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【壱】顔に傷のある騎士
しおりを挟む「待て、ルシア」
注文された酒を無言でその男のテーブルに置き、その場から離れようとした時だった。突然後ろから腕を掴まれて、引き寄せられる。仕方なく振り返れば、そこには驚いたように目を見開く青年がいた。
すらりとした体躯に程よく筋肉のついた身体は服の上からでもわかるほどしなやかで、無駄がなく美しい。思わず目を引かれてしまうような端整な顔立ちをした、年若い男だった。艶やかな黒髪の間からは狼のように鋭い琥珀色の瞳がこちらを向いていた。
男の右頬には大きな傷がある。何か刃物のようなもので切り裂かれたかのような深い傷だ。しかしそれさえも、この男の魅力を引き立てる一つの要素になっているように思えた。
「……お前、やはり生きていたのか……」
それは心底驚いたというような表情だった。けれど次の瞬間にはくしゃりと顔を歪めており、まるで泣くことを堪えるように引き結んだ唇の端が震えている。
「申し訳ないが、人違いだ」
何やら精神的に盛り上がっている目の前の男に無表情で言い放ってやるも、男はなかなか俺の腕を離そうとしない。
「待ってくれ。少し話がしたい。時間をもらえないだろうか?」
男は俺の腕を掴んだまま、立ち上がって懇願してきた。見上げる程背が高い。威圧感を感じるほどだ。
身なりや立ち居振る舞いから貴族階級の者だと簡単に分かる。こんな大衆酒場で見かけるのは珍しい。
「……別にそれは構わないが。俺を指名して買うってことで良いのか?」
「どういう意味だ?」
男は訝しげに眉間に皺を寄せ呟き返してくる。こんな所に来てるから、てっきりそういう相手を探してるのかと思ったけど違うらしい。
「一応この店の上は宿屋になっているが、休憩だけでも部屋は利用できる。客同士で使ってもいいが、気に入った従業員引き摺りこんでも問題ない。俺の時間が欲しいなら今から部屋に行くか?別料金だが」
男に淡々と説明してやったものの、固まってしまって反応が無いことからすると、通じてないのかもしれない。遊び慣れていないようだ。
まあ、こんな場所にこなくてもこの男の容姿なら相手してくれる女なんていっぱいいそうだし。
「……とりあえず、そのつもりがないなら離せ。俺は仕事中なんだ」
腕を強く引っ張っるもビクともしない。どうやらとんでもなく力が強いみたいだ。力の差を目の当たりにして、なんとなく不貞腐れる。
「……分かった。君を一晩買うよ」
男は何か考え込んでいたようだったが納得したらしく、腕を掴む手はそのままで、俺のことを苦しそうに見つめ返してくる。
「一応、俺は男だけどいいわけ?」
俺は中性的な外見をしているが、それでも一目見れば女に見えるはずもない姿形をしている。男の迷いが伝わってきたため念のため聞いてみた。
「……その、そういうつもりではなくて……話をしたいだけなんだが」
明らかに困惑している様子で男は呟く。真面目を絵にしたような男だ。何故こんな所に迷い込んだのか分からないが。
俺は軽く溜め息をついた。
人を買うと言いながら、傷付いた顔をして、善良な人間であろうとする男に軽く苛立ちを覚える。
「……オーナー。俺今日はもう外れていいですか?二階の角の個室使います」
先ほどから心配そうにこちらを伺っていた店主に声をかけ、俺は店の奥にある階段を指差した。
「ああ、それは構わないが……アル。お前、大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ。ただの客です。俺と話がしたいだけらしいんで」
店主は俺に気を使ってか、声を落として聞いてくる。相変わらず心配性だ。
「何かあったらすぐ呼べよ」
「ありがとうございます。では、行ってきますね」
店主に向かって笑顔を向けるが、上手く笑えたか分からない。随分長いこと笑ってないから、表情筋が錆びつているかもしれない。
「こっちだ」
男に腕を掴まれたまま、俺は薄暗い階段を登り始めた。男も黙ってついてくる。
一階にある酒場は賑やかで、笑い声や怒鳴り声など色んな声が飛び交っていたが、この階段は静かだった。二階フロアは個室のみだ。壁が薄いため、時折使用中の部屋から艶かしい声が聞こえてくることもある。一番奥の部屋へと入り鍵をかけると、ようやく男の腕が開放された。
「狭いけど、適当に座って」
店内よりも室内はさらに薄暗い。目を凝らさない限り俺の顔はよく見えないだろう。
男は、言われるがまま部屋の中央にあるベッドへと腰掛けた。
「……アル、という名なのか?」
「そうだが、好きなように呼んでもらって構わない。『ルシア』でもいいぞ」
「いや……なら、アルと呼ばせてもらう。君は、いつからこんなことを?」
「こんなこと、とは?」
「……その、身体を売って……」
男は言いづらそうに口籠もる。
「ああ、そういうことか。ここのオーナーに世話になって働きはじめてだから、1年前くらいかな」
男の質問に淡々と答えてやると、男は絶句したように押し黙ってしまった。自分との倫理観の違いに呆れているのかもしれない。男の態度にさらに苛立ちがつのる。
「何か飲むか?酒なら色々取り揃えてるぞ」
「いや、結構だ。君だけ飲むといい」
備え付けのミニバーを指差しながら聞いてやったら、男はこちらを見もしないで返してきた。気を使ってくれているのか本当に要らないのかよく分からないが、それでは俺の目的が達せない。
「そう言うな。一杯くらい付き合え」
「俺は、本当に……」
「いいから」
男の言葉を強引に遮り、俺はミニバーから酒瓶と氷を拝借してグラスに注いだ。それを男に押しつけて無理やり持たせ、自分の分も作って一気に煽る。度数の高いアルコールが喉を焼きながら流れ落ちていった。酒でも飲まないとやってられない。自分がやろうとしていることを思えば、素面ではいられない。
男は心配そうな顔をして俺を見てくる。薄暗い部屋の中でほのかに光る琥珀色の目は本当に美しくて、現実感がない。こんな所でこの男と二人でいるのが不思議なくらいだった。
男が酒に口をつけたのを確認して、俺は口を開いた。
「あんた、騎士だろ?こんな所に来るなんて、何か事情があるのか?」
「……どうしてそう思うんだ?」
男は一瞬驚いたようだったがすぐに表情を戻し、逆に俺に問い返してくる。
「掌が剣だこで硬くなってるし、立ち方、歩き方、姿勢とかで何となく」
「それだけで?」
「……それだけだ」
男の探るような眼差しに、俺は溜め息をつきながら言葉を返した。
「…で?清廉潔白な騎士様がこんな所まで来て、何の用だ?」
「人を探していたんだ。この辺りにいるかもしれないと、聞いて」
「ああ、さっき俺と間違えた『ルシア』か?」
「そう、君の言った通りだ。ルシアに似た人物がここで雇われているという情報を得たんだ。だから、……」
「それで、わざわざ確かめに来たわけか?」
「……そうだ」
男は気まずそうな顔をして俯く。
「残念だったな、人違いで」
俺はグラスに酒瓶を傾けて、また一気に煽った。今日はいつもよりも酔いが回るのが早い気がする。やはり少し緊張しているのかもしれない。
「……本当に、ルシアじゃないのか?」
「違うって言ってるだろ」
男は縋るような目をこちらに向けてきた。どうやらこの男は俺が『ルシア』だと信じて疑っていないようだ。
「……それとも何か?あんたの知っている『ルシア』は簡単に身体を売るような奴だったのか?」
「絶対にない」
俺の言葉に男は即座に否定した。
「ルシアは、誰よりも気高く美しい心を持った人だった。人一倍努力家で、いつも真剣に物事に取り組んでいて……自らその身を堕とすような真似は決してしない」
男は絞りだすように呟いた。言葉の端々に、男の『ルシア』に対する思いがこめられている。
「……あー、ソウデスカ」
俺はシラけた気分になり、思わず棒読みで返答してしまう。なんだか逆に自分自身が侮辱されているような気がしてしまう。
男は俺の感情を察知したのか、すぐに謝ってきた。
「すまない……気分を害したなら謝る」
「別に怒ってない。いちいち気にするな」
俺は、吐き捨てるように言うと、ゆっくり自分のシャツのボタンを一つずつ外していった。
「『ルシア』ってあんたの何?恋人?」
「……幼馴染みだ。俺は、ルシアを守ると約束したのに、一番大事なときにそばにいなかった」
男は苦しげに顔を歪めると、再び押し黙ってしまう。俺は男の手からグラスを取り上げてサイドテーブルへと置くと、羽織っていたシャツを脱ぎ捨てた。
そのまま男の膝の上にゆっくりと跨る。
男は一瞬身体を強ばらせたが、俺を押し退けようとはしない。俺から視線を外したまま、話し続ける。
「ルシアには、婚約者がいたんだ。ルシアは献身的に仕えていたのに、婚約者はそんなルシアを傷つける行為を繰り返した。ルシアは陰で泣きながら耐えていたのに、死ぬしかないと呟く程追い詰められ、最後はありもしない罪を着せられて……」
男から聞く『ルシア』の話は、まるで悲劇の物語のヒロインのようだった。俺は段々腹が立ってきて、無言で男のシャツのボタンを乱暴に外していく。
「アル?何を……」
「いいから」
男の制止の声を遮り、その肌に手を滑らせた。鍛えられた筋肉は硬く引き締まっていて、とても触り心地がいいとは言えない。それでも滑らかな肌の感触は俺を高揚させたし、何よりこの男がどんな反応をするか気になった。
男のシャツを剥ぎ取れば、右肩に、頬と同じ引きつれた大きな傷痕が刻まれていた。
「……痛そうだな」
無意識に顔を歪ませると、男は唇を噛んで頭を振った。
「もう随分前の傷だ」
「……そうか」
俺は傷痕を指でそっとなぞった。男は、痛みを堪えるかのように目を固く瞑り、俺の行動にされるがままになっている。
「『ルシア』は死んだのか?それとも、どこかに幽閉されてる?」
俺は男の傷痕を優しく撫でながら、慎重に言葉を選んで尋ねた。最初に俺にかけられた言葉から考えると、死んだということになっているのが妥当な気がする。
「ルシアの生死は分からない。ずっと行方不明だ。乗っていた馬車が崖から転落したらしいが、遺体はまだ見つかっていない」
「それ、もう死んでるだろ。いつまで生きてる可能性に縋ってるんだ。さっさと忘れろよ」
俺は呆れたように肩を竦めた。
「それに、例え生きてたとしても、戻ってきてないのが答えだろ」
俺の言葉を聞いた男は、弾かれたように顔を上げ、目を見開いて俺のことを凝視してきた。
「……ルシアの罪は、当然なことだが不問となっている。ルシアの婚約者だった男も今は自らの行いを悔いている。戻ってきても、大丈夫なんだ。……それを、ルシアに伝えたい。それだけなんだ」
男の苦しげな独白を聞きながら、俺は緩く溜め息をついた。嫌なことを聞いてしまった。
「俺にそれを言って、どうするんだ?」
「……そうだな、すまない」
男は自嘲するように笑った。その笑顔はとても苦しげで。俺は思わず男の右頬の傷に触れた。
「アル?」
男は驚いたように俺の名前を呼ぶが、その手を振り払ったりはしない。俺はそのまま男の顔に手を滑らせ、ゆっくりと口付けた。
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