背中越しの恋人

雨宮 瑞樹

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波乱2

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 唯が映画館窓口のいつもの場所に行くと本来この後交代するはずの先輩が立っていた。
「お疲れ様です」
「あら、水島さん。まだあと一時間くらいあるわよ?」
「引っ越ししたので、住所変更事務所でするために早めに来たんです。だけど、ささっと終わっちゃって。まだ時間あったんですけど、もったいないし今からシフト入れてくださいってお願いしたんです。そしたら、オッケーもらって」
「なるほどね。一人暮らしってお金かかるものねぇ」
「はい。なので、私これから終電ぎりぎりの深夜シフトもどんどん入ろうと思って。今日も終電まで働きます。なので、先輩も用事とかあったら遠慮なく私にいってください。授業のない時はどんどん引き受けます」
 ここの映画館は深夜零時過ぎから上映開始のものもあって、その上映が終わるのは深夜三時を回ることはざらだ。その分、時給も当然上がる。唯は大学もあるため、深夜帯のバイトは入ったことはなかったが、稼ぐためにこれからはシフトに入る回数も増やし、終電まで働くことにしたのだ。亮だって、今寝る暇がないほど忙しい時間を過ごしている。私だって、頑張らないと。気合の入った顔をしている唯を見ると先輩はふふっと笑っていた。
「あんまり頑張りすぎないようにね。で? 何かいいことあった?」
「え?」
「今まで見たことのないくらい、充実した顔しているから。もしかして、例の彼と何かいいことあったのかしら?」
 その手のことに異様に敏感な先輩は艶々の長い黒髪をさらりと後ろに流して、以前亮のことを詮索された時以上に目を輝かせていた。唯は目を泳がせながら、何といえばいいか考えあぐねていると先輩が「あら」と声を上げていた。
「大阪さんお疲れ様です。どうしたんですか?」
 声をかけた方向に目を向ければ、いつもの黒縁眼鏡をぐいっと持ち上げている大阪がいつからいたのか唯のすぐ横に立っていた。唯はまったく気付かず、心臓が飛び跳ねたと同時に足も一歩下がっていた。

「お疲れ様。今日の客の入りどう?」
 挨拶代わりにいつもされるこの質問に、一歩引いていた唯に代わって先輩が答えていた。
「相変わらず『ザ・ヴィーナス』人気凄いですよ。しかも、お客さんのほとんどが若い女の子。さすが宮川亮って感じですよ。彼のお陰でうちの映画館売り上げも上々ですね」
 そう先輩が答えれば「まぁね」と感情の込もっていない声でそういう大阪。少し気になって唯はちらりと盗み見たけれど、眼鏡に照明が反射してよくわからなかった。大阪はその話題を吹き飛ばすように咳払いをすると先輩と唯を交互に見ながら口を開いた。
「ところで、ちょっと報告しておくことがあってね。実は、僕は来月異動して副社長に就任することになったんだ。だから、ここで働けるのもあと少し。今までお世話になりました」
 軽く頭を下げる大阪に先輩は、驚いた顔をしながら言った。
「あら! もしかして、例のあの大手映画配給会社の王映ですか? 大阪さんの既定路線って噂本当だったんですね。その若さで凄い。順風満帆ですね」
「みんなそういうけど、僕はそれなりに苦労してきたんだよ」
 インテリ眼鏡を持ち上げて、冗談っぽく大阪は笑うと唯と先輩に今度は深々と頭を下げた。
「ともかく、残り一か月だけど最後までよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 唯も先輩に追随してそういいながら、深々と頭を下げあげると思いがけず、眼鏡を貫くほどの大阪の鋭い目とかち合った。それは、少し寂し気にも見えるし、見下すような冷酷さがあって、思わず唯は固唾を飲んだ。
「今度、お別れ会企画しますね」
 先輩の声で視線は和らいで唯から外されると「ありがとう」と礼を言って立ち去って行った。これで顔を合わせた時の気まずさからも重たい気分からも解放される。そう思ったら、唯は大阪の背中が遠ざかるほどに自然と入っていた全身の力が抜けて、安堵の溜息に変わっていた。ずっともやもやしていた問題が一つなくなる。身も心も軽くなっていくような気がした。
「大阪さんのいなくなるの、よかったわね」
 ため息の隙間を突いて先輩の声が唯の耳に届いて目を見開き、先輩の顔を見返すとクスクス笑っていた。
「水島さんの顔にはっきりそう書いてあるわよ」
 そんなにわかりやすい顔してたかと、反省しながら唯は苦笑でごまかして、業務に入った。

 唯が家に帰ったのは深夜一時を回っていた。ふとスマホを見れば、複数の着信履歴。フミヤの電話番号だった。唯は疲れた身体に重くのしかかってきそうな番号をタップすると着信拒否設定を施し、気を取り直して明日の大学レポートの仕上げに取り掛かることにした。すぐに終わると思っていたのに、予想外に時間がかかり布団の中に入ったのは深夜三時を過ぎた頃だった。
 レポート課題が多く出される時期。唯はそんな日々を何度か繰り返した深夜。
 
 あぁ、疲れた……。この後レポートもやらなきゃ。そんなことを考えながら、アパートの門扉を開け、集合ポストを見やる。いつも不動産広告ばかりで大したものは届かないけれど、念のため扉をあけるとひらりと風に乗るように唯の足元に一枚の小さな紙が舞い落ちた。小さなメモ用紙サイズだ。
何かしら? 唯が足元に落ちた紙に手を伸ばす。
手に取り、アパートの明かりを頼りにメモに光を当てる。

『別れろ』
 筆跡のわからないようにしているのか、赤で定規で引いたような角ばった文字が飛び込んできた。
 唯ははっと息を呑む。
「……何、これ……」
同時に、ぞわぞわと全身に鳥肌が波のようにぞわぞわの立ち始めた。
 背筋に凍るような冷たい汗が唯の真ん中に不気味に跡を残しながら、落ちていった。
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