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第7章 成就
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「…あおい」
柔らかい女性の声が聞こえる。
「あおい…蒼衣…」
その声が自分に向けられていることがわかると彼は目を開けたが、視界のあまりのまぶしさに思わずまた目を細めてしまう。
白く発光してぼやける輪郭のその人は穏やかに微笑んでいるように見えた。
その人が笑うと彼はなぜか嬉しくて、この嬉しさを伝えたいのに、いくら頑張っても喉は働かなかった。それでもその人は彼の気持ちを理解したかのように朗らかな笑い声を立てた。
「蒼衣…生まれてきてくれてありがとう」
「…幸せを教えてくれてありがとう…」
彼は声の代わりに手を伸ばしてその優しいささやきに応えようとした。しかしそのとき二人だけの白い世界を金色の光が包み込み、その笑顔を覆い尽くした。やがてすべてが淡い金色に染め上げられた後、彼はもう何も憶えていなかった。
眠りから覚めたとき、静夜にはそこが妖精の臥所の病室であることがすぐにわかった。薄いカーテンの引かれた窓越しの外光の明るさと色合いから、今は午前中に違いない。自分は笞刑を受け大怪我をして入院しているのだーーふとそう錯覚したが、じっと天井を見つめるうちに彼の記憶は時間の経過をたちまち取り戻した。知り得る限りのことを思い出すと、彼は布団の中から片手をそっと出し、信じられない思いでまじまじと眺めた。
(生きてる…どうして…)
それからその手を胸に乗せる。そこは確かに邪悪な炎に貫かれたはずなのに、痛みや違和感すらない。怪訝に思いながらゆっくり肘をついて身体を少しだけ起こしたとき、彼は見慣れた金髪の頭がベッドの縁に突っ伏しているのに気づいた。久遠は肩を規則正しく上下させて熟睡している。久遠も無事に生還してくれていたのだとわかると自然と安堵の溜め息が出た。
「久遠…」
彼はその肩に触れようとして考え直し、手を引っ込めた。きっと夜通し付き添ってくれて疲れ切っているのだろう。起こしてはいけないーーそう思うと同時に久遠は気配を感じたのか、ぱっと額を上げた。ぽわんと寝ぼけた目と、目が合った。
「…静夜…!!」
久遠は反射的にその場で身を乗り出して静夜の懐に頭を埋めた。静夜はしがみついて離れない久遠の身体を両腕にできる限り深く包み込んで優しくあやすように叩いた。解かれていた髪が首筋から垂れて久遠の頭に被さった。
久遠は顔を隠したままくぐもった声でぼそぼそと言った。
「ねえ、わかってる?…僕がどれだけ悲しかったか」
「…すまない」
「…あんな無茶なこと、もう二度としないって約束して…お願いだから…」
「うん…約束する」
静夜はそう言ってから久遠の両肩に手を置いた。どうしても確かめなければならないことがあった。
「教えてくれ、久遠。…戦の勝敗は…」
静夜はあの後のことを知らないのだ。顔を上げた久遠は気を取り直して真面目な顔つきで答えた。
「実は僕も最後の最後まで見届けられたわけじゃないんだけど…勝ったのは僕たち大森林側だ。結界や内部への被害はなし、迦楼羅も無事だ。…もっとも、戦死者と負傷者はかなり出たし、黄泉にも逃げられちゃったけど…詳しくは後で順番にゆっくり話す…」
「…うん」
久遠は重大なことをひとつ隠していたが、まだ切り出す決心がつかなくて黙っていた。代わりに当たり障りのない問いをおそるおそる投げかける。
「身体の具合はどう…?」
「それが…何ともないんだ。どこも痛まないし…むしろ身体中に力があふれてるみたいで、今すぐ鍛練できそうなくらいだ」
軽く目を瞑って胸に手を当てていた静夜は驚きの目を見開いた。
「…肋骨の痛みもなくなってる」
「治療師さんたちが言うには、あばらのひびは完治してるって。自分では見れないからわからないと思うけど、背中の笞刑の傷痕も完全に治って綺麗になくなってるみたい」
それを聞いて静夜はすぐに寝衣の前をはだけ、上半身を露わにした。灼舌に貫通されたあの傷はおろか、過去の古い傷痕の数々までもがすっかり消えている。久遠も、彼の背中を改めて確かめてうなずいた。戦いや死とは無縁の人生だったかのようにまっさらな身体だった。
「…嘘みたいだ」
「裁鞭の傷痕は一生消えないって見立てだったから、治療師さんたち、驚いてたよ…耶宵さんは…泣いてた」
「耶宵には絶対救護所には来るなと言われたのに…さぞかし心配させただろうな」
「…」
久遠はどう答えるべきかわからない苦しさにうつむいた。静夜は後から後から湧き上がる疑問で頭がいっぱいで、そんな久遠の表情にまだ気づいていない。
「黄泉のあの一撃…致命傷だったはずなのに、どうして助かったんだろう。もしかして、宇内様が何か特別な治癒か再生の技を?」
「…違うよ…姉さんが助けてくれたんだ…」
「永遠があの傷を…?いったいどうやって…そう言えば、永遠はどうしてる?演説会の日以来、一度も顔を見てないんだが」
「…っ…!!」
久遠はほとばしりそうになる激しい感情を歯を食いしばって抑え、それでももうそれ以上隠し通すことはできず、静夜の裸の胸に掌を強く押しつけた。
「姉さんはいるよ…ここに…おまえの胸の中に」
「…?」
『僕の煌源をおまえにあげる…そうすれば命は助かるから…!』
何かのたとえ話か、とぎこちなく首を傾げていた静夜の瞳が、唇が、久遠の叫びを思い出した瞬間、凍りついたように硬直した。
「…まさか…」
久遠は少し顔を伏せてついに真実を口にした。
「姉さんはある秘術のために煌気をほとんど取り出してひそかに別の場所に移してたらしい…最低限の体力と衰弱した煌源だけを残して…その煌源を…おまえの体内に…」
「俺の身体に、永遠の煌源が…?」
静夜の顔から血の色が引いた。自分の胸を呆然とした目で見下ろし、震える声で尋ねる。
「それで、永遠は…どうなったんだ…?」
「肉体を失い、姿を消して、いなくなった…今は…まだ」
会うことはできないーーそう結ぼうとした久遠の言葉を遮って静夜は彼の両肩を力任せに摑んだ。
「それじゃ、俺は…俺は、永遠の命を喰ったのか?俺を助けるために永遠は自分の命を犠牲にしたのか?」
「違う!姉さんは死んだわけじゃない。僕にもまだはっきりしたことはわからないけど、消える間際、姉さんは自分は煌源と肉体を放棄する代わりに別の存在になって生き続けるって言ってた…だからもう少しだけ待てと」
「だとしても、永遠が俺のために身を削ったのなら同じことだ!俺が…俺が愚かなばかりに、永遠を…君のお姉さんを死なせた…俺が…俺のせいで…!!」
悲嘆、後悔、そして自己嫌悪。激しく動揺するあまり静夜は理性と自制心を失い、久遠の腕の中で泣き崩れた。年齢も立場も大の男であることも忘れ、取り乱し、声を上げて身も心も壊れるほどむせび泣いた。久遠もあのとき受けた衝撃と悲しみを思い出し、たまらず静夜を抱きしめて嗚咽したが、しまいに彼が煌源のある胸に爪を立てて自分を傷つけようとするので、力ずくでその手を押さえて止めた。
「よく聞いて、静夜…姉さんはすぐにまた会えるって言ってた。それに、おまえが生きてる限り、姉さんもおまえの中で煌源という形で生き続けるんだ…姉さんの考えと判断を尊重してあげて」
「でも…でも…!!」
「そんなに泣かないでよ、静夜…せっかく助かったのに…僕もやっと少し冷静になって、現実を受け止められるようになってきたのに…おまえが元気でしっかりしないと、姉さんがますます心配するよ」
静夜を守り、生かすことこそ永遠の願いであり、彼と出会ったときから最期まで彼女はその道を外れなかった。静夜は途端に猛烈な恥ずかしさに襲われ、涙を拭うと、真っ赤になった頬を髪に隠してやっと声を絞り出した。
「すまない、久遠…永遠にも…本当にすまない…」
「…もういいから」
「…」
静夜がまだ子供のように小さくしゃくり上げているので、久遠はそっと腕を伸ばして彼を抱いた。
(静夜と姉さんは男女の仲じゃなかったけど、ある意味それよりも強い絆か運命で結ばれた相手だったんだな…姉さんには何の迷いもないみたいだった…)
なぜそこまでして人のために尽くすことができるのか、久遠には如何とも理解し難かった。なにしろ姉は自分の信念や価値観を周囲にひけらかす性格ではなかったのだ。誰かに相談することもなければ、自分と異なる意見を持つ者にぶつかっていくこともなかった。常に独立独歩で公明正大、そして孤高の努力家だった。姉に比べて自分はなんと未熟で、俗念や欲望にまみれていることだろう。
静夜の呼吸と気持ちが落ち着いて安定するまで久遠はじっと身動きもせず、物思いに耽っていた。
少し経つと静夜は冷静さを取り戻し、普段どおり会話ができるようになった。
「…永遠が言っていたという秘術とは、いったいどんなものなんだろう」
飲み干した水のコップを久遠に返しながら静夜は尋ねる。
「状況が切迫してて姉さんも詳しく説明してくれなかったからわからないけど、おそらく黄泉の討伐か迦楼羅の始末に関するものなんじゃないかと思う。…今にして思えば、姉さんはかなり前から準備してたんじゃないかな」
「でも迦楼羅のことはいくら調べても何もわからなかったのに、永遠の独力でどうにかできるとはとても…」
賢人集団による書物の研究は結局これという成果がなく、戦という非常事態もあって優先度が大きく下げられ、今では無期限で中断となっていた。
「…天地神煌でも黄泉の煌源は制圧できなかったしな」
久遠はあの戦いを振り返りながら自分の掌をじっと見つめた後、少し肩を落とした。
「宇内様はこのことは?」
「宇内様も何も聞いてなくて、かなり戸惑ってる。ただ、樹生の礎主があの日以来居所にこもって質問や面会を拒んでるんだ。きっと全部知ってて、姉さんと申し合わせてたんだろうな。そのときが来るのを待ってるんだよ」
そのとき、とは永遠が言っていたように、二人のもとに使いが現れ、次の行動の指針が与えられるときだ。二人が動けば永遠の秘術の詳細も明らかになり、停滞した現状も大きく進展するに違いない。それよりも二人の胸を大きく占めていたのは、肉体を失った永遠とまた会えるとはいったいどういうことなのか、という謎だった。
その後久遠は静夜の求めに応じて、戦の終局について自分の知ることと後から聞いたことを合わせ、詳らかに語り聞かせた。
「久遠…君は、大丈夫だったか?」
久遠が失意から天地神煌を暴走させたことを知った静夜は心を痛め、気遣わしげに彼を見つめた。それに対して久遠は自嘲混じりの照れ笑いを浮かべた。
「僕なら平気…それよりもしあのとき僕がちゃんと自分を保ってたら、っていうか黄泉を倒せてたら、戦場はあんなに混乱せず、犠牲者も増えず、もっと早く決着がついてたはずだったんだ。やっぱり僕、全然ダメだ…姉さんの足許にも及ばないや…」
「そんなことはない。君はあの状況でとっさに機転を利かせて人間と同胞を数多く救った。その成果は誇りとしていいと俺は思う」
相変わらず言葉数は少なくあっさりとした口調だが、ここでもまた静夜は自分を肯定し、励まし、褒めるに値する点をちゃんと見つけてくれる。甘やかされているのではと感じないでもなかったが、恋人に努力を認めてもらえることが単純に嬉しくて久遠は思わず頬を赤らめた。
「…あ、ありがと…おまえも、迦楼羅で火天を破壊したとき、すごかった…助かったよ」
「ありがとう」
それから久遠は戦の終わりからこの数日間の大森林の状況について静夜に説明し、彼は知りたかった多くの情報を得ることができた。
一時彼の手を離れた迦楼羅は回収され、今は鞘に収められて琥珀の館の奥に厳重に保管されていた。また永久煌炉からの第二次派兵の徴候は今のところ見られないが、大森林を包む結界は用心のため引き続き維持され、周辺の警備と偵察行動も継続中だということだった。
静夜が今日初めて表情を緩めたのは、親しい友人たちが全員無事に生還したと聞いたときだった。ただ彼とともに出陣した五十二人の若者のうち二十人が戦死したことを知らされると、彼は哀悼の祈りを捧げるようにしばし無言でうつむいた。
静夜を襲った私刑人たちは処分を待ちながら勾留されていた。おそらく大森林から最も遠い、大陸の外れの居留地に送られて数年は雑役に服することは免れないだろう。いかに同情すべき理由があっても、戦場で味方に武器を向けることはやはり規則違反に変わりないのだ。
「黄泉のその後の動きについては何か?」
「偵察の報告では、どうやら永久煌炉にはいないらしい。とすれば本拠地である黒玉の城に戻ってると考えるべきだろうな。あれだけ僕とやり合って、深傷を負って体力も消耗してるはずだから、しばらくは双方陣営を立て直しながら様子の探り合いになるんじゃないかな。俄様は逆にこの機に乗じて以前の会議で持ち上がった黒玉の城の攻略に乗り出すべきだって主張してるけど…」
それは遠征後の報告会から長らく保留されている議題だ。だがこちら側の兵力の損失や事後処理に関わる負担は甚大で、生還した者たちの疲労と心痛はさらに深刻であろうことを考えると、現実味はかなり薄い。それゆえ久遠の声音がだんだん先細りになったのはごく自然なことだった。
「…まあ、まだ何も決まってないし、先読みは今はやめよう。それより気になるのはやっぱり姉さんの秘術の件だ。それが明らかにならないと次の段階には進めないな。おまえが目覚めたから、もういつそのときが来てもおかしくないんだけど」
二人は他にも深刻なことから他愛もないことまでたくさんのことを話しながら、午前の爽やかで美しい時間を静かに過ごした。
やがて廊下を通りかかった治療師が話し声に気づき、診察に訪れた。
静夜の致命傷は永遠の煌源によって完全に癒えていた。他の部位の古傷もそれに伴って完治しており、彼は戦の前よりも現在の方がむしろ体調が良くすこぶる万全だったが、彼がともすれば無理をしがちであることをよく知る治療師たちから念のため当面はこのまま入院して身体を休めるようにと言い渡され、おとなしく従うことにした。一方久遠は前夜まで戦後の対応の陣頭指揮を執る宇内の手伝いに忙殺されていたが、いつ来るかわからないそのときを二人揃って迎えられるように、宇内から許しを得て静夜の病室に泊まり込むことに決めた。しかしその日は何も起こらず、次の日の朝になった。
朝食が済んで二人がゆっくり過ごしていると、静夜が意識を取り戻したことを早速聞きつけた友人や子供たちがかわるがわる病室に見舞いに訪れた。彼らは互いに無事であることを確認して喜び合い、また永遠との思い出を語り合って、彼女に寄せる温かい気持ちを共有した。二人を慕う子供たちは会えなかった寂しさと戦に対する不安を埋めるように二人に甘え、特に日月は大好きな静夜にこれでもかというほどおんぶや肩車をしてもらって大はしゃぎし、未来に止められていた。
ただ、暁良と一緒に来た耶宵の表情は沈んでいた。親友だった永遠を突然失った悲しみと静夜が一命を取り留めた喜びとの間で気持ちを整理できずにいる様子だったが、それでも精一杯の笑顔で二人を安心させようと努める姿に、静夜の胸は強く締めつけられた。彼女が現実を受け止められるようになるにはまだ時間が必要なようだった。
友人たちが続々と訪問してきては帰っていき、ひととおりの面会が済むと、まるでそれを待っていたかのように、そのときは訪れた。
夕方が近づいてきた午後、二人がお茶を飲みながらひと息ついていると、いつの間に迷い込んだのか、開け放された白いテラスに一羽の真っ白な雪羽梟が小さな雪だるまのようにうずくまって二人を見つめていた。
「珍しいお客さんだな。おまえも静夜のお見舞いか?」
気づいた久遠が声をかけても、逃げたり警戒したりする素振りはない。まだ明るい日中に活動していることもそうだが、微動だにせず猫のような目を二人の方にじっと据えているので、二人は不思議に思ってテラスに出た。
「何だ?変わった梟だな…おやつやごはんなら、あげないぞ」
そのとき静夜がふと目つきを変えて低い声で言った。
「いや…待て。見ろ、脚に何かついてる」
「え?」
よく見ると確かに彼の言うとおり、梟の腹のふかふかの羽毛の下から何かが覗いている。何だろう、と久遠は歩み寄って梟の前にしゃがみ込んだ。脚に手が伸びてきても梟は動かず、怖がらず、至っておとなしい。久遠が苦もなく梟の脚から外して手に入れたのは、小さく折り畳まれた便箋だった。
「これは…手紙?」
「何と書いてあるんだ?」
開いた便箋を二人一緒に覗き込む。
『家に帰り、私の部屋に置いてあるものを確かめろ』
優美だがはっきりとした読みやすい筆跡でそう記されていた。
「…姉さんの字だ!間違いない、これは姉さんが書いたものだよ」
「どうすればいいかわかるって、こういうことだったのか…」
止まっていた時が再び動き出す予感に二人が思わず顔を見合わせると、雪羽梟は役割を果たしたかのように森の方へ飛び去っていった。
手紙の指示どおりにするには外出しなければならず、まもなく夕方だったので、静夜は急遽外泊の許可を取った。そして二人ははやる気持ちを抱えて翡翠の屋根に向かった。
黄昏の迫る森の中、家路を急いできた二人は取るものもとりあえず巨木に上って永遠が自室として使っていたデッキに上がった。静夜がこの場所に足を踏み入れるのは初めてだった。
そこは女性の部屋であるにもかかわらず、弟の久遠の部屋にも引けを取らないほど物が少なくすっきりとしていた。
「姉さん、家にいる時間はあんまり長くなかったから。最上部のデッキもそう言って僕に譲ってくれたんだ…ん?」
家主の久遠はその空間内にすぐさま見覚えのないものを発見した。
デッキの中央に華奢な作りの銀の如雨露がぽつんと置かれているのである。
「一昨日覗いたときはなかったのに…」
「永遠のものじゃないのか?」
「違うと思う。…いったいいつの間に…」
訝しみながら近づいて見ると、その銀製の細い筒部にまたもや便箋が結わえつけられている。久遠はどきどきしながらそれを広げた。そこには同じ永遠の筆跡で次のように書かれていた。
『琥珀の館にある大森林で最も古い煌礎水の泉に行き、そこでこの如雨露に朝一番の陽の光を映した水を汲み、迦楼羅を持って、翠玉の柱廊に来い』
“翠玉の柱廊”とは、永遠の師である樹生の礎主の居所のある森のことだ。永遠が長らく修行と称してこもっていた場所でもある。
「…永遠は以前からこの秘術のためにひそかに備えてきてたんだな」
静夜は永遠の謎めいたかつての表情や言動の数々を思い出してつぶやいた。久遠は如雨露を手に、首を傾げている。
「でも、なんで如雨露や煌礎水が必要なんだろ?水やりでもするのかな」
「必要だから、だろう。行ってみればわかるはずだ」
ちょうど今、琥珀の館には迦楼羅が預けられている。二人は明日の夜明け前に琥珀の館に行くことにし、その夜はそのまま自宅で休んだ。
二人は出陣の前夜以来、久しぶりに星空の下のデッキに布団を並べて横になった。明日の朝は早いのに、久遠はなかなか寝つけず、そわそわと落ち着きがなかった。誰の邪魔も入らない自分の家でせっかく二人だけになっても、静夜はおやすみの軽いキスをひとつくれただけでそっけなく背中を向けてしまい、それきり何もしゃべらなかった。自分と一緒にいると姉のことを思い出してしまうのか、彼がときどきふと切なそうな目をして何か考え込んでいる様子が久遠には気がかりだった。そのうち静夜が寝息を立て始めると、久遠も諦めて眠りについた。
翌未明、二人は早々に家を出発し、琥珀の館で煌礎水と迦楼羅を入手した。そして辞する前に、すでに起床していた宇内に挨拶と事の次第の説明をした。疲れ切った顔の宇内は二人に任せると言って質問をすることもなく二人を送り出した。二人は宇内の体調を心配したが、彼は話をする気力もなく、ただ自分は大丈夫だと言い張るばかりで、それ以上話すことはできなかった。
二人は琥珀の館から翠玉の柱廊に向かったが、避難の後片づけや見回りに同胞たちが早朝から忙しく働く道中、あちこちから食い入るような、あるいはおずおずとした視線を感じた。永遠が姿を消したことはとっくに皆の知るところとなっていて、そのきっかけとして深く関わっている二人は今までにも増して同胞たちの関心の的なのだ。特に静夜に対する視線には、これまでの経緯もあって、複雑な感情が込もっているようだった。当の静夜は構わず黙って歩き続けたが、その表情の奥ではまだ何か考え続けていた。
二人の歩く道はやがて二人を緑の萌える常若の森の中に誘い込んだ。年経りてなお青々としたたくましい古木と、みずみずしくすらりとした若木が、神殿の列柱のように整然と並んで見せながら心地の良い雑然さで深く深く広がっている。柔らかな下生えには翡翠の屋根でも見慣れた兎や栗鼠が潜み、梢には綺麗な色の羽根の小鳥たちが楽しくおしゃべりするようにさえずっている。土に根を下ろし空を目指して育つすべての命が光り輝くこの場所こそ、樹生の族の尊崇を集める翠玉の柱廊だった。
道の先には白い木材を柵状にして作られた門があり、衛士が二人立っていたが、如雨露と迦楼羅を携えた久遠と静夜が近づいていくと、二人が立ち止まる必要のないよう先んじて門を開けた。以前ここで彼らに永遠との面会を拒否された久遠はその応対の変わりように目を丸くしたが、彼らは常に職務を忠実に遂行しているのだと実感し、真面目な顔で堂々と境を通り抜けた。
変わらない緑の森の光景を道なりに進んでいくと、ほどなくして木立は途切れ、道は森の中に開けた小さな空き地に出た。
工作物の何もないその空間の真ん中に唯一、簡素な白い木の低いテーブルがあり、白い素焼きの浅い鉢に植わった緑の苗木が一株、その上に置かれている。
呆気に取られてそれに見入る久遠と静夜を、ひとりの女性が出迎えた。
柔らかい女性の声が聞こえる。
「あおい…蒼衣…」
その声が自分に向けられていることがわかると彼は目を開けたが、視界のあまりのまぶしさに思わずまた目を細めてしまう。
白く発光してぼやける輪郭のその人は穏やかに微笑んでいるように見えた。
その人が笑うと彼はなぜか嬉しくて、この嬉しさを伝えたいのに、いくら頑張っても喉は働かなかった。それでもその人は彼の気持ちを理解したかのように朗らかな笑い声を立てた。
「蒼衣…生まれてきてくれてありがとう」
「…幸せを教えてくれてありがとう…」
彼は声の代わりに手を伸ばしてその優しいささやきに応えようとした。しかしそのとき二人だけの白い世界を金色の光が包み込み、その笑顔を覆い尽くした。やがてすべてが淡い金色に染め上げられた後、彼はもう何も憶えていなかった。
眠りから覚めたとき、静夜にはそこが妖精の臥所の病室であることがすぐにわかった。薄いカーテンの引かれた窓越しの外光の明るさと色合いから、今は午前中に違いない。自分は笞刑を受け大怪我をして入院しているのだーーふとそう錯覚したが、じっと天井を見つめるうちに彼の記憶は時間の経過をたちまち取り戻した。知り得る限りのことを思い出すと、彼は布団の中から片手をそっと出し、信じられない思いでまじまじと眺めた。
(生きてる…どうして…)
それからその手を胸に乗せる。そこは確かに邪悪な炎に貫かれたはずなのに、痛みや違和感すらない。怪訝に思いながらゆっくり肘をついて身体を少しだけ起こしたとき、彼は見慣れた金髪の頭がベッドの縁に突っ伏しているのに気づいた。久遠は肩を規則正しく上下させて熟睡している。久遠も無事に生還してくれていたのだとわかると自然と安堵の溜め息が出た。
「久遠…」
彼はその肩に触れようとして考え直し、手を引っ込めた。きっと夜通し付き添ってくれて疲れ切っているのだろう。起こしてはいけないーーそう思うと同時に久遠は気配を感じたのか、ぱっと額を上げた。ぽわんと寝ぼけた目と、目が合った。
「…静夜…!!」
久遠は反射的にその場で身を乗り出して静夜の懐に頭を埋めた。静夜はしがみついて離れない久遠の身体を両腕にできる限り深く包み込んで優しくあやすように叩いた。解かれていた髪が首筋から垂れて久遠の頭に被さった。
久遠は顔を隠したままくぐもった声でぼそぼそと言った。
「ねえ、わかってる?…僕がどれだけ悲しかったか」
「…すまない」
「…あんな無茶なこと、もう二度としないって約束して…お願いだから…」
「うん…約束する」
静夜はそう言ってから久遠の両肩に手を置いた。どうしても確かめなければならないことがあった。
「教えてくれ、久遠。…戦の勝敗は…」
静夜はあの後のことを知らないのだ。顔を上げた久遠は気を取り直して真面目な顔つきで答えた。
「実は僕も最後の最後まで見届けられたわけじゃないんだけど…勝ったのは僕たち大森林側だ。結界や内部への被害はなし、迦楼羅も無事だ。…もっとも、戦死者と負傷者はかなり出たし、黄泉にも逃げられちゃったけど…詳しくは後で順番にゆっくり話す…」
「…うん」
久遠は重大なことをひとつ隠していたが、まだ切り出す決心がつかなくて黙っていた。代わりに当たり障りのない問いをおそるおそる投げかける。
「身体の具合はどう…?」
「それが…何ともないんだ。どこも痛まないし…むしろ身体中に力があふれてるみたいで、今すぐ鍛練できそうなくらいだ」
軽く目を瞑って胸に手を当てていた静夜は驚きの目を見開いた。
「…肋骨の痛みもなくなってる」
「治療師さんたちが言うには、あばらのひびは完治してるって。自分では見れないからわからないと思うけど、背中の笞刑の傷痕も完全に治って綺麗になくなってるみたい」
それを聞いて静夜はすぐに寝衣の前をはだけ、上半身を露わにした。灼舌に貫通されたあの傷はおろか、過去の古い傷痕の数々までもがすっかり消えている。久遠も、彼の背中を改めて確かめてうなずいた。戦いや死とは無縁の人生だったかのようにまっさらな身体だった。
「…嘘みたいだ」
「裁鞭の傷痕は一生消えないって見立てだったから、治療師さんたち、驚いてたよ…耶宵さんは…泣いてた」
「耶宵には絶対救護所には来るなと言われたのに…さぞかし心配させただろうな」
「…」
久遠はどう答えるべきかわからない苦しさにうつむいた。静夜は後から後から湧き上がる疑問で頭がいっぱいで、そんな久遠の表情にまだ気づいていない。
「黄泉のあの一撃…致命傷だったはずなのに、どうして助かったんだろう。もしかして、宇内様が何か特別な治癒か再生の技を?」
「…違うよ…姉さんが助けてくれたんだ…」
「永遠があの傷を…?いったいどうやって…そう言えば、永遠はどうしてる?演説会の日以来、一度も顔を見てないんだが」
「…っ…!!」
久遠はほとばしりそうになる激しい感情を歯を食いしばって抑え、それでももうそれ以上隠し通すことはできず、静夜の裸の胸に掌を強く押しつけた。
「姉さんはいるよ…ここに…おまえの胸の中に」
「…?」
『僕の煌源をおまえにあげる…そうすれば命は助かるから…!』
何かのたとえ話か、とぎこちなく首を傾げていた静夜の瞳が、唇が、久遠の叫びを思い出した瞬間、凍りついたように硬直した。
「…まさか…」
久遠は少し顔を伏せてついに真実を口にした。
「姉さんはある秘術のために煌気をほとんど取り出してひそかに別の場所に移してたらしい…最低限の体力と衰弱した煌源だけを残して…その煌源を…おまえの体内に…」
「俺の身体に、永遠の煌源が…?」
静夜の顔から血の色が引いた。自分の胸を呆然とした目で見下ろし、震える声で尋ねる。
「それで、永遠は…どうなったんだ…?」
「肉体を失い、姿を消して、いなくなった…今は…まだ」
会うことはできないーーそう結ぼうとした久遠の言葉を遮って静夜は彼の両肩を力任せに摑んだ。
「それじゃ、俺は…俺は、永遠の命を喰ったのか?俺を助けるために永遠は自分の命を犠牲にしたのか?」
「違う!姉さんは死んだわけじゃない。僕にもまだはっきりしたことはわからないけど、消える間際、姉さんは自分は煌源と肉体を放棄する代わりに別の存在になって生き続けるって言ってた…だからもう少しだけ待てと」
「だとしても、永遠が俺のために身を削ったのなら同じことだ!俺が…俺が愚かなばかりに、永遠を…君のお姉さんを死なせた…俺が…俺のせいで…!!」
悲嘆、後悔、そして自己嫌悪。激しく動揺するあまり静夜は理性と自制心を失い、久遠の腕の中で泣き崩れた。年齢も立場も大の男であることも忘れ、取り乱し、声を上げて身も心も壊れるほどむせび泣いた。久遠もあのとき受けた衝撃と悲しみを思い出し、たまらず静夜を抱きしめて嗚咽したが、しまいに彼が煌源のある胸に爪を立てて自分を傷つけようとするので、力ずくでその手を押さえて止めた。
「よく聞いて、静夜…姉さんはすぐにまた会えるって言ってた。それに、おまえが生きてる限り、姉さんもおまえの中で煌源という形で生き続けるんだ…姉さんの考えと判断を尊重してあげて」
「でも…でも…!!」
「そんなに泣かないでよ、静夜…せっかく助かったのに…僕もやっと少し冷静になって、現実を受け止められるようになってきたのに…おまえが元気でしっかりしないと、姉さんがますます心配するよ」
静夜を守り、生かすことこそ永遠の願いであり、彼と出会ったときから最期まで彼女はその道を外れなかった。静夜は途端に猛烈な恥ずかしさに襲われ、涙を拭うと、真っ赤になった頬を髪に隠してやっと声を絞り出した。
「すまない、久遠…永遠にも…本当にすまない…」
「…もういいから」
「…」
静夜がまだ子供のように小さくしゃくり上げているので、久遠はそっと腕を伸ばして彼を抱いた。
(静夜と姉さんは男女の仲じゃなかったけど、ある意味それよりも強い絆か運命で結ばれた相手だったんだな…姉さんには何の迷いもないみたいだった…)
なぜそこまでして人のために尽くすことができるのか、久遠には如何とも理解し難かった。なにしろ姉は自分の信念や価値観を周囲にひけらかす性格ではなかったのだ。誰かに相談することもなければ、自分と異なる意見を持つ者にぶつかっていくこともなかった。常に独立独歩で公明正大、そして孤高の努力家だった。姉に比べて自分はなんと未熟で、俗念や欲望にまみれていることだろう。
静夜の呼吸と気持ちが落ち着いて安定するまで久遠はじっと身動きもせず、物思いに耽っていた。
少し経つと静夜は冷静さを取り戻し、普段どおり会話ができるようになった。
「…永遠が言っていたという秘術とは、いったいどんなものなんだろう」
飲み干した水のコップを久遠に返しながら静夜は尋ねる。
「状況が切迫してて姉さんも詳しく説明してくれなかったからわからないけど、おそらく黄泉の討伐か迦楼羅の始末に関するものなんじゃないかと思う。…今にして思えば、姉さんはかなり前から準備してたんじゃないかな」
「でも迦楼羅のことはいくら調べても何もわからなかったのに、永遠の独力でどうにかできるとはとても…」
賢人集団による書物の研究は結局これという成果がなく、戦という非常事態もあって優先度が大きく下げられ、今では無期限で中断となっていた。
「…天地神煌でも黄泉の煌源は制圧できなかったしな」
久遠はあの戦いを振り返りながら自分の掌をじっと見つめた後、少し肩を落とした。
「宇内様はこのことは?」
「宇内様も何も聞いてなくて、かなり戸惑ってる。ただ、樹生の礎主があの日以来居所にこもって質問や面会を拒んでるんだ。きっと全部知ってて、姉さんと申し合わせてたんだろうな。そのときが来るのを待ってるんだよ」
そのとき、とは永遠が言っていたように、二人のもとに使いが現れ、次の行動の指針が与えられるときだ。二人が動けば永遠の秘術の詳細も明らかになり、停滞した現状も大きく進展するに違いない。それよりも二人の胸を大きく占めていたのは、肉体を失った永遠とまた会えるとはいったいどういうことなのか、という謎だった。
その後久遠は静夜の求めに応じて、戦の終局について自分の知ることと後から聞いたことを合わせ、詳らかに語り聞かせた。
「久遠…君は、大丈夫だったか?」
久遠が失意から天地神煌を暴走させたことを知った静夜は心を痛め、気遣わしげに彼を見つめた。それに対して久遠は自嘲混じりの照れ笑いを浮かべた。
「僕なら平気…それよりもしあのとき僕がちゃんと自分を保ってたら、っていうか黄泉を倒せてたら、戦場はあんなに混乱せず、犠牲者も増えず、もっと早く決着がついてたはずだったんだ。やっぱり僕、全然ダメだ…姉さんの足許にも及ばないや…」
「そんなことはない。君はあの状況でとっさに機転を利かせて人間と同胞を数多く救った。その成果は誇りとしていいと俺は思う」
相変わらず言葉数は少なくあっさりとした口調だが、ここでもまた静夜は自分を肯定し、励まし、褒めるに値する点をちゃんと見つけてくれる。甘やかされているのではと感じないでもなかったが、恋人に努力を認めてもらえることが単純に嬉しくて久遠は思わず頬を赤らめた。
「…あ、ありがと…おまえも、迦楼羅で火天を破壊したとき、すごかった…助かったよ」
「ありがとう」
それから久遠は戦の終わりからこの数日間の大森林の状況について静夜に説明し、彼は知りたかった多くの情報を得ることができた。
一時彼の手を離れた迦楼羅は回収され、今は鞘に収められて琥珀の館の奥に厳重に保管されていた。また永久煌炉からの第二次派兵の徴候は今のところ見られないが、大森林を包む結界は用心のため引き続き維持され、周辺の警備と偵察行動も継続中だということだった。
静夜が今日初めて表情を緩めたのは、親しい友人たちが全員無事に生還したと聞いたときだった。ただ彼とともに出陣した五十二人の若者のうち二十人が戦死したことを知らされると、彼は哀悼の祈りを捧げるようにしばし無言でうつむいた。
静夜を襲った私刑人たちは処分を待ちながら勾留されていた。おそらく大森林から最も遠い、大陸の外れの居留地に送られて数年は雑役に服することは免れないだろう。いかに同情すべき理由があっても、戦場で味方に武器を向けることはやはり規則違反に変わりないのだ。
「黄泉のその後の動きについては何か?」
「偵察の報告では、どうやら永久煌炉にはいないらしい。とすれば本拠地である黒玉の城に戻ってると考えるべきだろうな。あれだけ僕とやり合って、深傷を負って体力も消耗してるはずだから、しばらくは双方陣営を立て直しながら様子の探り合いになるんじゃないかな。俄様は逆にこの機に乗じて以前の会議で持ち上がった黒玉の城の攻略に乗り出すべきだって主張してるけど…」
それは遠征後の報告会から長らく保留されている議題だ。だがこちら側の兵力の損失や事後処理に関わる負担は甚大で、生還した者たちの疲労と心痛はさらに深刻であろうことを考えると、現実味はかなり薄い。それゆえ久遠の声音がだんだん先細りになったのはごく自然なことだった。
「…まあ、まだ何も決まってないし、先読みは今はやめよう。それより気になるのはやっぱり姉さんの秘術の件だ。それが明らかにならないと次の段階には進めないな。おまえが目覚めたから、もういつそのときが来てもおかしくないんだけど」
二人は他にも深刻なことから他愛もないことまでたくさんのことを話しながら、午前の爽やかで美しい時間を静かに過ごした。
やがて廊下を通りかかった治療師が話し声に気づき、診察に訪れた。
静夜の致命傷は永遠の煌源によって完全に癒えていた。他の部位の古傷もそれに伴って完治しており、彼は戦の前よりも現在の方がむしろ体調が良くすこぶる万全だったが、彼がともすれば無理をしがちであることをよく知る治療師たちから念のため当面はこのまま入院して身体を休めるようにと言い渡され、おとなしく従うことにした。一方久遠は前夜まで戦後の対応の陣頭指揮を執る宇内の手伝いに忙殺されていたが、いつ来るかわからないそのときを二人揃って迎えられるように、宇内から許しを得て静夜の病室に泊まり込むことに決めた。しかしその日は何も起こらず、次の日の朝になった。
朝食が済んで二人がゆっくり過ごしていると、静夜が意識を取り戻したことを早速聞きつけた友人や子供たちがかわるがわる病室に見舞いに訪れた。彼らは互いに無事であることを確認して喜び合い、また永遠との思い出を語り合って、彼女に寄せる温かい気持ちを共有した。二人を慕う子供たちは会えなかった寂しさと戦に対する不安を埋めるように二人に甘え、特に日月は大好きな静夜にこれでもかというほどおんぶや肩車をしてもらって大はしゃぎし、未来に止められていた。
ただ、暁良と一緒に来た耶宵の表情は沈んでいた。親友だった永遠を突然失った悲しみと静夜が一命を取り留めた喜びとの間で気持ちを整理できずにいる様子だったが、それでも精一杯の笑顔で二人を安心させようと努める姿に、静夜の胸は強く締めつけられた。彼女が現実を受け止められるようになるにはまだ時間が必要なようだった。
友人たちが続々と訪問してきては帰っていき、ひととおりの面会が済むと、まるでそれを待っていたかのように、そのときは訪れた。
夕方が近づいてきた午後、二人がお茶を飲みながらひと息ついていると、いつの間に迷い込んだのか、開け放された白いテラスに一羽の真っ白な雪羽梟が小さな雪だるまのようにうずくまって二人を見つめていた。
「珍しいお客さんだな。おまえも静夜のお見舞いか?」
気づいた久遠が声をかけても、逃げたり警戒したりする素振りはない。まだ明るい日中に活動していることもそうだが、微動だにせず猫のような目を二人の方にじっと据えているので、二人は不思議に思ってテラスに出た。
「何だ?変わった梟だな…おやつやごはんなら、あげないぞ」
そのとき静夜がふと目つきを変えて低い声で言った。
「いや…待て。見ろ、脚に何かついてる」
「え?」
よく見ると確かに彼の言うとおり、梟の腹のふかふかの羽毛の下から何かが覗いている。何だろう、と久遠は歩み寄って梟の前にしゃがみ込んだ。脚に手が伸びてきても梟は動かず、怖がらず、至っておとなしい。久遠が苦もなく梟の脚から外して手に入れたのは、小さく折り畳まれた便箋だった。
「これは…手紙?」
「何と書いてあるんだ?」
開いた便箋を二人一緒に覗き込む。
『家に帰り、私の部屋に置いてあるものを確かめろ』
優美だがはっきりとした読みやすい筆跡でそう記されていた。
「…姉さんの字だ!間違いない、これは姉さんが書いたものだよ」
「どうすればいいかわかるって、こういうことだったのか…」
止まっていた時が再び動き出す予感に二人が思わず顔を見合わせると、雪羽梟は役割を果たしたかのように森の方へ飛び去っていった。
手紙の指示どおりにするには外出しなければならず、まもなく夕方だったので、静夜は急遽外泊の許可を取った。そして二人ははやる気持ちを抱えて翡翠の屋根に向かった。
黄昏の迫る森の中、家路を急いできた二人は取るものもとりあえず巨木に上って永遠が自室として使っていたデッキに上がった。静夜がこの場所に足を踏み入れるのは初めてだった。
そこは女性の部屋であるにもかかわらず、弟の久遠の部屋にも引けを取らないほど物が少なくすっきりとしていた。
「姉さん、家にいる時間はあんまり長くなかったから。最上部のデッキもそう言って僕に譲ってくれたんだ…ん?」
家主の久遠はその空間内にすぐさま見覚えのないものを発見した。
デッキの中央に華奢な作りの銀の如雨露がぽつんと置かれているのである。
「一昨日覗いたときはなかったのに…」
「永遠のものじゃないのか?」
「違うと思う。…いったいいつの間に…」
訝しみながら近づいて見ると、その銀製の細い筒部にまたもや便箋が結わえつけられている。久遠はどきどきしながらそれを広げた。そこには同じ永遠の筆跡で次のように書かれていた。
『琥珀の館にある大森林で最も古い煌礎水の泉に行き、そこでこの如雨露に朝一番の陽の光を映した水を汲み、迦楼羅を持って、翠玉の柱廊に来い』
“翠玉の柱廊”とは、永遠の師である樹生の礎主の居所のある森のことだ。永遠が長らく修行と称してこもっていた場所でもある。
「…永遠は以前からこの秘術のためにひそかに備えてきてたんだな」
静夜は永遠の謎めいたかつての表情や言動の数々を思い出してつぶやいた。久遠は如雨露を手に、首を傾げている。
「でも、なんで如雨露や煌礎水が必要なんだろ?水やりでもするのかな」
「必要だから、だろう。行ってみればわかるはずだ」
ちょうど今、琥珀の館には迦楼羅が預けられている。二人は明日の夜明け前に琥珀の館に行くことにし、その夜はそのまま自宅で休んだ。
二人は出陣の前夜以来、久しぶりに星空の下のデッキに布団を並べて横になった。明日の朝は早いのに、久遠はなかなか寝つけず、そわそわと落ち着きがなかった。誰の邪魔も入らない自分の家でせっかく二人だけになっても、静夜はおやすみの軽いキスをひとつくれただけでそっけなく背中を向けてしまい、それきり何もしゃべらなかった。自分と一緒にいると姉のことを思い出してしまうのか、彼がときどきふと切なそうな目をして何か考え込んでいる様子が久遠には気がかりだった。そのうち静夜が寝息を立て始めると、久遠も諦めて眠りについた。
翌未明、二人は早々に家を出発し、琥珀の館で煌礎水と迦楼羅を入手した。そして辞する前に、すでに起床していた宇内に挨拶と事の次第の説明をした。疲れ切った顔の宇内は二人に任せると言って質問をすることもなく二人を送り出した。二人は宇内の体調を心配したが、彼は話をする気力もなく、ただ自分は大丈夫だと言い張るばかりで、それ以上話すことはできなかった。
二人は琥珀の館から翠玉の柱廊に向かったが、避難の後片づけや見回りに同胞たちが早朝から忙しく働く道中、あちこちから食い入るような、あるいはおずおずとした視線を感じた。永遠が姿を消したことはとっくに皆の知るところとなっていて、そのきっかけとして深く関わっている二人は今までにも増して同胞たちの関心の的なのだ。特に静夜に対する視線には、これまでの経緯もあって、複雑な感情が込もっているようだった。当の静夜は構わず黙って歩き続けたが、その表情の奥ではまだ何か考え続けていた。
二人の歩く道はやがて二人を緑の萌える常若の森の中に誘い込んだ。年経りてなお青々としたたくましい古木と、みずみずしくすらりとした若木が、神殿の列柱のように整然と並んで見せながら心地の良い雑然さで深く深く広がっている。柔らかな下生えには翡翠の屋根でも見慣れた兎や栗鼠が潜み、梢には綺麗な色の羽根の小鳥たちが楽しくおしゃべりするようにさえずっている。土に根を下ろし空を目指して育つすべての命が光り輝くこの場所こそ、樹生の族の尊崇を集める翠玉の柱廊だった。
道の先には白い木材を柵状にして作られた門があり、衛士が二人立っていたが、如雨露と迦楼羅を携えた久遠と静夜が近づいていくと、二人が立ち止まる必要のないよう先んじて門を開けた。以前ここで彼らに永遠との面会を拒否された久遠はその応対の変わりように目を丸くしたが、彼らは常に職務を忠実に遂行しているのだと実感し、真面目な顔で堂々と境を通り抜けた。
変わらない緑の森の光景を道なりに進んでいくと、ほどなくして木立は途切れ、道は森の中に開けた小さな空き地に出た。
工作物の何もないその空間の真ん中に唯一、簡素な白い木の低いテーブルがあり、白い素焼きの浅い鉢に植わった緑の苗木が一株、その上に置かれている。
呆気に取られてそれに見入る久遠と静夜を、ひとりの女性が出迎えた。
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