雨に魅入られし君の名は

雨宮 瑞樹

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花時雨2

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  邪魔になった傘をぶら下げ、大学を出た空はやはり青。チョコレートの効果は残念ながら口の甘さと一緒に昇華されて、すぐに気分は灰色になっていた。
 せめて歩けば少しは気が晴れるかと期待しながら、東秀大学から徒歩十五分にあるF予備校へと向かう。駅につながるメイン通りとは反対側にある裏通り。桜並木をまっすぐ歩いていくと、F進学塾にたどり着く。
 櫂が大学に入ってすぐにバイトを始めた三年前から比べた頃は、小さな予備校という印象だったが、急成長を遂げて今や全国展開している大手予備校に名を連ねている。
 海斗は昨日までの三年間新宿校舎が櫂のバイト先だったのだが、大学の目と鼻の先に御茶ノ水校舎が開校された。人手不足だから、そちらにしばらく行ってほしいと頼まれていて、今日がその校舎への初出勤となる。
 重たい気分を緊張に塗り替えて、塾のドアを押した。

 入るなり、正面にカウンターに座っていた銀縁眼鏡に少しぽっちゃりした顔の女性事務員と目があった。胸のネームプレートには佐藤と書かれている。予備校生? 見ない顔だけど。心の声が聞こえてきそうな訝し気な視線に、櫂は名乗る。
「お疲れ様です。今日からこちらに配属になったアルバイト講師の稲葉櫂です」
 櫂も頭を下げると、佐藤の強張った顔が解け始めた。このご時世、いつどこで不審者が現れるかわからないから絶対に教室に入れないように。見ない顔を見たら、必ず声をかけて、身元を確認するようにと教育されている。櫂も耳にタコができるほど、刷り込まれているから彼女の心情はよく理解できた。佐藤は、先ほどとは別人のような人の好さそうな満面の笑みを浮かべながら立ち上がった。

「あぁ、お待ちしました。私はここの事務をしている佐藤と申します。よろしくお願いします。風の噂にカッコいい先生がやってくると聞いてたんですよ。まさかって疑っていたんですけど、想像以上でビックリしました。小顔にすっと通った鼻筋と、涼しげな瞳。今大人気俳優のボーイズグループのボーカルに似てるって言われません?」
 そう問われても、どう答えていいものやら。当然そんな自覚もないし、誉め言葉として受け取るべきなのだろう。だが、元々素直に受け止められない性分の人間にとっては、いちいち嫌味に聞こえてくる。色々考えるのも面倒で、いつものように曖昧に笑って、話題を変えることにした。
「あの、塾長にご挨拶をしたいのですが」
「あ、はいはい。今呼んできますね」
 立ち上がりパタパタと走って、カウンター内の一番奥に座っている薄い頭の男性に声をかけると机に乗っていたコップを一口飲み穏やかな微笑みを浮かべながらカウンターから出てきた。櫂に手を差し伸べる。がっしりした体格から延びてくる手を取ると、力強く握り返された。その方がその手はやけに熱い。
「どうもどうも。稲葉先生。お待ちしておりました。私がここの室長をしております神崎と申します」
 そして、がははと豪快に笑う。その顔は、皺がいくつも刻まれていた。長身の櫂と同じ目線になる。がっしりとした体格のせいで細身の櫂より大きく見えたが自分より少し身長は低い。目は細く優しげなのに、やはり熱っぽい。
「よろしくお願いします」
「稲葉先生の評判は非常にいいと、新宿校の室長から話は聞いてますよ」
 ただ持ち上げられているだけなのかもしれない。猜疑心が一瞬顔を出すが、そう言ってくれるのだからここはあえて素直に受け取ろうと思いなおす。
 評判がいいと言ってくれている理由は、講義後の原則三十分間の個別に質問時間のことだろう。規定は授業終了後三十分間のみの短い質問時間。大抵の講師は適当にやり過ごして、時間内で無理やり強制終了させる者が多い。いくら対応しても、その分の残業代はでないからだ。だが、櫂は違っていた。医学部を目指す生徒たちの熱心さは、かつての自分自身を見ているようだった。まぁ、それは当時の自分の熱心さは親に認められたいという一心。種類が違う気はしたが、医者になりたいという目標は同じところにある。だから、無碍にすることもできなかった。たとえサービス残業であろうが、質問が続く限り、対応するようにしていた。異動する前の教室では、そんな自分に対して受験生は自分に好感を持ってくれているようで異動日直前には、行列ができていた。

「ここ本郷校舎は稲葉先生も通っているT大学の目と鼻の先です。受験生も自分も今目の前にある大学の門を潜るんだとモチベーションが上がるような立地にあります。故に、この校舎に通う受験生の志も高い。我々一丸となって、未来ある若者を導いていきましょう。期待していますよ、稲葉先生」
 どんどんと背中を叩いてくるその力が強すぎて、むせ返ると「すまん、すまん」とまた豪快に笑っていた。その声も大きくて、真面目に執り行われているであろう授業中の教室にも聞こえてしまうのではないかと思えるほどの声量。思わず笑ってしまう。神崎ワールドに完全に取り入れられているという自覚があった。勝手に吸い込まれていく。こういう人間が、人たらしと呼ばれるのかもしれない。いつもどこか冷めたところがある櫂もその流れに乗せられていた。
「全力で頑張らせていただきます」
 やる気溢れる顔を見せれば、神崎は満足そうに笑っていた。神崎の周りに漲るパワーを分け与えられたような不思議な感覚だった。

「あ、そうそう。ここのスタッフは稲葉先生と同じように他校から集まってきています。いきなり新規スタッフを配置しても立ち行かなくなるので業務にすんなり入れる人事をというわけです。ちなみに私は池袋校舎からやってきました。他のスタッフも各所様々です。さて、主に稲葉先生と連携が必要になるのは我が校舎の優秀な事務員だと思うので、一度紹介しておきましょう。
 先ほどのこの女性は、佐藤さん。彼女は浦和校舎からやってきたベテランさんです」
 紹介を受けて、佐藤がカウンターから出てくる。事務員制服の白いシャツにグレーのツィードのベストに黒色スカートに黒パンプスを姿勢よく正して、相変わらず人のよさそうな笑顔を浮かべた。
「はい。この学習塾に入って二十年になります。何でもお任せください」
 佐藤はキラリと眼鏡を光らせていた。
「もう一人いるのですが……」辺りを見回す神崎に
「今、教室に届け物をしていて、もう戻ってくると思いますよ」 
 佐藤がカウンターの前を抜けた奥に四つ教室があるのだ説明しながら、その方向にを目を向ける。とちょうど探していた相手を見つけたようだ。
「高梨さーん」
「あ。教室に行ってたようですね。由里ちゃん! こっちこっち」
 佐藤に続き、少し背の高い櫂を避け背伸びして神崎も手を振る。櫂も振り返り神崎の視線を辿ると、佐藤と同じ制服が目に入った。そして、制服の上にあった顔を見て目を見開いた。近づいてくる相手も、目を見開いている。てきぱき動いていた足の速度が急に落ちていた。
 あの時の明け透けな鋭い眼光は身を潜めてはいたが、際立った鋭利なアイラインはそのまま残されている。
 ゆっくりと遠慮がちに櫂の前に近づいてきたのは、食堂で鈍色の雨を降らせた彼女だった。
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