17 / 44
素顔4
しおりを挟む不思議なくらい由里と時間が重なることがなく、そのまま一ヶ月が過ぎた梅雨の合間。
「さて、来月から夏期講習が始まります。通常通っている塾生を始め、外部からもどっと押し寄せる。夏は最も重要な時期。皆さんも気を引き締めてよろしくお願いします。さて、それに向けて事前説明会を本日行います。皆さん、総出でお手伝いをよろしくお願いします」
朝礼を終えて、散っていくスタッフ。今日は夏期講習前の説明会。櫂も神崎に頼まれ、午前は授業を受け持ち、午後は説明会スタッフに駆り出されることになっていた。一年の中で、慌ただしい期間。特に事務スタッフは夏と冬の講習時期は一番忙しい。その中に由里も含まれていた。
久々に顔を合わせたからといっても、ひたすら業務に追われていて会話もなく、各々の仕事に専念していた。
午前の授業は無難に終えて、午後に入ると櫂も説明会準備に取り掛かった。ぞろぞろと来校する保護者と子供たち。中には両親共に出席しに来る家族もあった。保護者達の熱は、子供たち以上に高い。百人ほど生徒が収容できる一番大きな教室で行う説明会会場は、あっという間に熱気と共に満席になった。
説明会自体は一時間ほどだ。その間、持ち前の神崎の人たらしに加えた演説力をここぞとばかりに放っていた。神崎のこの能力のおかげで、散々悩まされ、振り回されて、ろくでもないと思っていたが。こういう場所での威力は凄まじい。神崎の弁才は、今まで出会った人達の中で群を抜いていた。会場にいる全員が彼の言葉に心酔していた。
初めて会った日から、自分の中での神崎の評価は下がる一方だったが、大いに見直したほうがいいのかもしれない。もっと敬うべきだった。そんな反省へと思い至ったところで説明会を終了していた。
そのまま入塾手続きせずに帰った参加者は誰もいなかった。入塾手続きをする行列が出来上がっていた。
「稲葉先生」
「宮下さん。いらっしゃってたんですか」
前回は紫のアイシャドウだったが、今日はピンク色に変わっていた。色が変わったせいなのか、以前よりも癖がなくなっているように見えた。化粧の力は奥深い。
「この前無下にしちゃったけれど、神崎室長もとても素敵な方なんですね。もう、この塾の評価は私の中では百点満点です。うちの息子も感動してました」
「宮下博司です。これからよろしくお願いします」
母の横にいた短髪の息子がぺこりと頭を下げる。顔を上げれば櫂とほとんど身長の変わらない。典型的な親の路線に乗っているだけのお坊ちゃまのイメージだったが、意外だった。体格もがっちりとしていて、血色もよく、医大を目指す者らしいインテリ感があまりない。どちらかというとスポーツマンタイプに見える。珍しいタイプだ。
「こちらこそ。第一志望はどこか決めているのかい?
「もちろん、稲葉先生と同じ東秀大学です」
講師はどこの大学出身かしっかり情報提供しているため、すでに生徒や保護者の耳に入っている。別に驚くべきことではないが、あまりにまっすぐにそう言われると、何となく気恥ずかしく居心地が悪い。それを笑顔で隠して、博司に手を差し伸べた。
「そうか。頑張ろうな博司君」
「はい」
力強く頷く握り返してくる博司に頷くと、宮下が行列の先頭を見ながら言った。
「手続き対応は、ぜひ高梨さんにお願いしますね」
この行列を見ながらも指名してくる宮下に、やはり化粧なんかじゃ癖は治らないかと嘆息する。指名されて由里が抜けられるような状態ではないことは、一目瞭然。入塾手続きくらいなら誰が対応したって変わらないといいたいところだが、そういったところでこの人は引くとは思えない。むしろ、面倒になりそうだ。仕方ない。
「わかりました。高梨に伝えておきます。かなりお待ちいただくことにはなると思いますが」
「構いません。ぜひよろしくお願いします」
ここは息子が「早く帰りたいから、誰でもいいよ」といってくれれば、展開は変わったかもしれないが、肝心の博司は母親にやはり従順らしい。母が言うのなら、文句はありません。そんな顔をしていた。
櫂は営業スマイルだけおいて、対応中の高梨の元へ。来客者たちに見えないようにカウンターの下でそっとメモを見せた。
『宮下さん親子が、高梨さんに対応してほしいといってます』
由利は接客の隙を見てそのメモを確認すると、すぐに頷いていた。また目の前の対応に意識を戻す道すがら、ちらりと時計を見たことに気付いた。隼の迎えの時間が気になるのだろう。だが、残念ながら櫂にはどうすることもできない。せめて早く上がれるようにサポートに回ろうと決めていた。
スタッフたちが自分の業務が終わって帰り支度を整えている中。
「お待たせして申し訳ございません。本日はお越しくださりありがとうございます」
由里が宮下親子の対応に入っていた。櫂も由里の横に並び頭を下げると、その上から博司の声が覆いかぶさってきた。
「高梨先輩……?」
先輩……? 櫂は顔をあげながら横を見る。頭を下げていた由里が、飛び上がらんとばかりに顔を上げて、双眸を丸々とさせていた。一方の博司の方も驚きのあまり瞬きさえも忘れているようだった。正気を先に取り戻したのは、由里の方だった。接客用の笑みを浮かべていた。
「……人違いでは?」
「え……? だって高梨裕美さんですよね?」
「私は妹の裕美ではなく、姉の由里です」
その返答に博司は黙った。まだ何か言いたそうに唇の開閉を繰り返していたが、諦めたらしい。沈んだ顔をして自分に言い聞かせるようにボソボソと呟いていた。
「そうだったんですか……。すみませんでした。てっきり……そうですよね。そんなはずないんですもんね」
「いえ、よく間違われるので。あの、説明事項が多いので、そろそろ入塾手続きに入ってもよろしいでしょうか」
由里の顔は笑顔だが、いつもより早口だ。
その理由は、事情を知っている櫂は時計を見る。二十時。隼の迎えの時間はとっくに過ぎている。
世間話もしたくないほど、早く帰りたいと思うのは仕方のないことだ。……だが、この違和感は何だ? いつもなら、上手く取り繕うところだろう。だが、今の由里の焦りが全面に顔を出し、早く切り上げてしまいたい。そんな意図が珍しくあからさまに滲んでいた。隼が気掛かりなのはわかるが、由里らしくない。
そんな背景を知らない宮下は息子が話したがっているのに……と、だいぶ不愉快。という顔をしていた。そこに櫂がにこやかに間に入る。
「今朝の天気予報はずっと晴れと言ってましたが、さっき天気予報がコロっと変わってこれから、雨が降るみたいですよ。宮下様傘お持ちじゃないですよね?」
櫂の助け船に由里の視線が動く。入口の傘立てに視線を滑らせる。そこに傘は一本も入っていなかった。嘘がバレない様に願いながらにこやか視線を向けると、宮下は真っすぐ見返してきた。
そこまで気遣ってくれていたのね。だから、早く終わらせてかったのね。と感動しているようだ。
「それなら、急いで帰らなきゃいけないわね。さっさと済ませてしまいましょう」
由里がそっと入塾書類を差し出すと、珍しくお喋りそっちのけで宮下は書類をまじめに書き始めていた。その横で、博司は未だに由里を見つめていた。由里はその視線を避けるように、無表情を決め込み、唇を引き結んでいた。
二人の間に微妙な緊張感が漂っていることに櫂は気付きながら思う。
博司は何を言いかけたんだろう。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる