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番外 モブを尊ぶ、ラヴェル・ウォリックの忠誠 ②
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公爵邸に着き、私はまず、筆頭執事である父を呼んでもらった。
そのとき、玄関で采配していたのが父ではなかったことを、いぶかしむべきだった。
しかし、当時はそのようなことに考えが及ばなかったのだ。情けない。
すると、父が。まるで荷物を放り出すかのようなぞんざいさで、公爵邸の中から出てきた。
いや。突き飛ばされ、転ばされたのだ。
続けて玄関から、赤いドレスを身にまとい、金髪を縦にカールした、派手派手しい女が出てきて。
地べたに倒れる父に向って、言ったのだ。
「あらぁ? 息子が迎えに来て良かったじゃなぁい? これで安心して、あの島へ渡れるわね?」
「あの島って…あなたは、いったい何者なのですか?」
公爵家の中で大きな顔をしている、見知らぬ女に腹を立て、私はたずねた。
いや、マジで誰?
「無礼な子ね。私はアナベラ。前王の妹よ?」
そう言われ、私はさすがに目を見開いて驚いた。
それを見てドヤ顔のアナベラ…さま。
いや。呼び捨てでいいか。
「本来なら、王族にそんな口をきいた時点で、死刑だけど…ロイド、私は優しい女主人だから。躾がなっていないこの子を、島で再教育する許可をあげるわぁ。感謝なさい?」
「そんな。ラヴェルは無関係でしょう? 島には私がひとりで行きます」
慌てた様子で、父はアナベラに願い出る。が、アナベラは一笑に付す。
「無関係なわけないでしょう? あの女の執事をしていたんだから。そうだわぁ、あの女、王族の私を差し置いて公爵家に入り込もうとした罪で、投獄してしまおうかしら?」
「それは、横暴です。どうか、第二夫人はお見逃しくださいませ。そして、島には私がひとりで参りますから。ラヴェルは執事見習いで、まだ十八です。どうかご容赦くださいませ、アナベラ様」
へりくだって、見知らぬ女に頭を下げる父を、私は情けないと思ってしまった。
けれど。父はこのとき。なにもかもを背負って、ひとり公爵家を出て行こうとしていたのだ。
私の方こそ、浅慮だった。
「駄目よ。親子で島へ行きなさい。そうしたら、第二夫人には危害を加えないと、約束してあげる。あらぁ? そんな大の大人が、泣きそうな顔をするなんて。おかしいわぁ? 王城の執事になれるのだから、栄転ではなくて? 晴れの門出よ。旦那様もお喜びだわぁ?」
アナベラは大きな扇で、赤い口紅を塗りたくった唇を隠すが、目が、いかにも楽しげに笑んでいた。
「さ、貴方たち。この者たちを、島に送り届けてちょうだい。今すぐよ」
すると、少し柄が悪そうな騎士が、数人出てきて。私と父を馬車に押し込んだ。
そのまま馬車は、港へ直行する。
「なんなのです? いったい、なにが起こったのですか? 父上?」
馬車の中で、私は父にたずねる。
すると父は、苦虫を噛みつぶしたような顔で、私を睨んだ。
「なぜ、第二夫人の元から離れた? おまえは…夫人と公爵家のお子様を、そばで守るべきだった」
まだ事情が全く把握できていない私は、父に叱られ。理不尽さを感じる。
私は私で、ベストを尽くしているつもりだったからだ。
「別邸を立ち退けと言われたのです。行き違いがあったのだろうと、私は様子を見に…」
男性の使用人や執事が着用する濃紺のスーツを、父は身綺麗にし。リボンタイのゆがみを直す。
公爵家の執事として、恥ずかしくないよう、居住まいを正すが。悔しげな表情は取り繕えなかった。
「すまない、ラヴェル。なにも知らぬおまえに八つ当たりをして…私こそ…旦那様のそばから排除され。最後まで旦那様をお守りできなかった。それを私は悔いているのだ」
そうして、父は。港へ着くまでの間、公爵家で起きた顛末を教えてくれた。
公爵家では、第二夫人とお子様を本邸に迎える準備を進めていた。
もちろん公爵も、その日を心待ちにしていたのだ。
しかし、五日前、突然アナベラとバミネがたずねてきて。公爵は客と相対したのだが。
その日から。父はもう旦那様と会えなくなってしまったようだ。
公爵家の女主人を名乗り始めたアナベラに、旦那様に会わせろと直訴したが。それで父は彼女たちに煙たがれてしまったらしい。
「昨日、王城で働けるよう手配したから行けと言われた。それでも私は、公爵家から出るつもりはなかったのだが。おまえが来て。騎士に、おまえを殺させると、アナベラに脅されて…」
父は、公爵家のために尽くしてきた男だ。
実の子供である私よりも、旦那様優先に動く父を、少し寂しく思うものの。その姿勢には、憧れすら感じていた。
私も、クロウ様とこのような関係になれたら、と思ったものだ。
そんな父が。私が殺されると思って、身動きが取れなくなったなんて。驚いた。
「それは…タイミングが悪く、申し訳ありませんでした。ですが、こちらも立ち退き要求をされて、慌ててしまったもので」
「執事見習いであるおまえが、冷静な判断ができなかったのは、仕方がないことだ。私だとて、今、なにが起きているのか、大局を掴めずにいる。なにも、わからないのだ」
そう言って、父は大きなため息をついた。
大筋が掴めてきたのは、島に渡り、王城で陛下のお世話係になってから、少し後のことだった。
アナベラとバミネが公爵家を乗っ取ったのは、陛下の強力な魔法を封じるためであった。
魔力というものは、大概が高位貴族が持つものなので。貴族ではない私には、魔法や魔力のなんたるかはよくわからない。
陛下も、このことに関して詳しく教えてはくださらないのだが。
どうやら、バジリスク公爵の魔力がないと、陛下は存分に力が振るえないということらしい。
そうして力を封じられた陛下を、孤島にそびえる王城に閉じ込め。表に出られないようにし。
いずれ自分たちが実権を握り、王座も奪う。
それがアナベラたちの算段のようだった。
私たちが、第二夫人を盾に取られているように。
陛下も前王妃や妹君の命を盾に取られている。
しかも陛下は、まだ八歳という若輩で、後ろ盾もほぼない状態。
アナベラとバミネに、良いように手玉に取られていた。
でも、クロウ様が公爵家へ入られたら。
神童であった彼が、アナベラとバミネに対抗してくれるのではないか?
旦那様が道を外しているのであれば、正してくれるのでは?
そして私たち親子も、この孤島から救い出してくれるのではないか?
そんな一縷の望みをかけていた。
クロウ様に。子供にすがるしかないのは、情けないこと。
本来なら執事である私が、なにを置いても彼を助けに行かなければならないのに。
しかし、私たち親子は、この島から出ることを一切許されなかった。
私たちがクロウ様を助けることも、クロウ様が私たちを救いに来てくれることも、なく。
時間だけが無為に過ぎ。
なんとも歯がゆい日々を、王城で長く長く過ごすことになったのだ。
そのうち、ふたりの若い騎士が、私たちと同じように島に送り込まれてきた。
最初は、陛下を暗殺するための刺客かと思ったが。
どうやら、セドリックとシヴァーディも、バミネに歯向かって、ここへ追いやられた口のようだ。
私たちは、いずれアナベラとバミネの支配が解けたときのことを夢見て、幼い陛下に知恵や技術を教えていった。
まずは、やつらに命を脅かされないよう。体を鍛え、剣術を極める。
幾度も外敵を排除してきた王族の末裔である陛下は、剣術がお得意だった。めきめきと上達され、体も大きくなり。並の騎士や兵士では、太刀打ちできないほどの猛者となられた。
一方、お勉強の方は。一を教えて十を理解するクロウ様のようにはいかなかった。
十を二回教えれば、のみ込んで、自分の知にできるので。頭が悪いわけではない。
ただ、時間はかかった。
クロウ様は、逆に、体を動かすことが苦手だったので。ふたりの資質は、全く異なるものだと言わざるを得ない。
クロウ様は、勉学はずば抜けていたが、運動は苦手。
あと人見知りの気があり。おとなしやかで。黒髪黒瞳の容姿は湖の精霊のごとき清らかさ。
純粋無垢という言葉がよくお似合いだ。
陛下は、剣術に抜きん出ているが、勉学を習得するには時間をかけなければならず。
しかし、大らかで笑顔が明るく。容姿も黄金の髪色に、晴れた日の海色の瞳は太陽神のごとき荘厳さ。
気炎万丈という言葉がよくお似合いだ。
使用人たちに接する態度は、柔和だが。アナベラとバミネに対してだけは、常に怒りを抱えているから。
その秘めたる怒りと、国民や家族を想う情熱。
陛下はいつも、燃え盛る炎を背負っておられるのだ。
そんな正反対のおふたりを、単純に比較することはできない。
ただ。私はクロウ様の執事であることを、忘れることはできないし。
王城で働くからには、陛下にできうる限りの忠義を尽くし。執事としても大成したいと願っている。
つまり、おふたりとも、大事な私の主だということだ。
そして十年経った、現在。
バミネが王城に送り込んできたのは。
年端もいかぬ少女と、陛下の死に装束を作るという仕立て屋だった。
『死に装束を作る仕立て屋』というのを知る者は。
陛下に常に付き従う私と、騎士のふたりだけだが。
初めは、なんて不敬なやつだと、私たちは憤っていた。
しかし、その者の名が『クロウ・エイデン』だと聞き。
私の胸には、衝撃が走った。もしかして、あのクロウ様ではないか?
姓がバジリスクではないので。すぐには確信出来なかった。けれど。
エントランスホールで、その御顔を拝見し。私は、歓喜に打ち震えた。
間違いない、私の主だ。
十歳であった彼が二十歳の青年になったとしたって、見間違えるはずなどない。
しかし、それとは同時に。
なぜ、クロウ様がバミネの言いなりで、陛下の死に装束など作るのかと。不安になった。
クロウ様は、バミネに取り込まれてしまったのだろうか? と。
しかし、それは杞憂であった。
クロウ様にお話をうかがえば。昼間に猫になってしまう呪いを受けたシオン様を治すために、バミネに奪われたネックレスを取り戻したいのだ、ということで。
仕方なく依頼を引き受けたのだ。
公爵家をバミネに追い出されたらしいクロウ様は、もちろん彼らを嫌っていた。当然だ。
だが、私と離れた後、つらい日々を過ごしたのだろうことは察せられる。
手に職をつけ、母君とシオン様をあの細腕で育てたという。おいたわしい。
ここで、生前、父が言っていた言葉を思い出す。
おまえは…夫人や公爵家のお子様を、そばで見守るべきだった。
まったく、そのとおりだ。
私は、彼らのそばを離れるべきではなかった。
そばにいられさえすれば、クロウ様が自ら働くようなことをさせはしなかったのに。
私がなんとしても、クロウ様たちをお守りできたのに。
とにかく、クロウ様は陛下の敵ではなかった。それだけでも、嬉しい。
それにしても、クロウ様はとても美しく御なりだった。
ストレートの黒髪が、つやつやと輝き。白皙の頬に薄桃色の小さな唇が彩りを添える。
黒い瞳は、真珠のようなきらめきで。気だるそうな目元は大人の色気を醸している。
陛下に平伏するその御姿は、神に仕える天使のようであった。
そして、もうひとり。
シオン様は、四歳当時の面影はほとんどなかった。
波打つ黒髪に、エメラルドグリーンの瞳は、そのままだが。
どちらかというと。旦那様に瓜二つというか。若き旦那様がクロウ様を背後で守っているかのような錯覚をしてしまった、ほどだ。
低く、力強い声は、もう、大人のそれで。
シオン様は、クロウ様より背の高い、頑健な青年になっている。
力任せに、四歳のシオン様をグルグル振り回したことがあるが。あのあどけない空気は一ミリもない。
「…僕には、兄上がすべてです」
そう言って、シオン様はクロウ様の首筋に顔を埋め。私に目を向けて、ニヤリと笑った。
兄は自分のもの。おまえの入り込む余地はない。
というような、挑発的で、不穏な視線だ。
旦那様と第二夫人の逢瀬は、笑顔が絶えない、幸せな構図だった。ほのぼのカップルである。
しかし、クロウ様とシオン様は。決して離れないという執着を匂わせるものだった。
銀の鎖がふたりに巻きつく幻影が見えるほどに。
その、シオン様の独占欲に、私は驚き。
そして私の中にも、そう簡単にクロウ様から去ることなどできないと、渡せないと、そんな独占欲があることを知り。驚いた。
シオン様は。神童と呼ばれるほど知力があり、性格もお優しいクロウ様に、しっかりと守られ、愛情もたっぷり注がれて、育ったのだろう。
それはもう、片時もそばから離れたくなくなるほどに、兄を尊敬崇拝するはずだ。
クロウ様には、心地よい愛情がとめどなく湧き出ているような、人間的な魅力や。何事も、涼しい顔で受け止めるような、大きな器が。十歳の頃から備わっていた。
だからこそ私も、まだ幼かったクロウ様に自然と頭が下がった。
この方に仕えたいと、心の底から従属を望んだのだ。
だから、シオン様のお気持ちは、私にも理解できます。ゆえに、私も譲れませんが。
クロウ様は、私の主である。
でも。それ以上に。貴方様のそばにいたい。貴方だけの、そばに。
そういう、言葉にしがたい感情が生まれていたことを。このとき私は、シオン様にわからされたのだ。
とりあえず、当面、陛下をクロウ様に近づけさせないようにしよう。
クロウ様と、いろいろ話をした中で『陛下が先ほどサロンにいらして、なんでかわからないけど蹴られちゃった…』なんて笑顔で言われたときは、血の気が引きました。マジで。
クロウ様が、陛下の死に装束を作りに来ている。
そう認識している陛下の、クロウ様へのお怒りはすさまじく。憤怒の余り危害を加えないか、それが気掛かりだった。
誤解だと言えればよいのだが、クロウ様が内密にしてくれと言うので。
事情を説明できないのなら、陛下を遠ざけるしかない、のでしょうね。
そのとき、玄関で采配していたのが父ではなかったことを、いぶかしむべきだった。
しかし、当時はそのようなことに考えが及ばなかったのだ。情けない。
すると、父が。まるで荷物を放り出すかのようなぞんざいさで、公爵邸の中から出てきた。
いや。突き飛ばされ、転ばされたのだ。
続けて玄関から、赤いドレスを身にまとい、金髪を縦にカールした、派手派手しい女が出てきて。
地べたに倒れる父に向って、言ったのだ。
「あらぁ? 息子が迎えに来て良かったじゃなぁい? これで安心して、あの島へ渡れるわね?」
「あの島って…あなたは、いったい何者なのですか?」
公爵家の中で大きな顔をしている、見知らぬ女に腹を立て、私はたずねた。
いや、マジで誰?
「無礼な子ね。私はアナベラ。前王の妹よ?」
そう言われ、私はさすがに目を見開いて驚いた。
それを見てドヤ顔のアナベラ…さま。
いや。呼び捨てでいいか。
「本来なら、王族にそんな口をきいた時点で、死刑だけど…ロイド、私は優しい女主人だから。躾がなっていないこの子を、島で再教育する許可をあげるわぁ。感謝なさい?」
「そんな。ラヴェルは無関係でしょう? 島には私がひとりで行きます」
慌てた様子で、父はアナベラに願い出る。が、アナベラは一笑に付す。
「無関係なわけないでしょう? あの女の執事をしていたんだから。そうだわぁ、あの女、王族の私を差し置いて公爵家に入り込もうとした罪で、投獄してしまおうかしら?」
「それは、横暴です。どうか、第二夫人はお見逃しくださいませ。そして、島には私がひとりで参りますから。ラヴェルは執事見習いで、まだ十八です。どうかご容赦くださいませ、アナベラ様」
へりくだって、見知らぬ女に頭を下げる父を、私は情けないと思ってしまった。
けれど。父はこのとき。なにもかもを背負って、ひとり公爵家を出て行こうとしていたのだ。
私の方こそ、浅慮だった。
「駄目よ。親子で島へ行きなさい。そうしたら、第二夫人には危害を加えないと、約束してあげる。あらぁ? そんな大の大人が、泣きそうな顔をするなんて。おかしいわぁ? 王城の執事になれるのだから、栄転ではなくて? 晴れの門出よ。旦那様もお喜びだわぁ?」
アナベラは大きな扇で、赤い口紅を塗りたくった唇を隠すが、目が、いかにも楽しげに笑んでいた。
「さ、貴方たち。この者たちを、島に送り届けてちょうだい。今すぐよ」
すると、少し柄が悪そうな騎士が、数人出てきて。私と父を馬車に押し込んだ。
そのまま馬車は、港へ直行する。
「なんなのです? いったい、なにが起こったのですか? 父上?」
馬車の中で、私は父にたずねる。
すると父は、苦虫を噛みつぶしたような顔で、私を睨んだ。
「なぜ、第二夫人の元から離れた? おまえは…夫人と公爵家のお子様を、そばで守るべきだった」
まだ事情が全く把握できていない私は、父に叱られ。理不尽さを感じる。
私は私で、ベストを尽くしているつもりだったからだ。
「別邸を立ち退けと言われたのです。行き違いがあったのだろうと、私は様子を見に…」
男性の使用人や執事が着用する濃紺のスーツを、父は身綺麗にし。リボンタイのゆがみを直す。
公爵家の執事として、恥ずかしくないよう、居住まいを正すが。悔しげな表情は取り繕えなかった。
「すまない、ラヴェル。なにも知らぬおまえに八つ当たりをして…私こそ…旦那様のそばから排除され。最後まで旦那様をお守りできなかった。それを私は悔いているのだ」
そうして、父は。港へ着くまでの間、公爵家で起きた顛末を教えてくれた。
公爵家では、第二夫人とお子様を本邸に迎える準備を進めていた。
もちろん公爵も、その日を心待ちにしていたのだ。
しかし、五日前、突然アナベラとバミネがたずねてきて。公爵は客と相対したのだが。
その日から。父はもう旦那様と会えなくなってしまったようだ。
公爵家の女主人を名乗り始めたアナベラに、旦那様に会わせろと直訴したが。それで父は彼女たちに煙たがれてしまったらしい。
「昨日、王城で働けるよう手配したから行けと言われた。それでも私は、公爵家から出るつもりはなかったのだが。おまえが来て。騎士に、おまえを殺させると、アナベラに脅されて…」
父は、公爵家のために尽くしてきた男だ。
実の子供である私よりも、旦那様優先に動く父を、少し寂しく思うものの。その姿勢には、憧れすら感じていた。
私も、クロウ様とこのような関係になれたら、と思ったものだ。
そんな父が。私が殺されると思って、身動きが取れなくなったなんて。驚いた。
「それは…タイミングが悪く、申し訳ありませんでした。ですが、こちらも立ち退き要求をされて、慌ててしまったもので」
「執事見習いであるおまえが、冷静な判断ができなかったのは、仕方がないことだ。私だとて、今、なにが起きているのか、大局を掴めずにいる。なにも、わからないのだ」
そう言って、父は大きなため息をついた。
大筋が掴めてきたのは、島に渡り、王城で陛下のお世話係になってから、少し後のことだった。
アナベラとバミネが公爵家を乗っ取ったのは、陛下の強力な魔法を封じるためであった。
魔力というものは、大概が高位貴族が持つものなので。貴族ではない私には、魔法や魔力のなんたるかはよくわからない。
陛下も、このことに関して詳しく教えてはくださらないのだが。
どうやら、バジリスク公爵の魔力がないと、陛下は存分に力が振るえないということらしい。
そうして力を封じられた陛下を、孤島にそびえる王城に閉じ込め。表に出られないようにし。
いずれ自分たちが実権を握り、王座も奪う。
それがアナベラたちの算段のようだった。
私たちが、第二夫人を盾に取られているように。
陛下も前王妃や妹君の命を盾に取られている。
しかも陛下は、まだ八歳という若輩で、後ろ盾もほぼない状態。
アナベラとバミネに、良いように手玉に取られていた。
でも、クロウ様が公爵家へ入られたら。
神童であった彼が、アナベラとバミネに対抗してくれるのではないか?
旦那様が道を外しているのであれば、正してくれるのでは?
そして私たち親子も、この孤島から救い出してくれるのではないか?
そんな一縷の望みをかけていた。
クロウ様に。子供にすがるしかないのは、情けないこと。
本来なら執事である私が、なにを置いても彼を助けに行かなければならないのに。
しかし、私たち親子は、この島から出ることを一切許されなかった。
私たちがクロウ様を助けることも、クロウ様が私たちを救いに来てくれることも、なく。
時間だけが無為に過ぎ。
なんとも歯がゆい日々を、王城で長く長く過ごすことになったのだ。
そのうち、ふたりの若い騎士が、私たちと同じように島に送り込まれてきた。
最初は、陛下を暗殺するための刺客かと思ったが。
どうやら、セドリックとシヴァーディも、バミネに歯向かって、ここへ追いやられた口のようだ。
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まずは、やつらに命を脅かされないよう。体を鍛え、剣術を極める。
幾度も外敵を排除してきた王族の末裔である陛下は、剣術がお得意だった。めきめきと上達され、体も大きくなり。並の騎士や兵士では、太刀打ちできないほどの猛者となられた。
一方、お勉強の方は。一を教えて十を理解するクロウ様のようにはいかなかった。
十を二回教えれば、のみ込んで、自分の知にできるので。頭が悪いわけではない。
ただ、時間はかかった。
クロウ様は、逆に、体を動かすことが苦手だったので。ふたりの資質は、全く異なるものだと言わざるを得ない。
クロウ様は、勉学はずば抜けていたが、運動は苦手。
あと人見知りの気があり。おとなしやかで。黒髪黒瞳の容姿は湖の精霊のごとき清らかさ。
純粋無垢という言葉がよくお似合いだ。
陛下は、剣術に抜きん出ているが、勉学を習得するには時間をかけなければならず。
しかし、大らかで笑顔が明るく。容姿も黄金の髪色に、晴れた日の海色の瞳は太陽神のごとき荘厳さ。
気炎万丈という言葉がよくお似合いだ。
使用人たちに接する態度は、柔和だが。アナベラとバミネに対してだけは、常に怒りを抱えているから。
その秘めたる怒りと、国民や家族を想う情熱。
陛下はいつも、燃え盛る炎を背負っておられるのだ。
そんな正反対のおふたりを、単純に比較することはできない。
ただ。私はクロウ様の執事であることを、忘れることはできないし。
王城で働くからには、陛下にできうる限りの忠義を尽くし。執事としても大成したいと願っている。
つまり、おふたりとも、大事な私の主だということだ。
そして十年経った、現在。
バミネが王城に送り込んできたのは。
年端もいかぬ少女と、陛下の死に装束を作るという仕立て屋だった。
『死に装束を作る仕立て屋』というのを知る者は。
陛下に常に付き従う私と、騎士のふたりだけだが。
初めは、なんて不敬なやつだと、私たちは憤っていた。
しかし、その者の名が『クロウ・エイデン』だと聞き。
私の胸には、衝撃が走った。もしかして、あのクロウ様ではないか?
姓がバジリスクではないので。すぐには確信出来なかった。けれど。
エントランスホールで、その御顔を拝見し。私は、歓喜に打ち震えた。
間違いない、私の主だ。
十歳であった彼が二十歳の青年になったとしたって、見間違えるはずなどない。
しかし、それとは同時に。
なぜ、クロウ様がバミネの言いなりで、陛下の死に装束など作るのかと。不安になった。
クロウ様は、バミネに取り込まれてしまったのだろうか? と。
しかし、それは杞憂であった。
クロウ様にお話をうかがえば。昼間に猫になってしまう呪いを受けたシオン様を治すために、バミネに奪われたネックレスを取り戻したいのだ、ということで。
仕方なく依頼を引き受けたのだ。
公爵家をバミネに追い出されたらしいクロウ様は、もちろん彼らを嫌っていた。当然だ。
だが、私と離れた後、つらい日々を過ごしたのだろうことは察せられる。
手に職をつけ、母君とシオン様をあの細腕で育てたという。おいたわしい。
ここで、生前、父が言っていた言葉を思い出す。
おまえは…夫人や公爵家のお子様を、そばで見守るべきだった。
まったく、そのとおりだ。
私は、彼らのそばを離れるべきではなかった。
そばにいられさえすれば、クロウ様が自ら働くようなことをさせはしなかったのに。
私がなんとしても、クロウ様たちをお守りできたのに。
とにかく、クロウ様は陛下の敵ではなかった。それだけでも、嬉しい。
それにしても、クロウ様はとても美しく御なりだった。
ストレートの黒髪が、つやつやと輝き。白皙の頬に薄桃色の小さな唇が彩りを添える。
黒い瞳は、真珠のようなきらめきで。気だるそうな目元は大人の色気を醸している。
陛下に平伏するその御姿は、神に仕える天使のようであった。
そして、もうひとり。
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波打つ黒髪に、エメラルドグリーンの瞳は、そのままだが。
どちらかというと。旦那様に瓜二つというか。若き旦那様がクロウ様を背後で守っているかのような錯覚をしてしまった、ほどだ。
低く、力強い声は、もう、大人のそれで。
シオン様は、クロウ様より背の高い、頑健な青年になっている。
力任せに、四歳のシオン様をグルグル振り回したことがあるが。あのあどけない空気は一ミリもない。
「…僕には、兄上がすべてです」
そう言って、シオン様はクロウ様の首筋に顔を埋め。私に目を向けて、ニヤリと笑った。
兄は自分のもの。おまえの入り込む余地はない。
というような、挑発的で、不穏な視線だ。
旦那様と第二夫人の逢瀬は、笑顔が絶えない、幸せな構図だった。ほのぼのカップルである。
しかし、クロウ様とシオン様は。決して離れないという執着を匂わせるものだった。
銀の鎖がふたりに巻きつく幻影が見えるほどに。
その、シオン様の独占欲に、私は驚き。
そして私の中にも、そう簡単にクロウ様から去ることなどできないと、渡せないと、そんな独占欲があることを知り。驚いた。
シオン様は。神童と呼ばれるほど知力があり、性格もお優しいクロウ様に、しっかりと守られ、愛情もたっぷり注がれて、育ったのだろう。
それはもう、片時もそばから離れたくなくなるほどに、兄を尊敬崇拝するはずだ。
クロウ様には、心地よい愛情がとめどなく湧き出ているような、人間的な魅力や。何事も、涼しい顔で受け止めるような、大きな器が。十歳の頃から備わっていた。
だからこそ私も、まだ幼かったクロウ様に自然と頭が下がった。
この方に仕えたいと、心の底から従属を望んだのだ。
だから、シオン様のお気持ちは、私にも理解できます。ゆえに、私も譲れませんが。
クロウ様は、私の主である。
でも。それ以上に。貴方様のそばにいたい。貴方だけの、そばに。
そういう、言葉にしがたい感情が生まれていたことを。このとき私は、シオン様にわからされたのだ。
とりあえず、当面、陛下をクロウ様に近づけさせないようにしよう。
クロウ様と、いろいろ話をした中で『陛下が先ほどサロンにいらして、なんでかわからないけど蹴られちゃった…』なんて笑顔で言われたときは、血の気が引きました。マジで。
クロウ様が、陛下の死に装束を作りに来ている。
そう認識している陛下の、クロウ様へのお怒りはすさまじく。憤怒の余り危害を加えないか、それが気掛かりだった。
誤解だと言えればよいのだが、クロウ様が内密にしてくれと言うので。
事情を説明できないのなら、陛下を遠ざけるしかない、のでしょうね。
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これは、悠真が「本当に選ぶべきもの」を見つける物語。
続編『元社畜の俺、大学生になってまたモテすぎてるけど、今度は恋人がいるので無理です』
かつてブラック企業で心を擦り減らし、過労死した元社畜の男・藤堂悠真は、
転生した高校時代を経て、無事に大学生になった――
恋人である藤崎颯斗と共に。
だが、大学という“自由すぎる”世界は、ふたりの関係を少しずつ揺らがせていく。
「付き合ってるけど、誰にも言っていない」
その選択が、予想以上のすれ違いを生んでいった。
モテ地獄の再来、空気を読み続ける日々、
そして自分で自分を苦しめていた“頑張る癖”。
甘えたくても甘えられない――
そんな悠真の隣で、颯斗はずっと静かに手を差し伸べ続ける。
過去に縛られていた悠真が、未来を見つめ直すまでの
じれ甘・再構築・すれ違いと回復のキャンパス・ラブストーリー。
今度こそ、言葉にする。
「好きだよ」って、ちゃんと。
ちっちゃな婚約者に婚約破棄されたので気が触れた振りをして近衛騎士に告白してみた
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第3王子の俺(5歳)を振ったのは同じく5歳の隣国のお姫様。
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俺は彼女を応援しつつ、ここぞとばかりに片思いの相手、近衛騎士のナハトに告白するのだった……。
期待外れの後妻だったはずですが、なぜか溺愛されています
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病弱な義弟がいじめられている現場を目撃したフラヴィオは、カッとなって手を出していた。
謹慎することになったが、なぜかそれから調子が悪くなり、ベッドの住人に……。
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加えて筋肉隆々のマッチョになっていたことにより、フラヴィオはさらに屈強な大男だと勘違いされていたのだ。
そしてフラヴィオが殴った相手は、ミゲルが一度も勝てたことのない相手。
次期騎士団長として注目を浴びているため、そんな強者を倒したフラヴィオは、手に負えない野蛮な男だと思われていた。
一方、偽りの噂を耳にした強面公爵の母親。
妻に強さを求める息子にぴったりの相手だと、後妻にならないかと持ちかけていた。
我が子に爵位を継いで欲しいフラヴィオの義母は快諾し、冷遇確定の地へと前妻の子を送り出す。
こうして青春を謳歌することもできず、引きこもりになっていたフラヴィオは、国民から恐れられている戦場の鬼神の後妻として嫁ぐことになるのだが――。
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噂の冷血公爵様は感情が全て顔に出るタイプでした。
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多くの実力者を輩出したと云われる名門校【カナド学園】。
新入生としてその門を潜ったダンツ辺境伯家次男、ユーリスは転生者だった。
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しかし、ユーリスの運命は『冷血公爵』と名高いデンベル・フランネルとの出会いで全く思ってもいなかった方へと進みだす。
常に冷静沈着、実の父すら自身が公爵になる為に追い出したという冷酷非道、常に無表情で何を考えているのやらわからないデンベル___
「いやいやいやいや、全部顔に出てるんですけど…!!?」
ユーリスは思い出す。この世界は表情から全く感情を読み取ってくれないことを。いくら苦々しい表情をしていても誰も気づかなかったことを。
寡黙なだけで表情に全て感情の出ているデンベルは怖がられる度にこちらが悲しくなるほど落ち込み、ユーリスはついつい話しかけに行くことになる。
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異世界で8歳児になった僕は半獣さん達と仲良くスローライフを目ざします
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志望校に合格した春、桜の樹の下で意識を失った主人公・斗馬 亮介(とうま りょうすけ)は、気がついたとき、異世界で8歳児の姿にもどっていた。
わけもわからず放心していると、いきなり巨大な黒蛇に襲われるが、水の精霊〈ミュオン・リヒテル・リノアース〉と、半獣属の大熊〈ハイロ〉があらわれて……!?
これは、異世界へ転移した8歳児が、しゃべる動物たちとスローライフ?を目ざす、ファンタジーBLです。
おとなサイド(半獣×精霊)のカプありにつき、R15にしておきました。
※ 造語、出産描写あり。前置き長め。第21話に登場人物紹介を載せました。
★お試し読みは第1部(第22〜27話あたり)がオススメです。物語の傾向がわかりやすいかと思います★
★第11回BL小説大賞エントリー作品★最終結果2773作品中/414位★応援ありがとうございました★
【完結】薄幸文官志望は嘘をつく
七咲陸
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サシャ=ジルヴァールは伯爵家の長男として産まれるが、紫の瞳のせいで両親に疎まれ、弟からも蔑まれる日々を送っていた。
忌々しい紫眼と言う両親に幼い頃からサシャに魔道具の眼鏡を強要する。認識阻害がかかったメガネをかけている間は、サシャの顔や瞳、髪色までまるで別人だった。
学園に入学しても、サシャはあらぬ噂をされてどこにも居場所がない毎日。そんな中でもサシャのことを好きだと言ってくれたクラークと言う茶色の瞳を持つ騎士学生に惹かれ、お付き合いをする事に。
しかし、クラークにキスをせがまれ恥ずかしくて逃げ出したサシャは、アーヴィン=イブリックという翠眼を持つ騎士学生にぶつかってしまい、メガネが外れてしまったーーー…
認識阻害魔道具メガネのせいで2人の騎士の間で別人を演じることになった文官学生の恋の話。
全17話
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