰り返して心身を落ち着け、握りしめたエメラルドの石に全精神力を集中させる。生涯に一度だけ使うことを礎から許された乾坤一擲の力を解放するために。

(残りわずかな森羅聖煌でアグニを破壊した姉さんが、煌気で武器を物理的に破壊できることを証明してくれた…それなら…仮に僕みたいな役立たずのはしくれでも、これだけの煌気を注げば…!!)

迦楼羅にかざした左の掌に黄金と翠緑の渦巻く光輝が現れ剣身全体を次第に覆い尽くし始める。普段発揮する煌気とは異なる質の力だ。急速に輝きが増し、強くなるにつれ、久遠自身も光と熱を帯び始めた。今まで感じたことのない圧力に、ここを先途と耐え忍ぶ。

(煌気も煌源も、全部失っても構わない…瑞葉の礎よ、お願いだから僕の声に応えて…僕に、最後の力を…!!)

ぎゅっと目を瞑り歯を食いしばってその瞬間を待つ。

だがそのとき、右拳の中に握っていたものが消え失せた。

久遠がはっと我に返ったとき、目に見えていたはずの二色の煌気は風に吹き散らされる霧のようにかき消えていた。迦楼羅は月明かりの下に変わらず横たわっている。何事もなく、彼の努力を冷笑するかのように。

拳を解くと、粉々に砕けたエメラルドの破片がこぼれ落ちた。頭の底が抜け、目も口もぽかんと開き、久遠はしばらくそのまま動けなくなった。

失敗だった。彼の決意と計画は徒労に終わったのだ。

数呼吸の後でやっと声が出た。

「…は…ははっ…そっか、やっぱり無理かぁ…だって、俄様でも無理だったんだもん…最初からわかってたことじゃないか…」

自分でも驚くほど明るい声に、笑いすら混じる。だが笑うだけ笑うと、恐ろしく冷めきった現実が有無を言わさず心を埋め尽くして絶望に塗り替えていった。

(もう僕には何の役割もない…役割を持つ価値もない)

約束を果たすために訪れた虚無の足音が聞こえる。ついに、本当にそのときが来たのだ。

(…これが本当に最後だ。行こう、迦楼羅)

久遠はゆっくり立ち上がり、エメラルドの屑とちぎれた鎖を床に振り落とすと、再び迦楼羅を抱えて牢部屋を出た。そして、さっき上ってきた階段のさらに上へと続く細い階段をとぼとぼと歩いていった。



静夜と瞬は鍵の保管庫に急行していた。変装や覆面はもはや不要だった。隠密から公然へと舵を切った静夜は素顔をさらし、駆けながら歯切れの良い澄んだ大声で触れを発し続けた。

「首領の明夜は死んだ!瑪瑙の窟はまもなく解放され原礎の管理に委ねられる。組織に不満を抱きこれを機に出直したい者は暁良のもとに集え!留まりたい者は他の拠点に移りそこの副首領の配下につけ!いずれの場合も争いや強要、忖度は無用だが、歯向かう者は容赦なく拘束する!自らの心の声に従って道を決めろ!」

解放と変革の時を告げる静夜の声を聞いた大勢の若者たちが閉ざされた扉を開け放ち、嬉々として飛び出してくる。

「静夜さん…!静夜さんの声だ!」

「静夜さんが戻ってこられたぞ!!」

「こうしちゃいられない…!早く支度しろ!」

瞬は待機させている瑞葉の弟子たちに至急応援を要請する言文の葉を手近な窓から空へ飛ばすと、前を走る静夜の背中にふっと微笑んだ。

「まったく大した指揮官ぶりだ…見て、みんな慈雨を浴びた青葉のように生き生きとしている。氷雨の礎主も顔負けだね」

「…俺は指揮官や首領の柄ではありませんよ」

「そうかな?でも、君の行動力と求心力にはひたすら敬服するばかりだよ」

謙遜も行き詰まってしまい静夜は押し黙った。自分の言葉に聞く者の心にそれほど強く響き訴える力があるなどとは考えたことがなかったし、むしろ何もできなかったという無力感と悔悟の念に苛まれてここまで来たのだ。そうしているうちに二人は鍵の保管庫までやってきた。

「耶宵ですか?今はいませんけど」

この時間の当番の者が突然現れたお尋ね者の副首領と美貌の原礎に困惑しながら答える。

「宝物庫と牢の鍵はあるか?」

「あります。こことここに…あっ!し、静夜さん!?」

「もし耶宵が来たら先に牢に行っていると伝えろ!」

指差された二つの鍵を摑み取って二人は再び通路に飛び出していった。



「…さて、どうしたものかな」

静夜と瞬、それに暁良が出払った後、残された曜と界は閉め切った実験室の扉を中から防備していた。

「どうしたもこうしたもないでしょ、曜さん。ボクたちの役目は誰も入れないようここを見張ることなんだから」

「いや、それはそうなんだが…さすがに何もやることがないと退屈でな…」

「ちょっと待って。こんなとこでボク相手に剣術の稽古しようなんて考えてるなら絶対お断りだからね!」

界は背後にモノたちにぞっとしたような視線を走らせた。両側の壁一面には意識のない人間たちが眠る多数の筺体、そして床の中央には横たわる明夜の怪物化した巨体。一刻も早く静夜たちに戻ってきてもらって外に出たかったが、それがいつになるかは皆目見当もつかない状況だった。しかし曜の方はけろりとしている。

「こんなので怖気づいてどうする。実際の任務や戦場では障害物に魔獣や怪物の死体、何でもありだぞ」

「それはわかってるけど…」

「ああ、退屈だ。おまえが静夜だったらとっくにこの場で稽古を始めてるとこなんだがなあ」

「曜さんってさ、絶対心臓に毛が生えてるでしょ」

「はあっ!?何だと、もう一回言ってみろ!」

売り言葉に買い言葉の不毛な応酬を繰り広げ始める二人は気づいていなかった。今いる空間のどこかで何かがひそかに蠢き出していることに。

「なんでそんなに静夜にこだわるの、曜さん」

「それはだな…あいつの戦う姿を見てると私の戦士の血が騒ぐというか、なんだかこう、うずうずしてくるんだ。珠鉄のどの兵団にもあんな奴はいない。最初こそ恥をかかされたと思ったが、以来あいつのおかげでますます鍛練に身が入るようになってな。あいつには感謝してる」

「お礼は言った?」

「いや」

「言わないの?」

「う、うーん…言った方がいいだろうか?」

「さ、さあ…」

雑談している二人から離れた床の上で、投げ出されたまま固まっていた明夜の指がぴくっと動く。と、次の瞬間そのまぶたがカッと開き、続いてその巨体からは想像もつかない俊敏さで明夜は起き上がった。ズンという地響きに曜と界は飛び上がって振り返り、死んだと思っていた明夜が目を覚まして立っていることにさらに仰天した。

「おい、どういうことだ!?」

「あいつ、い、生きてたのか!?」

明夜は筋骨隆々の身体をぐぐっと伸ばすと、首がもげるほど後ろに反らして屈強な哮りをほとばしらせた。

「静夜…静夜…!!おまえのすべては俺のもの…絶対に自由になどさせんぞ!!」

床を蹴って明後日の方向へと跳躍する明夜を追い、二人は慌てて駆け出す。

「待て、明夜!!」

追いかける二人には目もくれず、まっしぐらに走る明夜の進路上に、黒々と口を開けたもうひとつの出入り口が。

「しまった!奥に別の扉が…!」

明夜が猛烈な勢いで扉に飛び込むのとほとんど同時に両開きの扉はバタンと閉まり、カチリと音を立てて沈黙した。わずかに遅れて到達した二人は閉じた扉にぶち当たった。扉の合わせ目は糊で固めたようにぴったりとくっついて押しても叩いてもびくともしない。

「くそっ、開かない…!からくり仕掛けか!?」

「入ってきた方から出て静夜たちを捜そう!早く知らせなきゃ!!」

最初の扉のところに来たとき曜が振り向いた。

「警告に行くのは私ひとりでいい。あっちには瞬様がおられるから。おまえは私が出ていったら扉を内側から氷漬けにしてここを守り、誰かが戻るのを待て!」

「ええっ!?こんなとこでひとりで…!?」

「頼んだぞ、氷雨の期待の若手くん!」

「…っ!!」

一方的に言って返事も聞かずに曜は飛び出していってしまう。ぽつんと取り残された界は少し寂しげで情けない表情からすぐに立ち直り、背筋をしゃんと伸ばして扉に対峙したーー



「久遠!…久遠!」

静夜と瞬が牢部屋にたどり着くと、そこには倒れた牢番と空っぽの檻の前で右往左往する耶宵の姿があった。

「…耶宵!」

「静夜さん…!!」

静夜の顔を見た耶宵は混乱と半泣きの表情から一転、喜色満面で静夜に抱きつきその胸に顔を埋めた。静夜はその背中を軽く叩いてやった。

「絶対来てくれるって信じてました!兄貴に送った文、ちゃんと届いたんですね?」

「ああ。だからこうして来た。もちろん暁良も一緒に…それから、原礎の仲間たちも」

静夜の胸から離れた耶宵は彼の後ろにいる美しい青年に気づくと目をぱちくりとさせた。

「それより、久遠はどこに?」

「それが…騒ぎを聞いたときたまたま牢の階段の下にいたんで、先に久遠くんに伝えとこうと思って来たら、鍵はかかったままなのに久遠くんがいなくなってたんです…!それでどうしようか迷って…」

「久遠が、消えた?」

静夜と瞬は揃って眉をひそめ、顔を見合わせた。静夜が檻の中を覗き込む一方、檻の前の床面を調べた瞬は、自分が授けた瑞葉の精髄の粉末に近いわずかな欠片が牢部屋の入り口を抜け上り階段の方へ足跡のように連なっているのを見つけた。

「上だ」

「えっ?」

「行こう。早く!」

一陣の風に乗って飛ぶ緑葉のようにひらりと駆ける瞬に、静夜と耶宵も急いで続いた。



迦楼羅を抱えた久遠が階段を上りきって出てきたのは赤い岩石の崖のてっぺんだった。他に通じる道も、崖を下りる段々も見えない。若い団員が上司に内緒で羽を伸ばしてひと休みする隠れ場所なのだろう、そこは鬱蒼とした暗く広大な森を見晴らすだだっ広い吹きさらしの露台だ。ただ眺望は素晴らしく、遥か眼下の渓谷を流れる水の音が、三日月のかかる星空に轟々と絶え間なく響き渡っている。その渓流が無数の沢やせせらぎを集めて深く広い川になり最後は海へと流れ出ていることを久遠は牢番たちの会話から盗み聞いて知っていた。

「もうこうするしか…静夜を自由にしてあげるには、この方法しかない…」

もちろん、ただ川に流しただけでは浮かび上がったり岸に打ち上げられたりして人目に触れる危険性が高い。煌狩りの捜索隊に発見されることは十分に考えられる。そうなれば元の木阿弥だ。

深い海の底ではすべての物質的存在が長い時間をかけてやがて完全に朽ち果てると聞いた。その海まで迦楼羅を確実に運び、誰も手の届かないその底へと沈めるには、どうしてもが必要なのだ。従って自分の身体以外には何も持たない久遠が至った結論は極めて単純明快だった。

「今日僕は生まれて初めて誰かの役に立つんだ…黄泉と明夜の野望が打ち砕かれて、静夜が姉さんと無事に、幸せに生きられるなら…僕も、こんな幸せなことない…」

幸せだと言いながら、なぜか涙がひと筋、頬をこぼれ落ちる。それを乱暴にぐいっと拭い、久遠は顎を上げて晴れやかな声を出した。

「この目で海を見るのは初めてだ…広くて、静かで、青一色で…きっと綺麗な場所なんだろうな。静夜と二人で初めて見た世界と、どっちが綺麗かなあ…」

それもじきにわかるーーうっすらとした微笑の下に固い覚悟が透けた。

「でも…最後に一度だけ、静夜の顔を見たかったな…」

久遠は迦楼羅を離さないようしっかりと抱きしめた。くたびれた靴の爪先が、じゃりっ、と鳴って崖の縁へとにじり出る。そのときだった。

「久遠!!久遠!!」

ばたばたと慌ただしい複数の靴音と自分の名を呼ぶ声が階段の下から駆け上がってきたので、久遠は身体をビクッと硬直させ、振り返り、はっとした。

静夜が階段の口に立ち、肩を上下させながら彼を見つめていた。

「…静夜…!!」

今まさに最後に一度だけと望んだその人と突然再会し、夢か幻覚でも見ているかのような眩暈がした。静夜は真摯な瞳で久遠に語りかけた。

「遅くなってすまない、久遠…さあ、一緒に帰ろう…永遠や彼方さんが心配して待ってる」

しかし我に返った久遠は迦楼羅をぎゅっと抱きしめて後ずさり、優しく手を差し伸べて近づこうとした静夜を拒んだ。

「…だ、駄目だ、来るな!僕は帰らない…迦楼羅と一緒に行くってもう決めたんだ!」

「迦楼羅と一緒に、って…」

久遠の視線が一瞬ちらりと崖下に落ちる。何を考えているのかをすぐさま悟って静夜は愕然とし、声を張り上げた。

「馬鹿なことを考えるな!!破壊する術が見つからないからといって、君の命に替えていいはず…!」

「でももうこうするしかないんだ!何の役にも立たない、ろくに力もない僕には…おまえのためにできるのはこんなことくらいしか…!」

目に涙を溜めて喚き散らす久遠を瞬と耶宵が固唾を呑んで見つめている。静夜の目許もいつしかうっすらと赤みを帯びていた。

「そんな…それは絶対に違う!君がいなければ俺の世界は灰色なんだ!力がなくてもいい、誰に何を言われても構わない。俺は君に側にいて欲しい…君と一緒にいたいと、心からそう思ってる…」

「でも、おまえは…姉さんと…」

「君は思い違いをしてる。俺と永遠の間には何もない。俺は君が…他の誰でもない君が好きなんだ!君は君らしくありのままでいい…だからどうか離れないで、俺と一緒に生きてくれ!!」

「…!」

けして饒舌だとか雄弁ではない、静夜の質朴で一途な叫びは久遠の胸に熱く、柔らかく、真っ直ぐに突き刺さった。冷たく凝り固まっていた心が騒ぎ、脈を打って動き出す。

「ぼ…僕っ…」

思いもよらない告白に激しく動揺し、どうすればいいかわからずに立ち尽くす久遠の背後にこのときひそかにじわりと接近する者がいたことに一同は気づいていなかった。

「…見つけたぞ、静夜…俺の大切な息子…!」

彼だけが知る秘密の抜け道を通ってきた明夜は岩陰から突如姿を現すと、無防備な久遠の背中に襲いかかった。

「久遠、後ろ…!」

あっと思った瞬間久遠の細い身体は迦楼羅を抱きしめたまま怪物のごつごつとした巨大な手に摑み取られ、月まで届けとばかりに宙に高く差し上げられていた。

「久遠…!!」

星空の下、血まみれで仁王立ちした明夜は勝ち誇ったように哄笑した。

「…ふっ、ふははははっ!!捕まえたぞ…おまえの大切なもの、二つとも!!どうだ、これで手も足も出まい!!」

「…しゅ、首領、な、なんでそんな姿に…!」

「…そんな…あのとき、確かに…」

「明夜、貴様…生きていたのか!!」

静夜が怒りも露わにレーヴンホルトを抜き放つ。

「俺があれしきの剣で死ぬとでも?俺はおまえのためにここまで捧げたのだ。煌気移植の技術を舐めるなよ!!」

「あなたが欲しいのは俺だろう!?久遠は関係ない!その汚い手を離せ!!」

「おっと、それ以上近づくな。このちびが握り潰されてもいいのか?」

怪物の握力と身に食い込むような迦楼羅の硬さに二重に圧迫されて久遠の顔がますます歪む。そのとき静夜の脳裏に骨と皮とはらわただけにされた仔兎の残影が浮かんだ。

「く…っ!」

板挟みにされた静夜は全身を震わせ歯噛みした。いかに明夜が衰えていてもこのまま久遠の息の根を止めることは不可能ではない。そしてその危険は静夜を無抵抗にするには十分な凶器だということを明夜は承知しているのだ。

「…僕のことはいいから…みんな逃げて…!」

肺も喉も詰まらせながら必死に声を絞り出す久遠の苦悶の表情に、三人はなす術もない。

「頼む…久遠は…お願いだから、久遠だけは死なせないでくれ…」

明夜の邪悪で卑劣な思惑どおり、静夜は攻撃の構えを解き剣を握った腕をだらりと下げた。その様を視線でねぶり回すようにとっくりと眺めると明夜は下卑た笑い声を漏らした。

「いいな、いいな、その無気力な顔!そうだ、おまえは昔俺の言うことをよく聞く従順でおとなしい少年だったじゃないか。ようやく自分を取り戻したようだな!」

明夜は久遠を鷲摑みにしたまま静夜に迫り、今度は彼を勢いよく足蹴にし地面に踏み倒した。

「さあ、この父に屈服しろ!!無力な子供だった頃のように!!」

「…ぐ…!…ああああ…っ!」

静夜の胴に乗せた足に巨体から体重が移るにつれ、肋骨がきしんでメキメキと嫌な音を立てる。

「や…!やめ…!!」

明夜とほぼ同じ視点からそのむごたらしい光景を見させられた久遠は両目から涙をぼろぼろとあふれさせた。そのとき明夜の意識が静夜ひとりに向いた隙を見て瞬はひそかに集め待機させていた煌気を解き放った。

「ーー〈翠刃〉!!」

久遠や並みの弟子たちが使うのとは桁違いの数と威力を誇る緑葉のナイフが鎌鼬のように明夜を強襲した。研ぎ澄まされたナイフは剥き出しの身体にすべて命中したものの、明夜はまだ立っている。興奮と狂気、また静夜に対する妄執と独占欲で感覚を失くしているようだ。

「少し痛いがこの状況は変わらんぞ、瑞葉の親分殿!それ以上ちょっかいを出すならまずこのちびを握り潰し、静夜もこのまま踏み潰す!」

そう脅された瞬は二射目を躊躇い、耶宵は半狂乱に陥って泣き叫んだ。

「そんなことしたら静夜さんが死んじゃう…!利用するつもりのはずなのに、矛盾してる…あんた、頭がいかれてるよ!!」

「まともな思考能力や論理整合性を完全に失っている。本物の狂人になり果てたか…」

あらゆる手ごたえにニタリとほくそ笑んだ明夜はそのとき自分の足と地面の間でもがく静夜の手から何かが外れて転がり落ちるのを見た。

「何だ、これは」

明夜が首を傾げて拾い上げたのは日月がくれた白詰草の指輪だった。

「…!」

気づいた静夜と久遠の目の色が変わる。

「触るな!それは…日月の…!」

「ふん、くだらん。なんだ、こんなもの」

明夜は指先につまんだ小さな指輪をこれ見よがしにもてあそび始める。

やめろ、と久遠が喉を振り絞りかけた刹那、思い出の指輪は醜悪で乱暴な指先の間で無残に砕け散った。

日月の愛らしい笑顔が霞んで遠ざかる。

「ーーーーッ!!!!」

ぱらぱらと降りかかる欠片を浴びて静夜は声もなく絶叫した。

「あ…あ…あ…」

見開いた久遠の両の瞳から焦点が消え、その顔がすーっと感情を失う。まさにそのときだった。

明夜の拳の中で迦楼羅を抱きしめた久遠の全身から突如としてまばゆい光が放たれたーー
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5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。 その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。 そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。 一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。 初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。 表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。

大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!

藤吉めぐみ
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。 そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。 初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが…… 架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。

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