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やりたいこと1 猫に触る
1ー1 始まりの教会
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ルシンダ・オルフェルネスは激しく困惑していた。目が覚めるとどういうわけか、密閉された暗黒の中、両脚を真っ直ぐに伸ばし、両手を胸の上にきちんと組み合わせた姿勢で横たわっていたのだ。気づいたが最後、たちまち息苦しさと危機感に襲われ狭い空間の中で大暴れすると、はずみで天井が開き、なんとか頭を外に出して酸素にありつくことができた。しかし、身体を起こしてほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、ルシンダは自分がとんでもない状況下にあることを知った。彼女はなんと、木製の棺の中に安置されていたのである。
(…なんで!?なんで私、棺桶の中にいるの!?それに、何この格好…これっていわゆる死に装束じゃない…!)
まさか自分で自分が着ている様を目にするはずもない、白い綿製の極めてシンプルなドレス姿に青ざめ、混乱状態のままきょろきょろ周囲を見回すと、自分が今いるのは真夜中の小さな教会の堂内だった。初めて見るデザインのメギオクラフトのランプが石の壁に整然と並んでぼんやりと光っている。聖堂の一番奥の女神像を祀る祭壇の目の前に花や供え物に埋め尽くされるような形で彼女の棺は置かれていた。
いったいどうしてこんなことにーールシンダは懸命に記憶の糸を手繰り、否、とにかく遮二無二引っ張りまくって、すぐに答えを摑み取った。
(そうだ、私、あいつに殺されて…死んだんだわ…)
あの瞬間の戦慄が鮮明に蘇り、心臓がどくんと不穏に動いた。夜空を流れる雲に覆われて月の光が翳るように、途端にその目許に暗い影が落ちた。彼は今頃虫も殺さぬような優しげな顔でどこかでのうのうと生きているだろう。叶うものならば今すぐ捜し出して、なぜあんな大それたことをしでかしたのか洗いざらい白状させたい。何が彼にそこまでさせたのか、改めて問いかけたい。自分がどれほど強く求めても、あのとき彼は自分の口からは何も語らなかったからだ。
(聞いたところで共感できたか甚だしく疑問だけど…ともあれ今は、それどころじゃないわね)
自分が死んだ原因と経緯にはほぼ確信が持てたが、なぜ生き返ったのかがどうにもわからない。もしや自分は一度死んだと思われて通夜が行われたものの、実は仮死状態に陥っていただけで、たまたま自然に息を吹き返したのだろうか。だとすると早ければ明日にも埋葬されて、二度目の、しかも生き埋めにされるという想像を絶する苦しみを味わうはめになったかもしれない。文字どおり九死に一生の幸運だ。ルシンダは小さな肩をぞっと震わせ、嫌な想像を払拭するように自ら別の思考で頭の中を埋め尽くした。
(ここは故郷の教会…?でもこんな造りだったかしら…今日は何日で、あの事件から何日過ぎたんだろう。あの後どうなったのか…それに、あいつやお母さんはどうしてるのか…いやいや、まずは今どうするべきかよく考えなきゃ。とりあえずここを出て…)
よっこらせ、と棺から這い出ようとしたルシンダははっとした。棺の縁を握りしめた手が自分の手ではなかったからだ。それはほぼ成長しきった十七歳の女の手でも、幼い頃から錬成や調合の仕事に従事してきた錬金魔術師の手でもない。自分の身体を見間違えるはずがないのだ。これは私の身体ではない!夢でしかありえない現実に気づいた瞬間、まるでトランプを高速でシャッフルするかのように、自分自身の記憶の狭間に別人の記憶が猛烈な勢いで滑り込んできて、みるみるうちにうず高く積み上がっていった。
(私こんな人生知らない…!この身体も、記憶も、私じゃないの…!?でもはっきり憶えてる、あいつのこと、家族のこと、家のこと…私はルシンダ・オルフェルネスなんだから!!)
しかし彼女の内側には、彼女ではない別の少女の記憶が確かに存在している。その子は入門したての錬金魔術師の卵だった。平凡な夫婦の間に生まれ、故郷の村を出てサントルムという山あいの別の村の錬金魔術工房に弟子入りした。わからないことだらけで戸惑いながらも修行と勉強に明け暮れていた。最期のとき、年齢は十二歳だった。そして、名前は…セシル・ティール。
(なんてこと…私、死んだセシルっていう女の子の身体に魂が乗り移って生き返ったのね…でも、セシルはこの若さでどうして…?)
ルシンダはセシルの最も新しい記憶、つまり最期に見た光景や感じたことを思い出した。そして胸を詰まらせ、うつむいた。セシルの死因は、乾燥させた毒草を誤ってハーブティーに混ぜて飲んでしまったことだった。
(毒死…か…)
セシルの行動に他者の介在は感じられなかったので、おそらくは知識不足、あるいは不注意か。駆け出しのひよっこにはありがちな落とし穴、その最も不運で不幸な結末だ。両親や師匠は、さぞや無念だろう。
「…」
ルシンダにも、その苦しみは痛いほどよくわかった。
(悲しい死はもうたくさん…セシル…どうか安らかに眠ってね)
肉体の器を残して静かに去っていったセシルの魂に冥福の祈りを捧げたルシンダだったが、すぐに顔を上げて行動を開始した。
(セシルやご両親には申し訳ないけど、この身体使わせていただくわ。いろいろ確かめたいことがあるし)
誰も来ないうちにと棺から下りて冷たい床に素足をつけた途端、ルシンダはふらっとよろめいた。
「…おっと」
慌てて棺の縁にしがみついて溜め息をつく。腕と脚の長さや体重が十七歳から十二歳になったことに加え、久しぶりに身体を動かしたことでバランスを崩してしまったのだ。
(この身体まだ慣れないから十分気をつけなきゃ)
気をつけるだけでなく、外に出るには支度と細工も必要だ。ほの暗い堂内を観察すると、祭壇の脇に別室に続く扉があるのが見えた。派手に転んで大きな音を立てないよう、ルシンダはぺったぺったと慎重な足取りでそちらの方に向かった。
聖堂の裏側には通例に違わず、牧師や教会関係者が休憩などに使う控え室のような部屋があった。こちらは魔法のランプは消されて真っ暗だ。さまざまな紙片や書物が置かれたテーブルと椅子。道具入れや戸棚、お茶くらいなら淹れられそうなごくごく簡素な台所。ルシンダはまず魔法を使って壁のランプの燈を弱く灯した。空腹でないと言えば嘘になるが、テーブルの上の余りもののビスケットには目もくれず、その周りの書簡の山を探ってお目当てのものを引っ張り出した。今いる村を中心とした周辺地域の地理や道路網がわかる、住民にとって実用性の高い地図だ。
少女の唇がぶつぶつ動き始めた。
(思ったとおり、ここはサントルムの村ね。初めて聞く地名だけど。セシルの出身地は別の村だから、棺は後日移送されてふるさとの墓地に埋葬されるということか…)
地図はもう一枚あり、そちらはより広域の、そして彼女もよく知る大きな図面だった。
『シュテルンブルク王国』
(…確かにそうなんだけど…妙だな…)
王都ジーベンシュテルンや各主要都市の位置は彼女の記憶にあるのと同じだ。だがサントルムと同様に聞いたことのない名前の領地や街や村、何やら唐突に増えている街道、目新しい区割り、さらには少し地形が変わっている場所や荒れ地と化した場所もあるらしい。ただそれらはセシルの記憶に照らし合わせると違和感はない。それが何を意味するのか、眺めるにつけルシンダはだんだん不安感を催し、とうとう地図に伏せていた顔をがばっと上げた。
(カレンダー…カレンダーはどこ!?…あ、あそこに!)
壁掛け式のカレンダーを見つけ、即座に駆け寄る。星読姫エレオノーラを讃える詩が刻まれ、魔法の力で過ぎた日の光が消えて今の日付が示されるメギオクラフトのカレンダーだ。ルシンダが記憶する最後の年は魔鉱暦六百八十七年。そして今年は…八百九十二年。なんと二百年もの年月が経過していた。
もう何度目かわからないが、ルシンダはまたもや愕然とした。そしてその直後、なぜか心がふわっと軽くなるのを感じた。
(そっか、二百年…じゃああいつはもちろん、お母さんももうこの世にいないのね…)
あの事件の顛末がどういうものだったにしろ、知ったところで自分にできることはもう何もない。自分たちにとって命運をかけた、世界が覆るかと思うような重大な出来事でも、どうやらこの国、この世界はびくともせず、変わらず存続しているようだ。ルシンダは自分たちはひどくちっぽけで無力で滑稽な生き物だと感じた。まして二百年も経った今自分ひとり転生して生き返り、いったいどうしろというのだろう。第二の人生を気楽に生きるか、それとも自分にゆかりのある土地を訪れたり記録を調べたりしてせいぜい歯がゆさを味わうか。今更どうにもできないと悟ると、その二つのどちらも悪くないかもしれないとルシンダには思えた。ゼロになって放り出されたこの状況は、裏を返せば前世での束縛や因縁から解放されて、この世界を自由に見て歩くまたとないチャンスなのだから。
ルシンダは顔の前に手をかざしてしきりに何度も握ったり開いたりし、今のこの肉体に宿る魔力が生前の自分と比べても少しも目減りしていないことを確かめた。
(せっかくの第二の人生だもの、楽しまなくちゃもったいないよね。幸い魔力も魂と一緒に持ってきてることだし、ひとり旅も魔物も怖くない。そうと決まれば牧師さんに見つかって幽霊だって大騒ぎになる前に、一刻も早くここを出よう)
カレンダーの横に並んで掛けられた鏡で顔を確かめる。覚悟はしていたものの、そこに映る成長途中の丸顔にはやはり溜め息が漏れてしまった。しかもこれと言って特徴のない、不細工ではないがいかにもその辺にいそうな顔立ちでますますげんなりしてしまう。標準的だと自負していた胸はぺたんこ、ウエストは寸胴、背も低くお子様体型の印象は否めない。彼女は十七歳当時の生前には才色兼備の魔女として名を馳せ、多くの男性からプロポーズを受けていた。自慢したい気持ちはないが異性から賛美されて正直悪い気はしない。理由があって全員袖にしてしまったのが少し悔やまれる。殺されて転生した今は恋愛などする気にもなれないのだが。
(この顔ではまず見向きもされないだろうな…ま、目立ちにくいからよしとするか。髪の毛とお肌がつやつやしてるのは、さすがの若さね)
死に装束の薄着と裸足のままでは村の外に出られない。ルシンダはシスターのものと思しきコートとサンダルを失敬すると、部屋の隅に立てて置かれていたデッキブラシを取って元いた祭壇の棺に持っていった。恐怖や混乱を招かないよう、セシルに似せた身代わりにするためだ。セシルの身長と同じぐらいの長さのデッキブラシを棺の中に入れ、変化の魔法をかけた。するとデッキブラシはたちまちもうひとりのセシルの遺体に姿を変えた。転生して目覚める寸前の自分はこんなふうだったのか、とルシンダは思わず見入ってしまったが、これ以上ぼやぼやしているわけにもいかず、さらに物質の安定と状態の固定の付加魔法を念入りに施し、棺の蓋を戻して無事に仕事を終わらせた。
(これで木が自然に朽ち果てて土に還るまでばれることはない。第二の人生で運に恵まれたら、いつか必ず恩返しとお墓参りに来るわ。それまでは当分…さようなら)
再スタートの地となった小さな教会からそうっと抜け出し、村の敷地をぐるりと囲む柵の破れ目をくぐってサントルムの外の深い森に分け入る。
(さて、これからどうするか…歩きながら考えるとしましょうか)
結局空腹を我慢できずにちゃっかりせしめたビスケットを頬張りながら、獣道を歩き出すルシンダであった。
(…なんで!?なんで私、棺桶の中にいるの!?それに、何この格好…これっていわゆる死に装束じゃない…!)
まさか自分で自分が着ている様を目にするはずもない、白い綿製の極めてシンプルなドレス姿に青ざめ、混乱状態のままきょろきょろ周囲を見回すと、自分が今いるのは真夜中の小さな教会の堂内だった。初めて見るデザインのメギオクラフトのランプが石の壁に整然と並んでぼんやりと光っている。聖堂の一番奥の女神像を祀る祭壇の目の前に花や供え物に埋め尽くされるような形で彼女の棺は置かれていた。
いったいどうしてこんなことにーールシンダは懸命に記憶の糸を手繰り、否、とにかく遮二無二引っ張りまくって、すぐに答えを摑み取った。
(そうだ、私、あいつに殺されて…死んだんだわ…)
あの瞬間の戦慄が鮮明に蘇り、心臓がどくんと不穏に動いた。夜空を流れる雲に覆われて月の光が翳るように、途端にその目許に暗い影が落ちた。彼は今頃虫も殺さぬような優しげな顔でどこかでのうのうと生きているだろう。叶うものならば今すぐ捜し出して、なぜあんな大それたことをしでかしたのか洗いざらい白状させたい。何が彼にそこまでさせたのか、改めて問いかけたい。自分がどれほど強く求めても、あのとき彼は自分の口からは何も語らなかったからだ。
(聞いたところで共感できたか甚だしく疑問だけど…ともあれ今は、それどころじゃないわね)
自分が死んだ原因と経緯にはほぼ確信が持てたが、なぜ生き返ったのかがどうにもわからない。もしや自分は一度死んだと思われて通夜が行われたものの、実は仮死状態に陥っていただけで、たまたま自然に息を吹き返したのだろうか。だとすると早ければ明日にも埋葬されて、二度目の、しかも生き埋めにされるという想像を絶する苦しみを味わうはめになったかもしれない。文字どおり九死に一生の幸運だ。ルシンダは小さな肩をぞっと震わせ、嫌な想像を払拭するように自ら別の思考で頭の中を埋め尽くした。
(ここは故郷の教会…?でもこんな造りだったかしら…今日は何日で、あの事件から何日過ぎたんだろう。あの後どうなったのか…それに、あいつやお母さんはどうしてるのか…いやいや、まずは今どうするべきかよく考えなきゃ。とりあえずここを出て…)
よっこらせ、と棺から這い出ようとしたルシンダははっとした。棺の縁を握りしめた手が自分の手ではなかったからだ。それはほぼ成長しきった十七歳の女の手でも、幼い頃から錬成や調合の仕事に従事してきた錬金魔術師の手でもない。自分の身体を見間違えるはずがないのだ。これは私の身体ではない!夢でしかありえない現実に気づいた瞬間、まるでトランプを高速でシャッフルするかのように、自分自身の記憶の狭間に別人の記憶が猛烈な勢いで滑り込んできて、みるみるうちにうず高く積み上がっていった。
(私こんな人生知らない…!この身体も、記憶も、私じゃないの…!?でもはっきり憶えてる、あいつのこと、家族のこと、家のこと…私はルシンダ・オルフェルネスなんだから!!)
しかし彼女の内側には、彼女ではない別の少女の記憶が確かに存在している。その子は入門したての錬金魔術師の卵だった。平凡な夫婦の間に生まれ、故郷の村を出てサントルムという山あいの別の村の錬金魔術工房に弟子入りした。わからないことだらけで戸惑いながらも修行と勉強に明け暮れていた。最期のとき、年齢は十二歳だった。そして、名前は…セシル・ティール。
(なんてこと…私、死んだセシルっていう女の子の身体に魂が乗り移って生き返ったのね…でも、セシルはこの若さでどうして…?)
ルシンダはセシルの最も新しい記憶、つまり最期に見た光景や感じたことを思い出した。そして胸を詰まらせ、うつむいた。セシルの死因は、乾燥させた毒草を誤ってハーブティーに混ぜて飲んでしまったことだった。
(毒死…か…)
セシルの行動に他者の介在は感じられなかったので、おそらくは知識不足、あるいは不注意か。駆け出しのひよっこにはありがちな落とし穴、その最も不運で不幸な結末だ。両親や師匠は、さぞや無念だろう。
「…」
ルシンダにも、その苦しみは痛いほどよくわかった。
(悲しい死はもうたくさん…セシル…どうか安らかに眠ってね)
肉体の器を残して静かに去っていったセシルの魂に冥福の祈りを捧げたルシンダだったが、すぐに顔を上げて行動を開始した。
(セシルやご両親には申し訳ないけど、この身体使わせていただくわ。いろいろ確かめたいことがあるし)
誰も来ないうちにと棺から下りて冷たい床に素足をつけた途端、ルシンダはふらっとよろめいた。
「…おっと」
慌てて棺の縁にしがみついて溜め息をつく。腕と脚の長さや体重が十七歳から十二歳になったことに加え、久しぶりに身体を動かしたことでバランスを崩してしまったのだ。
(この身体まだ慣れないから十分気をつけなきゃ)
気をつけるだけでなく、外に出るには支度と細工も必要だ。ほの暗い堂内を観察すると、祭壇の脇に別室に続く扉があるのが見えた。派手に転んで大きな音を立てないよう、ルシンダはぺったぺったと慎重な足取りでそちらの方に向かった。
聖堂の裏側には通例に違わず、牧師や教会関係者が休憩などに使う控え室のような部屋があった。こちらは魔法のランプは消されて真っ暗だ。さまざまな紙片や書物が置かれたテーブルと椅子。道具入れや戸棚、お茶くらいなら淹れられそうなごくごく簡素な台所。ルシンダはまず魔法を使って壁のランプの燈を弱く灯した。空腹でないと言えば嘘になるが、テーブルの上の余りもののビスケットには目もくれず、その周りの書簡の山を探ってお目当てのものを引っ張り出した。今いる村を中心とした周辺地域の地理や道路網がわかる、住民にとって実用性の高い地図だ。
少女の唇がぶつぶつ動き始めた。
(思ったとおり、ここはサントルムの村ね。初めて聞く地名だけど。セシルの出身地は別の村だから、棺は後日移送されてふるさとの墓地に埋葬されるということか…)
地図はもう一枚あり、そちらはより広域の、そして彼女もよく知る大きな図面だった。
『シュテルンブルク王国』
(…確かにそうなんだけど…妙だな…)
王都ジーベンシュテルンや各主要都市の位置は彼女の記憶にあるのと同じだ。だがサントルムと同様に聞いたことのない名前の領地や街や村、何やら唐突に増えている街道、目新しい区割り、さらには少し地形が変わっている場所や荒れ地と化した場所もあるらしい。ただそれらはセシルの記憶に照らし合わせると違和感はない。それが何を意味するのか、眺めるにつけルシンダはだんだん不安感を催し、とうとう地図に伏せていた顔をがばっと上げた。
(カレンダー…カレンダーはどこ!?…あ、あそこに!)
壁掛け式のカレンダーを見つけ、即座に駆け寄る。星読姫エレオノーラを讃える詩が刻まれ、魔法の力で過ぎた日の光が消えて今の日付が示されるメギオクラフトのカレンダーだ。ルシンダが記憶する最後の年は魔鉱暦六百八十七年。そして今年は…八百九十二年。なんと二百年もの年月が経過していた。
もう何度目かわからないが、ルシンダはまたもや愕然とした。そしてその直後、なぜか心がふわっと軽くなるのを感じた。
(そっか、二百年…じゃああいつはもちろん、お母さんももうこの世にいないのね…)
あの事件の顛末がどういうものだったにしろ、知ったところで自分にできることはもう何もない。自分たちにとって命運をかけた、世界が覆るかと思うような重大な出来事でも、どうやらこの国、この世界はびくともせず、変わらず存続しているようだ。ルシンダは自分たちはひどくちっぽけで無力で滑稽な生き物だと感じた。まして二百年も経った今自分ひとり転生して生き返り、いったいどうしろというのだろう。第二の人生を気楽に生きるか、それとも自分にゆかりのある土地を訪れたり記録を調べたりしてせいぜい歯がゆさを味わうか。今更どうにもできないと悟ると、その二つのどちらも悪くないかもしれないとルシンダには思えた。ゼロになって放り出されたこの状況は、裏を返せば前世での束縛や因縁から解放されて、この世界を自由に見て歩くまたとないチャンスなのだから。
ルシンダは顔の前に手をかざしてしきりに何度も握ったり開いたりし、今のこの肉体に宿る魔力が生前の自分と比べても少しも目減りしていないことを確かめた。
(せっかくの第二の人生だもの、楽しまなくちゃもったいないよね。幸い魔力も魂と一緒に持ってきてることだし、ひとり旅も魔物も怖くない。そうと決まれば牧師さんに見つかって幽霊だって大騒ぎになる前に、一刻も早くここを出よう)
カレンダーの横に並んで掛けられた鏡で顔を確かめる。覚悟はしていたものの、そこに映る成長途中の丸顔にはやはり溜め息が漏れてしまった。しかもこれと言って特徴のない、不細工ではないがいかにもその辺にいそうな顔立ちでますますげんなりしてしまう。標準的だと自負していた胸はぺたんこ、ウエストは寸胴、背も低くお子様体型の印象は否めない。彼女は十七歳当時の生前には才色兼備の魔女として名を馳せ、多くの男性からプロポーズを受けていた。自慢したい気持ちはないが異性から賛美されて正直悪い気はしない。理由があって全員袖にしてしまったのが少し悔やまれる。殺されて転生した今は恋愛などする気にもなれないのだが。
(この顔ではまず見向きもされないだろうな…ま、目立ちにくいからよしとするか。髪の毛とお肌がつやつやしてるのは、さすがの若さね)
死に装束の薄着と裸足のままでは村の外に出られない。ルシンダはシスターのものと思しきコートとサンダルを失敬すると、部屋の隅に立てて置かれていたデッキブラシを取って元いた祭壇の棺に持っていった。恐怖や混乱を招かないよう、セシルに似せた身代わりにするためだ。セシルの身長と同じぐらいの長さのデッキブラシを棺の中に入れ、変化の魔法をかけた。するとデッキブラシはたちまちもうひとりのセシルの遺体に姿を変えた。転生して目覚める寸前の自分はこんなふうだったのか、とルシンダは思わず見入ってしまったが、これ以上ぼやぼやしているわけにもいかず、さらに物質の安定と状態の固定の付加魔法を念入りに施し、棺の蓋を戻して無事に仕事を終わらせた。
(これで木が自然に朽ち果てて土に還るまでばれることはない。第二の人生で運に恵まれたら、いつか必ず恩返しとお墓参りに来るわ。それまでは当分…さようなら)
再スタートの地となった小さな教会からそうっと抜け出し、村の敷地をぐるりと囲む柵の破れ目をくぐってサントルムの外の深い森に分け入る。
(さて、これからどうするか…歩きながら考えるとしましょうか)
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