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邁進5
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少しだけ酒が入って上がっていた気分が、慣れない新居を前に、緊張が勝っていく。
外気に晒されたドアを開ける。ふわっとした温もりと一緒に「お帰りー」と、いつもの実家にいるような彩芽の声が返ってきた。通常運転の声に、もしかしたら昨日のことがすべて抜け落ちているのではないかと、不安が過る。だが、彩芽がここにいるということ。自分がここに帰ってきたということに驚きもしていところから、その可能性はないなと、安堵する。「ただいま」と返しながら、玄関のドアを閉めた。
ソファに座って、テレビでも見て寛いでいるのだろうか。これまでも何気ない日常に当たり前のように彩芽がいて、揺るぎない安心感がそこにある気がした。
「飲んでくるっていうから、もっと遅いと思ったら、案外早かったね」
顔は出さず声だけが飛んでくる時点で、熟年夫婦のようだなと思う。新婚ならもっと甘い雰囲気でも醸し出すところだろうが。まぁ、いいか。苦笑しながら、廊下をまっすぐ抜けて、リビングへと向かう。すると、本当の意味で甘い香りが漂っていた。
リビングは、箱で埋め尽くされている。とりあえず、鞄を脇に置いて、コートを脱いで、もう一度この状況をみやる。どうやら、埋め尽くされている箱の正体は、すべてお菓子のようだ。クッキーやら、チョコなどの胸焼けしそうなほどの砂糖の濃い匂いが充満している。
「菓子店でも、開くつもりか?」
「時間がなくてね。持ち帰り案件」
「うちの方がブラック企業だと思ってたけど、彩芽のところも相当だな」
「年末年始って、忙しい時期だし、しょうがないのよ」
ダイニングテーブルでメモを取っている彩芽。その横に、少量注がれたワイングラス、ボトルワイン数本が並んでいて、その中身は少しずつ減った状態で置いてある。テイスティングでもしていたのだろう。まったく、難儀な性格だなと思う。
自分の場合は、スポーツ関係の営業職で、家にまで仕事を持ちこむことせずとも、会社で何とかなる。それ以前に、自分の性格上も仕事にどっぷり浸かることはない傾向にある。サッカーをやっているときもそうだった。家に帰れば、不思議と頭の切り替えができて、ずっとサッカーのことばかり考えるということは、ほとんどなかった。
一方、彩芽の場合は、仕事も食という身近なものを扱っている分、家に丸々持ち込んでしまいやすいのだろう。考えてみれば、いつも家でワインを飲んでいるが、それも仕事の一環といえてしまう。
彩芽も歩美の血を引いていて、その片鱗を時折示してくるのに、変に生真面目なところがある。一つ問題が発生すると、そればかりで頭がいっぱいになり、他のことを考えられなくなる。
今のこの状態は、完全仕事モードに入ったというところだろう。
「これ、いつからやってんの?」
陽斗は、箱を踏まないように気を付けながら、彩芽の正面の椅子へたどり着いて、腰を下ろす。
「帰ってきたのが、十九時くらいだったから、かれこれ二時間ほど。洋菓子ワインコラボ商品、絞らなきゃいけないのよ。選定会で高評価を得られたら、中元歳暮カタログの特集ページのトップに掲載できるかもしれないって、帰り際に言われたから頑張らないと」
一通りメモを取り終わったのか、やっと顔を上げて、陽斗を見る。
丸い双眸は、疲れが出ているせいか充血している。陽斗の眉間に皺が寄った。彩芽は、菓子箱に埋もれてしまったリビングの状況を非難されていると思ったらしい。
「あんまり悠長なこと言っている時間もないから、とりあえず私の方で洋菓子もピックアップしておこうかと思ったんだよね。リストもらったんだけど、活字と写真じゃわかんないから、店頭回って賞味期限切れとか貰えるところだけ貰って帰ってきたら、お菓子だらけになっちゃった。ごめん」
謝っておきながら平然と「じゃあ、これ、ちょっと食べて飲んでみて」と、既に用意されていた未使用のグラスにワインを注ぐ。菓子と一緒に差し出しきた。ビールぐらいしか飲んでいないし、小腹もすいている。言われるがままに、菓子の袋を開けて、口の中へ放り込んだ。
「普通に、うまいけど?」
「そういうことじゃなくて、もっと細かい話。ワインと一緒だったら、合うとか……」
「まぁ、合うんじゃない? 普通に飲みたくなるけどな」
「だから、もうちょっとないの? もっと具体的に。ワインと調和がとれる甘さだ、ちょっと甘すぎるとか」
「そんなこと言われても、旨いか不味いかくらいしか、わからん。俺に聞くのは間違いだって、知ってるだろ? こういうのは、美食家とか、もっとこだわりがありそうな人物に相談するのが一番」
「そんな人身近にいないから、相談してるんじゃない」
彩芽は、陽斗を睨みながら、盛大にため息をつく。
こういうのは、色々な人に意見を聞くのが一番ではあるのだが、確かに今まで何度か感想を聞いたことはあるけれど、参考になりそうな言葉が出てきたことはなかった。誰かいい人はいないものか。
「彩芽は、ワイン担当だろ? 何で、洋菓子担当まで兼任してるんだよ」
陽斗からの唐突な質問に、彩芽は言葉を詰まらせる。
「……それは、色々あって」
言い淀んで、目を逸らしていく彩芽。明らかに、何か隠している。
今までであれば、壁を理由に深追いせず、やり過ごしていたところだ。だが、もうその壁は、ない。陽斗はワイングラスを手にしながら、なるべく軽く聞こえるように尋ねる。
「色々って?」
彩芽の前に座ってすでに栓が抜かれているワインに陽斗が手を伸ばしていく。
なかなか返答が返ってこない彩芽の様子を陽斗が伺うと、彩芽も同じことをしていたようだ。ちょうど目が合った。彩芽は、ちょっと驚いたような顔をしつつ、自分のグラスへと手を伸ばしていく。話を逸らす方向へ動いている。陽斗は、彩芽が上げようとしたグラスを阻止して、ニヤッと笑った。端正な顔立ちというのは、ずるいと思う。
昨夜の感触が、不意に思い出され、心拍数が急上昇する。自然と、顔が赤くなってしまう。
彩芽のその反応で、陽斗は直感する。彩芽の無防備になりがちな部分で何かあったのだろう。胸の奥がざわざわしてくる。これが嫉妬とか、独占欲というものなのかと、頭を過るが、今はどうでもいい。
そんな陽斗に彩芽は、お手上げとばかりに、深いため息をついて、体を引いていた。背もたれに全体重を預け、実は……と、白状し始める。
陽斗は真相を聞いて、脱力する。
なんだ、そういうことか。陽斗は、はぁっと全身からため息が出た。俺はずいぶん狭量な人間なのかもしれないなと、初めて自覚し、情けなくなりそうだ。
彩芽のことが好きだったが、本人に気づかれぬまま終わっていった……そういった被害者は、多分これまでにもゴロゴロいたことだろう。自分自身、そっち側の人間になっていてもおかしくなかった。決して、上から目線ではなく、純粋に関口に同情してしまう。
「彩芽が悪い」
「だって、気づかなかったんだもん」
彩芽は口を尖らせ、落ち込んでいく。確かに、彩芽の言うとおりだったのだろうとは、思う。彩芽に、気付けよといっても、細胞の核に鈍感と大きく刻み込まれてしまっているものだから、無理な話だろう。頭が痛い問題だ。
「まぁ、ともかく……そいつに謝っとけよ」
「謝ったけど、気まずくて」
彩芽がぽつりと呟く。
本当は、午後に二人で話し合う予定だった。しかし、重い空気がのしかかってきたせいで、関口が「プライベートと仕事は分けなきゃいけないっていうけど、うまくいかないみたいだ」と言われてしまった。だから「打ち合わせは……少し延期しとこうか」と、関口を避ける提案しかできなかった。
「それは、逆に相手が傷つく。ただでさえ相手は大怪我してるのに、傷口にワサビ塗り込むようなことするな」
「……随分、相手の気持ちがわかるのね」
「俺は、それなりにモテてきたからな」
「なにそれ。自慢? 嫌な感じ」
彩芽はむすっとしながら、陽斗の手を払いのけ。阻止されていた、ワイングラスをぐいっと煽って、お菓子に手を伸ばしていた。
「まぁ、こちら側としては、嘘をつくわけにもいかない。だけど、正直に言えば、相手は必ず傷つく。それでも、はっきり言わなければいけないんだから、仕方ない。はっきり答えてやったら、後は今まで通りの対応をするのが鉄則だ。俺はそうやって、断ってきた」
遠まわしに彩芽がいたからなと言っているのだが、「へぇ。何で断ったの?」と平気な顔をして言ってくる。
「だから、彩芽がいたからに決まってるだろ。本当に……そういうところだぞ」
陽斗がはっきり告げれば、彩芽は、ぼっと炎がついたように急激に真っ赤になっていった。
はっきりと伝えないと彩芽には、伝わらない。陽斗は、痛感する。前途多難だなと、苦笑しながら、それでも惚れてしまったものは仕方がないと諦めるしかない。新たな覚悟のようなものがうっすらと、生まれた時、彩芽のスマホが同時に鳴り始めた。彩芽が、我に返って慌てて、テーブルの殻だらけになっている菓子箱の下から掘り出す。
「お母さんだ」
彩芽が呟くと、一気に空気が変わっていた。何とも言えぬ顔して、画面を陽斗へ向けていた。
『新婚さんたち、飲み会のお誘い&重大発表あり。暇なときに、二人揃って来るべし』
絵文字がずらずらと無意味に添えられていて、無駄にしつこい。
「重大発表って、何だろう」
顔を見合わせるお互いの瞳には、疑問符と嫌な予感が入り混じっている。陽斗は、残りのワインを飲み干した。
「あいつらから来る連絡は、碌なもんじゃない。ともかく、嫌な予感しかしない」
ものすごく嫌な顔をする陽斗に、彩芽も頷く。
「それに関しては、同意見ではあるけど……。でも、陽斗がカプセルホテルに泊まった時、私お母さんに呼び出されたの。その時は、まともだったよ。むしろ、珍しく母親っぽいことしてくれた。だから、大丈夫じゃない? もう散々なことやられたし、これ以上度肝を抜かれるようなことは、ないでしょ」
「絶対とは、言い切れない。完全防備でいかないと、メンタルやられる」
「実家に行くのに、完全防備って、どんな家よ」
陽斗は疑心暗鬼に陥る。彩芽は楽観的に、大丈夫だよと、陽斗の危惧を笑い飛ばしてくる。
「いつ行こうか?」
うーんと唸り始める彩芽に、陽斗が無視してもいいのではと提案しようと言いかける。その前に、彩芽が「あ!」と叫んだ。
「どうした?」
「いいアドバイザー発見! すぐ近くに、無駄にいつも飲み食いしている人達」
彩芽は、スマホを指をさす。
「顧客のターゲット層も、ぴったり一致」
彩芽は息巻いて「今、すぐ行こう」と言い出す。
それに対して、陽斗は惜しみなく行きたくないという顔をする。彩芽はせっせと落ちていた紙袋にお菓子を詰め始める。
「善は急げっていうでしょ? ほら、陽斗はその辺のお菓子集めて」
彩芽は、警戒という二文字をどこかへ置いてきてしまったようだ。早く手伝えと、急かしてくる。仕方なく、陽斗も手を動かし始めるが、行き先が本当に善なのか、甚だ疑わしいと思わずにはいられなかった。
外気に晒されたドアを開ける。ふわっとした温もりと一緒に「お帰りー」と、いつもの実家にいるような彩芽の声が返ってきた。通常運転の声に、もしかしたら昨日のことがすべて抜け落ちているのではないかと、不安が過る。だが、彩芽がここにいるということ。自分がここに帰ってきたということに驚きもしていところから、その可能性はないなと、安堵する。「ただいま」と返しながら、玄関のドアを閉めた。
ソファに座って、テレビでも見て寛いでいるのだろうか。これまでも何気ない日常に当たり前のように彩芽がいて、揺るぎない安心感がそこにある気がした。
「飲んでくるっていうから、もっと遅いと思ったら、案外早かったね」
顔は出さず声だけが飛んでくる時点で、熟年夫婦のようだなと思う。新婚ならもっと甘い雰囲気でも醸し出すところだろうが。まぁ、いいか。苦笑しながら、廊下をまっすぐ抜けて、リビングへと向かう。すると、本当の意味で甘い香りが漂っていた。
リビングは、箱で埋め尽くされている。とりあえず、鞄を脇に置いて、コートを脱いで、もう一度この状況をみやる。どうやら、埋め尽くされている箱の正体は、すべてお菓子のようだ。クッキーやら、チョコなどの胸焼けしそうなほどの砂糖の濃い匂いが充満している。
「菓子店でも、開くつもりか?」
「時間がなくてね。持ち帰り案件」
「うちの方がブラック企業だと思ってたけど、彩芽のところも相当だな」
「年末年始って、忙しい時期だし、しょうがないのよ」
ダイニングテーブルでメモを取っている彩芽。その横に、少量注がれたワイングラス、ボトルワイン数本が並んでいて、その中身は少しずつ減った状態で置いてある。テイスティングでもしていたのだろう。まったく、難儀な性格だなと思う。
自分の場合は、スポーツ関係の営業職で、家にまで仕事を持ちこむことせずとも、会社で何とかなる。それ以前に、自分の性格上も仕事にどっぷり浸かることはない傾向にある。サッカーをやっているときもそうだった。家に帰れば、不思議と頭の切り替えができて、ずっとサッカーのことばかり考えるということは、ほとんどなかった。
一方、彩芽の場合は、仕事も食という身近なものを扱っている分、家に丸々持ち込んでしまいやすいのだろう。考えてみれば、いつも家でワインを飲んでいるが、それも仕事の一環といえてしまう。
彩芽も歩美の血を引いていて、その片鱗を時折示してくるのに、変に生真面目なところがある。一つ問題が発生すると、そればかりで頭がいっぱいになり、他のことを考えられなくなる。
今のこの状態は、完全仕事モードに入ったというところだろう。
「これ、いつからやってんの?」
陽斗は、箱を踏まないように気を付けながら、彩芽の正面の椅子へたどり着いて、腰を下ろす。
「帰ってきたのが、十九時くらいだったから、かれこれ二時間ほど。洋菓子ワインコラボ商品、絞らなきゃいけないのよ。選定会で高評価を得られたら、中元歳暮カタログの特集ページのトップに掲載できるかもしれないって、帰り際に言われたから頑張らないと」
一通りメモを取り終わったのか、やっと顔を上げて、陽斗を見る。
丸い双眸は、疲れが出ているせいか充血している。陽斗の眉間に皺が寄った。彩芽は、菓子箱に埋もれてしまったリビングの状況を非難されていると思ったらしい。
「あんまり悠長なこと言っている時間もないから、とりあえず私の方で洋菓子もピックアップしておこうかと思ったんだよね。リストもらったんだけど、活字と写真じゃわかんないから、店頭回って賞味期限切れとか貰えるところだけ貰って帰ってきたら、お菓子だらけになっちゃった。ごめん」
謝っておきながら平然と「じゃあ、これ、ちょっと食べて飲んでみて」と、既に用意されていた未使用のグラスにワインを注ぐ。菓子と一緒に差し出しきた。ビールぐらいしか飲んでいないし、小腹もすいている。言われるがままに、菓子の袋を開けて、口の中へ放り込んだ。
「普通に、うまいけど?」
「そういうことじゃなくて、もっと細かい話。ワインと一緒だったら、合うとか……」
「まぁ、合うんじゃない? 普通に飲みたくなるけどな」
「だから、もうちょっとないの? もっと具体的に。ワインと調和がとれる甘さだ、ちょっと甘すぎるとか」
「そんなこと言われても、旨いか不味いかくらいしか、わからん。俺に聞くのは間違いだって、知ってるだろ? こういうのは、美食家とか、もっとこだわりがありそうな人物に相談するのが一番」
「そんな人身近にいないから、相談してるんじゃない」
彩芽は、陽斗を睨みながら、盛大にため息をつく。
こういうのは、色々な人に意見を聞くのが一番ではあるのだが、確かに今まで何度か感想を聞いたことはあるけれど、参考になりそうな言葉が出てきたことはなかった。誰かいい人はいないものか。
「彩芽は、ワイン担当だろ? 何で、洋菓子担当まで兼任してるんだよ」
陽斗からの唐突な質問に、彩芽は言葉を詰まらせる。
「……それは、色々あって」
言い淀んで、目を逸らしていく彩芽。明らかに、何か隠している。
今までであれば、壁を理由に深追いせず、やり過ごしていたところだ。だが、もうその壁は、ない。陽斗はワイングラスを手にしながら、なるべく軽く聞こえるように尋ねる。
「色々って?」
彩芽の前に座ってすでに栓が抜かれているワインに陽斗が手を伸ばしていく。
なかなか返答が返ってこない彩芽の様子を陽斗が伺うと、彩芽も同じことをしていたようだ。ちょうど目が合った。彩芽は、ちょっと驚いたような顔をしつつ、自分のグラスへと手を伸ばしていく。話を逸らす方向へ動いている。陽斗は、彩芽が上げようとしたグラスを阻止して、ニヤッと笑った。端正な顔立ちというのは、ずるいと思う。
昨夜の感触が、不意に思い出され、心拍数が急上昇する。自然と、顔が赤くなってしまう。
彩芽のその反応で、陽斗は直感する。彩芽の無防備になりがちな部分で何かあったのだろう。胸の奥がざわざわしてくる。これが嫉妬とか、独占欲というものなのかと、頭を過るが、今はどうでもいい。
そんな陽斗に彩芽は、お手上げとばかりに、深いため息をついて、体を引いていた。背もたれに全体重を預け、実は……と、白状し始める。
陽斗は真相を聞いて、脱力する。
なんだ、そういうことか。陽斗は、はぁっと全身からため息が出た。俺はずいぶん狭量な人間なのかもしれないなと、初めて自覚し、情けなくなりそうだ。
彩芽のことが好きだったが、本人に気づかれぬまま終わっていった……そういった被害者は、多分これまでにもゴロゴロいたことだろう。自分自身、そっち側の人間になっていてもおかしくなかった。決して、上から目線ではなく、純粋に関口に同情してしまう。
「彩芽が悪い」
「だって、気づかなかったんだもん」
彩芽は口を尖らせ、落ち込んでいく。確かに、彩芽の言うとおりだったのだろうとは、思う。彩芽に、気付けよといっても、細胞の核に鈍感と大きく刻み込まれてしまっているものだから、無理な話だろう。頭が痛い問題だ。
「まぁ、ともかく……そいつに謝っとけよ」
「謝ったけど、気まずくて」
彩芽がぽつりと呟く。
本当は、午後に二人で話し合う予定だった。しかし、重い空気がのしかかってきたせいで、関口が「プライベートと仕事は分けなきゃいけないっていうけど、うまくいかないみたいだ」と言われてしまった。だから「打ち合わせは……少し延期しとこうか」と、関口を避ける提案しかできなかった。
「それは、逆に相手が傷つく。ただでさえ相手は大怪我してるのに、傷口にワサビ塗り込むようなことするな」
「……随分、相手の気持ちがわかるのね」
「俺は、それなりにモテてきたからな」
「なにそれ。自慢? 嫌な感じ」
彩芽はむすっとしながら、陽斗の手を払いのけ。阻止されていた、ワイングラスをぐいっと煽って、お菓子に手を伸ばしていた。
「まぁ、こちら側としては、嘘をつくわけにもいかない。だけど、正直に言えば、相手は必ず傷つく。それでも、はっきり言わなければいけないんだから、仕方ない。はっきり答えてやったら、後は今まで通りの対応をするのが鉄則だ。俺はそうやって、断ってきた」
遠まわしに彩芽がいたからなと言っているのだが、「へぇ。何で断ったの?」と平気な顔をして言ってくる。
「だから、彩芽がいたからに決まってるだろ。本当に……そういうところだぞ」
陽斗がはっきり告げれば、彩芽は、ぼっと炎がついたように急激に真っ赤になっていった。
はっきりと伝えないと彩芽には、伝わらない。陽斗は、痛感する。前途多難だなと、苦笑しながら、それでも惚れてしまったものは仕方がないと諦めるしかない。新たな覚悟のようなものがうっすらと、生まれた時、彩芽のスマホが同時に鳴り始めた。彩芽が、我に返って慌てて、テーブルの殻だらけになっている菓子箱の下から掘り出す。
「お母さんだ」
彩芽が呟くと、一気に空気が変わっていた。何とも言えぬ顔して、画面を陽斗へ向けていた。
『新婚さんたち、飲み会のお誘い&重大発表あり。暇なときに、二人揃って来るべし』
絵文字がずらずらと無意味に添えられていて、無駄にしつこい。
「重大発表って、何だろう」
顔を見合わせるお互いの瞳には、疑問符と嫌な予感が入り混じっている。陽斗は、残りのワインを飲み干した。
「あいつらから来る連絡は、碌なもんじゃない。ともかく、嫌な予感しかしない」
ものすごく嫌な顔をする陽斗に、彩芽も頷く。
「それに関しては、同意見ではあるけど……。でも、陽斗がカプセルホテルに泊まった時、私お母さんに呼び出されたの。その時は、まともだったよ。むしろ、珍しく母親っぽいことしてくれた。だから、大丈夫じゃない? もう散々なことやられたし、これ以上度肝を抜かれるようなことは、ないでしょ」
「絶対とは、言い切れない。完全防備でいかないと、メンタルやられる」
「実家に行くのに、完全防備って、どんな家よ」
陽斗は疑心暗鬼に陥る。彩芽は楽観的に、大丈夫だよと、陽斗の危惧を笑い飛ばしてくる。
「いつ行こうか?」
うーんと唸り始める彩芽に、陽斗が無視してもいいのではと提案しようと言いかける。その前に、彩芽が「あ!」と叫んだ。
「どうした?」
「いいアドバイザー発見! すぐ近くに、無駄にいつも飲み食いしている人達」
彩芽は、スマホを指をさす。
「顧客のターゲット層も、ぴったり一致」
彩芽は息巻いて「今、すぐ行こう」と言い出す。
それに対して、陽斗は惜しみなく行きたくないという顔をする。彩芽はせっせと落ちていた紙袋にお菓子を詰め始める。
「善は急げっていうでしょ? ほら、陽斗はその辺のお菓子集めて」
彩芽は、警戒という二文字をどこかへ置いてきてしまったようだ。早く手伝えと、急かしてくる。仕方なく、陽斗も手を動かし始めるが、行き先が本当に善なのか、甚だ疑わしいと思わずにはいられなかった。
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