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邁進6

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 手によく馴染んだ玄関のドアを押すと、「いらっしゃーい」高い声が響いた。
 二人の母親は、いつも通り上機嫌のほろ酔い状態。
 そんなことは日常茶飯事。気にせず、彩芽は「早速、来たよ」といつも通りだが、陽斗はしかめっ面。それに気付いた佐和は、ワイングラスの中の赤い液体を煽った。

「これだから息子って、嫌よね。本当につまんない」
「散々振り回しておいて……よく呼びつけられるもんだよ。どういう神経してるんだか」
「感謝される覚えはあっても、小言言われる覚えはないんだけど。というか、陽斗ってそういう粘着質タイプだったということを、たった今知って、お母さんショック」
 ワントーン声を高くしたわざとらしい言い方。怒らせようとでもしているのか。陽斗の血液が沸々と、怒りが込み上げているのを、察知したのか。歩美が、水を差していた。
「あら、彩芽いいもの持ってそうじゃない? 何?」
 陽斗を無視して、佐和も彩芽と陽斗が手に提げている紙袋へ食いつく。
「おつまみ、大歓迎よ」
「さすが、目敏いね。実は、いつも飲んだっ暮れている二人に試食してもらいたいものがあるの」
 彩芽が仕事の話を簡潔に話して聞かせると、二人の目がキラキラ輝いた。

 彩芽と悠斗がお互いの母の前に座ると、ワインを注いでくる。陽斗は、無言のままワインを飲んでいる。視界の外へ追いやって、彩芽は、紙袋からずらりとテーブルの上にお菓子を並べた。
「私が推しているのは、このフェルメールっていうお菓子なんだけど」
 二人の前へ差し出すと、あっという間に、二つの口の中へ消えていく。

「普通に美味しいわよ?」
「佐和おばさん、陽斗と全く同じこと言ってる」
 彩芽がそういうと、佐和は明らかに嫌そうな顔をして陽斗を睨んでいた。
 そんな二人を差し置いて、歩美はさらりとワインを流し込んだ。
「ワインに、合うかと聞かれたら、合わなくはないけれど、ちょっと甘すぎるかな」
「甘すぎる?」
 歩美の感想に、前のめりになる彩芽。そこに、佐和が「あぁ、言われてみれば確かに」と追随していた。
「あと、ちょっと食べにくいわね。食べかすが、ボロボロ落ちる」
「うん。それも同感。あとちょっと甘過ぎて、ワインがぼやけるわね」
 最後の佐和の意見にも、なるほどと、彩芽が真面目にメモをしていると、
「やっぱチーズがほしくなる」
「私は、ナッツかフルーツね」
「フルーツか。いいねぇ。口の中が甘いから、柑橘系のさっぱり系がいい」
 好き勝手なことを言い始める二人。彩芽はポケットに入れてきた洋菓子リストにチェックを入れていたながら、睨む。
「自分たちの好みは、聞いてない。他にもっと、こういうのだったら万人受けするとか、何かない?」
 歩美は空になった自分のワイングラスへ注いで、お代わりは、セルフサービスだからねといいながら、びしっと彩芽を指さした。
「それは、彩芽の仕事でしょ? 小難しく考えて吟味して、また持ってきてなさいよ。試食だけだったら、してあげるから」
「歩美さんに、賛成。せっかく楽しく飲んでるのに、難しい顔して考え込みたくない。笑顔で飲みたいわ」
「そうそう。小難しく吟味して、考えるのは、彩芽の仕事」
 いわれてみればそうだなと思ったら、彩芽のメモしていた手がピタリと止まっていた。いつも唐突で、常識はずれのこのも平気でしてくるけれど、確たる何かを潜ませている。
 母親たちと比べたら、まだまだ未熟で、甘えがちな子供。それに気づいて、ちょっと情けない気分になりそうだった。
 
 
「これ、フェルメールだっけ? 私と歩美さんみたいに気心知れた仲間同士で飲べる分には、いくらボロボロ落ちてもいいけど、気を遣う人と上品に食べたい人は遠慮するわね、きっと」
 母の会話はどんどん脱線して、完全に母親たちの世界に入っていく。
 
「子供ありきの母の集まりみたいなやつでしょう? 私、本当にそういうの苦手。大っ嫌いだったわ」
「本当に、面倒くさいわよね。張り付いた笑顔で、お互いの腹を探り合って、うちの方が上。そっちの方が下って、マウントの取り合い合戦。寒気がする」
「でも、佐和さんはその世界でやっていこうと思ったら、いくらでも牛耳ることはできたんじゃない?」
「なんでよ?」
 いやそうな顔をして、佐和がワインと彩芽が持ち寄ってきたお菓子を頬張った。
「だって、よく考えてみたら、西澤家って理想の家庭像じゃない。ハル君は、サッカー上手い人気者プロまでスカウトきて、旦那は日本屈指の大社勤めで、全国どころか世界あちこち飛び回ってた。よくみんな、うちの旦那はどうとか、子供はとかこんなのが得意でとか、そんなことばっかりじゃない? 佐和さんなら、自慢し放題だったわよ」
「あー確かに。傍目からみれば、そう見えたのかもね。信じられない」
 佐和は、自分のことを言われているのに、完全に他人事のようにいって、ケタケタ笑い始めていた。
 
「でも、実際はどうよ? 結局、陽斗はちやほやされる周囲に胡坐かいて、親に蹴りを入れられないと勇気がでない人間に成り下がり、結局プロになれず仕舞い。そして、こんな面倒くさい男に仕上がった。旦那は、数年に一度しか帰ってこない家族に興味もない津冷たい男。そんな内部事情を秘密にして、ニコニコ笑ってれば、確かに裸の女王様になれたかもしれないけど、そんなの御免よ。自分をすり減らしたくない。そもそも、私は主導権を握るとか、目立ちたいとか、そういう欲求はゼロ。そんなことして、何の意味があるのって思う。上下関係のある会社じゃあるまいし。なんで普通の生活にまで、そんなの持ち込むのか、意味が分からない」
「本当にそうよね。そういう時は、食べて飲んで、くだらない話して、面白おかしく生きていればそれでいいのにさ。周りがそうさせてくれないのよね。私は離婚したから、大変だったわ」
「不幸は蜜の味。みんな、そんな目してたものね」
「本当にそう。何で離婚したのかって、しつこいのもいれば、遠回しに聞いてくるのもいたと思ったら、私じゃなく周りに聞きまわってたり。当時は彩芽も、私と同じような立場にさせちゃったかな、悪かったなって思ったもの」
 
 歩美が、ワインを空にして、ポツリと付け足した一言で、静かに仕事の世界に浸っていた世界から引き上げられ、胸の内に波紋のように広がっていった。
 
 この前、歩美と二人で一緒に飲んだときも、似たようなことを零していた。両親の離婚により、謝られるほど、迷惑をかけられた覚えはない。だが、ショックだったことは確かだった。
 子供目線から見ていた父は、悪い父ではなかった。
 休日は、ほとんど家にいなかったけれど、その理由を知ろうと思わなかった。平日家に帰ってきたら、それなりに遊んでくれたし、普通に会話もしていた。塾で帰りが遅い日は、駅に迎えにも来てくれた。不在を気にしなかった理由は、それで帳消しにされていたのだと思う。だが、歩美はそんな父に対して、ずっと不満そうだった。

 その理由は、彩芽から見た父は、母からみれば、夫。名称が変わるわけで、それぞれ見る角度が違うからだろう。その理解で、きっと正しいのだと思う。
 父が休日不在だった理由は、結局は不倫だ。彩芽が、その事実を両親が続いている間は、ずっ知らされことはなかった。父が不倫していると、子供に言ったところで、幼い子にとっては、あまり実感のない話だと思うし、親として子供に聞かせたくない大人の汚い部分だと判断したのだと思う。

 それ故に、ある日彩芽が家に帰ると突然、歩美から「もう父は、帰ってこない。離婚した」といわれたとき、彩芽にとっては、青空なのに急に竜巻が現れて巻き上げられてような感覚だった。混乱しながら「どうして」と、歩美へ詰め寄ると、とても苦しそうな顔をして「お父さんはね、他の人と暮らすことになったの」といった。けれど混乱に陥っていた胸の内は、不思議なほど凪いで「あぁ、なるほどな」と、空中からうまく着地できたようなそんな感じだった。
 休日いなかった理由は、自分たちよりも相手の方が大事だったから。離婚すると父の口からは、告げてくることなく無言で去っていった理由は、子供からも責められことが嫌で、逃げたから。それほど気にするようなことではないけれど、なんか変だなと思う行動はいくつもあって、その理由が、一気に明らかにされたときは、妙なほど腑に落ち、むしろ納得しかなかった。だから、ショックはほんの一瞬で、通り過ぎて行ってしまったし、母が置かれた立ち位置のような周りから詮索されるようなこともなかった……と思う。それは、陽斗からいつも「鈍感」だと、言われている部分が功を奏したのかもしれない。
 
「なのに、肝心の彩芽は、意外と冷静……というかぼんやりしていて、拍子抜けしちゃったのよね」
 ぼんやりしてるというのは、陽斗がいう鈍感と同じ意味なのだろう。短所だといいたいようだが、それが長所となったいい例でしょと言い返したくなったが、歩実の嘆息で吹き飛んだ。
「ハル君の方が、心配させて悪かったなって思ったものよ」
 何故、急に陽斗の名前が出てきたのか。彩芽は首をかしげて、陽斗を見る。端正な顔立ちには、心当たりはあると書いてあるように見える。だが、当の本人は、会話に入ってくる様子はなかった。お菓子に手を伸ばし始めている。
 彩芽が答えを求めるように、歩美を見ると、覚えているはずよという。
「塾の帰り。いつも迎えに来る人がいなくなった代わりに、ハル君が迎えに来てくれたでしょ?」
 それだけ言えば、いい加減わかるでしょと、歩美は言いた気な視線を寄越してくるが、彩芽はしっくりこなかった。違和感を抱いたまま、その時陽斗が告げてきた理由を、そのまま口にする。
「サッカークラブ練習時間が変わって遅くなって、帰る時間がちょうど私と同じだったんでしょ?」
 彩芽の答えに、二人の母親が目を丸々とさせて、同時にそれぞれの子供に向かって「呆れた」と呟いた。
「塾遠かったから、彩芽が帰ってきてたの二十三時近くだったわよね? 常識的に考えて、そんな遅くまでやってるクラブ、あると思う?」
 歩美は彩芽へそういいながら、呆れを通り越して、頭を抱えそうになっている。一方で、佐和は陽斗を睨みつけていた。
「なんで、陽斗は素直に『心配だから迎えに来た』って言わなかったわけ?」
 母親同士お互い顔を見合わせて、首を横に振っていった。
「やっぱり、私たちの選択は、大正解だったわね」
「本当に」
 はぁっと大きなため息をついてくる。

 彩芽と陽斗は、いちいち嫌味をいってくる親というのは、本当に面倒臭いと思わずにはいられなかった。それなのに、親の発言の大体が的を射ていて、反論する余地がない。それが、尚更面倒臭さを助長しているように思う。
 
 これ以上の小言を聞くのは、勘弁だ。ずっと、むすっと黙り込んでいた陽斗がやっと口を開いた。

「で? 重大発表って? その話したくて呼び出したんだろ? 早く解放しろ」
 話を反らしてくる陽斗に佐和は、ふんっと鼻を鳴らした。だが、その提案に乗ってやると咳払いをして、居住まいを正す。歩美も佐和に倣い始めていた。
 
 急にそんなことをやられて、彩芽と陽斗は、やっぱり警戒しておいた方がいいのかもしれないと、目配せする。そして、母親二人は示し合わせたように同時に息を吸い込んで、声を重ねていた。
「私たち、次のステップへ進むことに決めました」



 

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