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素顔3
しおりを挟む外の雨は、止むどころか強さを増しているように見える。しんとした部屋に窓にたたきつける雨。ずっと遠ざかっていた気配が少しずつ迫ってくるような足音が響く。
「相手の男は妊娠したと分かった途端、逃げ出して行方をくらませた。男はいいわよね。そうやって逃げれば現実を見なくて済む。その男の視界は、本当に何もなかったことになっちゃうんだから。悩んだり、苦しむのはいつも女の方」
由里は窓に次々と流れる水の軌跡をじっと見つめていた。失った感情が冷えていく。消えていたアイラインが引かれたかのように、鈍く暗く光っていた。今まで見てきた瞳とは比べ物にならないほどの鋭利さ。こちらに向けられたわけじゃないのに、全身に鳥肌が立つ。激しい感情。テーブルの上に乗った拳握る彼女の手は、抑制できない激しい感情を必死で抑えるように震えていた。
「それを話したら両親は大激怒。そんなんじゃ、大学にも進学できやしない。すぐに病院行っておろしてこいの一点張り。その時、ちょうど妹も当時付き合っていた恋人と別れた上に、やっぱり親に怒られて似たような状況だったの。だから、二人して一緒に家を飛び出してきた。
それ以来、親とは会ってない。だから、私たちは姉妹を超えた、同志。親友。……全部足しても足りないくらいの仲なのよ」
由里はまた写真に視線を移す。鋭かった視線が和らいで、元の温もりを取り戻していた。鋭い刃が鞘に納まれば、やはり優しげで少し目は垂れていた。
櫂もつられて写真に顔を向ける。彼女が言葉を添える必要がないほどの三人は笑顔があった。晴れた日のどこかでとられた写真は、幸せそうで心から溢れているように見える。けれど、その奥には先ほどの冷え切った眼差しが潜んでいたのだろうか。
この写真からは、そんな片鱗は全く感じない。トレードマークのアイラインが消えてしまいそうなほど、くしゃくしゃにして、透き通った瞳に濁りどころか、透明度を増しているようにも見える。一方の妹は、姉ほどの思い切った笑顔ではなかったが、綺麗な微笑みをたたえていた。ショートカットの髪も艶やかに光っている。けれど、その瞳にやはり暗いものはない。透き通った瞳はキラキラ輝いていた。どこまでも似ている二人。一緒ならば、どんなに辛いことがあっても輝けるとでも言っているかのような強い光が、こんな写真じゃ収まりきれないとばかりに溢れ返っていた。
たった一人で、子供を産もうと決めたとき、彼女がどんな思いを抱いていたのかは自分がいくら想像してみても、とても及ばないだろう。ただ、辛い思いをしたのは確かだ。そんな中、妹の存在がどれほど由里の支えになったのかわからない。一人で隼を産もうと決意したとき、彼女の傍にいてくれて本当に良かったと思う。
また懐かしむような温かい眼差しが向けられているのだろうと思いながら、櫂は写真から由里に再度視界を戻す。だが、そこにあったのは、あの日「花時雨だ」といった彼女の顔だった。櫂が息を飲んだことに気付いたのか、由里はマグカップに目を落としコーヒーを飲み干していた。
「お母さん……」
小さな声が響いていた。由里は一瞬で表情を母に戻していた。弾けるように隼の元へと駆け寄っていく。しばらく何か話した後は、隼にせがまれたのか由里は小さな手を握っていた。子守歌を歌うように、もう片方の手で眠りを誘うように優しくこんもりした布団を叩いていた。
響く音に目を細めながら、コーヒーを飲み干した。ブラックコーヒーなのに、やはり苦さは感じない。どこまでも優しく甘い味がした。すでに空になっていた由里のカップと共にキッチンの流しに静かに置いて、そろそろ帰ろうと由里を見る。由里はベッドに突っ伏して眠っていた。
床の端に折りたたまれたタオルケットを見つけてそれを由里の細く華奢な背中にそっとかける。眠っている由里の横顔の睫毛がふらりと揺れ、隼の手を由里の手でしっかりと包み込まれていた。
この小さな手を守るために、彼女はどれだけの努力と決意を重ねてきたのだろう。由里の白く細いこの手は、きっと見えない傷だらけだ。
忘れかけていた鈍い痛みが疼き、胸がぐっと締め付けられて痛んだ。
玄関のドアを開ければ、容赦ない雨が降り続いていた。
怯んでしまいそうな勢いだ。櫂は躊躇することなく雨の中に身を沈めていた。傘を叩く雨音が絶え間なく響く度にあの三人の笑顔が甦る。その隙を縫うように、激しい感情に震える拳と冷たく鋭利な瞳が脳裏に点滅していた。
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