炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~

悠井すみれ

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五章 皓華宮からの誘い

4.本当の名前

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雪莉せつり姫……本物の?」

 炎俊が首を傾げるのを、朱華は息を呑んで見守っていた。整った顔に浮かぶ表情が何なのか、疑問や不審の他に、拒絶の色が見えないかどうか、見逃すまいと。
 だって、後ろ盾のない心細さで陶家に残される雪莉を救うためにこそ、朱華は天遊林に入ったのだ。皇子の寵愛を得て、あの方を酷い実家から彼女の傍に呼び寄せて差し上げたい、と。名目は侍女でも、朱華と一緒なら陶家での冷遇振りよりはるかに安心だ。

(思ってたのとは、全然違う状況なんだけど……!)

 彼女の夫になった皇子は実は女だし、朱華が偽物だということもあっさり看破されてしまった。世間を欺くために夫以外の男と閨を共にしなければいけないらしいし、皓華宮の翰鷹皇子にはあらぬ疑いを掛けられている可能性が高いらしい。覚悟していた以上に、天遊林での日々は油断ならないことばかりだ。

 でも、少なくとも、炎俊と腹を割って話せる関係になっているのは僥倖のはずだ。決して話が通じない相手でもない――短い間ではあるけれど、知った夫の人柄を信じて、話を持って行かなくては。陶家の干渉をあしらうのも面倒だろうから。雪莉を呼べば解決策になり得ると、利得をもって納得させよう。決して感情的にはならないように。でも――

「あの、ぼんやりした顔立ちの娘のことか」
「優しそうなお顔の方よ!」

 炎俊が納得したように呟いたのは、朱華にとっては聞き捨てならなかった。だから思わず声を荒げてしまって――朱華が慌てて口を抑える間に、炎俊はまた首を傾げていた。

「その娘は信用できるのか。陶家の者ならば、実家に忠実ではないのか?」

 この程度の疑問は、朱華も承知している。だから、ここぞとばかりに炎俊が掛ける机の前に立ちはだかると、広げた両手を机面について畳みかける。炎俊の懸念を晴らして、雪莉を呼び寄せるのに頷いてもらわないとならないのだから。

「お心も優しい方だから、親兄弟に秘密を持つのは悲しまれるでしょうね。でも、事情を知れば、あんたの立場を危うくしようだなんて考える方じゃないわ。私からもお願いすれば、分かってくださるはずよ」
「本物の姫が、陶家よりもそなたにつくというのか?」

 炎俊が目を細めるのは、雪莉を知らないからこそだ。あの方をひと目見るだけで、企みとは無縁の心根だと分かるはずだと、朱華は信じている。純粋で清らかで優しくて――いっそ、炎俊には会わせたくないくらいなのだ。

 けれど、彼女の主観を並べたところで炎俊は納得しないだろう。だから、朱華は反論を用意してある。炎俊に理解してもらえるかは甚だ不安ではあるけれど、伝えないことには何も始まらない。

「私と雪莉様は、ほとんど一緒に育ったのよ。陶家の誰よりも、互いに過ごした時間の方が長いくらい。だから、本当に姉妹のようにも思っているわ。きっと、雪莉様の方も」
「身代わりと本物を親しく交わらせるなど無駄なことをしていたのだな。別に、容姿や言動を似せる必要はないだろうに」
「そうね、陶家の連中だって分かってたわよ。雪莉様をどこかへやって、私を本当の雪莉様として扱った方が楽だし安全だって。でも、そうはならなかったのよ」

 不可解そうに首を捻るばかりの炎俊に、朱華は溜息を堪えてその傍に回り込むと、手近な椅子を引っ張ってすぐ隣に腰掛けた。

「雪莉様も、私を嫌って怖がっても当然だったわ。私が来たせいであの方はもっとひどい扱いになるのが分かり切っていたんだもの。でも、あの方は私を哀れんだの。住んでたところから引き離されて、別の人間にされるのは可哀想、ごめんなさい、って!」
「やはり、呑気な娘なのだな。それどころではないのだろうに」
「ええ、さすがはお嬢様よね」

 炎俊はその手のことを言うだろうと思っていたから、朱華は今度は激昂しなかった。代わりに、大きく頷いてやる。炎俊の呆れも微かな驚きも、かつての彼女が感じたものだ。何なら、怒りや苛立ちだって。けれど、雪莉は決して呑気なだけの姫君ではなかった。それ以上に、信じられないくらいに優しいのだと、朱華はすぐに知ることになったのだ。

 炎俊が置いたばかりの筆を手に取り、朱華は何となく指先で弄んだ。

「でも、私が私でいられたのも、雪莉様が――少なくとも屋敷の中では――雪莉様でいられたのも、あの方のお陰よ。あの方があんまり優しいから、好きにならない訳にはいかなかったの。だから、あの方の名前と立場、全てを奪うのが嫌だった。あの方と一緒じゃなきゃ勉強も遠見の練習も、食事でさえしないって言ってやったのよ」

 もちろん、陶家の者たちも簡単には認めようとしなかった。どうせ子供の意地だろうと高を括っているのがよく分かったから、朱華は実際食事を断ったのだ。彼らが本気で命の心配をし始めるくらいには、徹底して。陶家はついに根負けして、雪莉と朱華を同時に教育することにしたのだ。呼び方も、「雪莉」がふたりいてはややこしいから、雪莉は雪莉、朱華は朱華と呼ばれる権利をもぎ取った。

「だから、私と雪莉様はお互いに恩があるわ。他の者には分からないけど――あんたには分かって欲しいんだけど――、特別な方なの。だから、私が頼めば、きっと」
「そなたにも、名前があったのだな。雪莉ではなく……」

 じっと朱華の言葉に耳を傾けているようだった炎俊が、ふと呟いた。雪莉を呼び寄せられるかどうか、に神経を集中させていた朱華は、思いがけず自身のことに言及されて目を瞬かせる。今さらだけど、確かにこいつが彼女自身の名を尋ねたことはなかった。

「そうよ。私の本当の名前は朱華、というの。朱い、華」

 せっかく筆を持っているのだから、と。言葉での説明に加えて、朱華は予備の紙に自身の名を綴って見せた。さすが、皇子が使うものだけあって質が良いのだろう、筆の運びの滑らかなこと、単に字を書くだけのことが心地良いとさえ思えた。

「そなたには雪莉よりも似合うな」
「でしょう。そして、雪莉、はあの方にお似合いの名前なの」

 白く香り高い茉莉花に、雪の清らかさは雪莉の印象を良く表していると思う。対する朱華は、炎俊が言うところのぼんやりしていない顔立ちに、この通りの激しい気性。燃えるような朱色の花――棘のある薔薇、なんて喩えるのは不遜かもしれないけれど。

(雪莉様に興味を持ってくれたのかしら?)

 炎俊と雑談めいたことになるのは珍しかった。まして、名前を褒めるような情緒を持ち合わせていたのは驚きだ。もしかすると良い兆候なのか、と期待しかけたけれど、それには少し早かったようだ。炎俊は、朱華が名を綴った紙を摘まみ上げると、しげしげと見つめて呟いたのだ。

「『雪莉』姫に同じ名前の侍女がいるのは怪しくはないか。普通は憚ると思うのだが」
「あ……」

 炎俊の指摘は、剣のように鋭く朱華の胸を貫いた。あまりにもまっとうでもっともで、反論の余地がなかったから。確かに、普通は主と同じ名前の者を侍女に選んだりはしないだろう。でも、朱華としてはこの期に及んでも雪莉から名前を奪うことはしたくない。

(でも、それじゃあダメってこと……!?)

 表情を強張らせた朱華を、炎俊は感情を窺わせない黒々とした目で見てきた。拒絶されてしまうのか、と。唇を噛んだ彼女の耳に、淡々とした声が届く。

「だが、私はそなたの機嫌を取りたいし、本物の雪莉姫がそなたと同様の教育を受けているなら、この宮としても助けになろう。陶家への連絡を、考えておく」
「ほんと!? ありがと――」

 宝石だの衣装だの、珍しい菓子だのよりもずっと素晴らしい贈り物に、朱華の機嫌は確かに一瞬で上向いた。意味がないのを承知していても、炎俊に抱き着こうとしてしまうくらいに。でも、朱華の腕が炎俊の背に回ることはなかった。素早く立ち上がった炎俊が、朱華の手をそっと制して距離を保たせたのだ。

「ただ、兄上の件を片付けてから、になるが。何が起きるか分からないから、その娘の安全のためにもその方が良いだろう?」
「……そうね、仕方ないわね……」

 女同士でべたべたするのが嫌だったのか、喜ぶのはまだ早いと言いたかったのか。炎俊の心中は相変わらず分からないけど、朱華もどうにか興奮と高揚を抑えようと努めた。今すぐでないのは残念だけど、皓華宮の件さえ解決すれば、雪莉を呼び寄せるにあたっての障害は大幅に減る。それなら――

「じゃあ、早く片付けないとね?」
「やる気が出たのなら良い。まあ、次は兄上の返事次第になるが」

 拳を固めた朱華を見て初めて、炎俊は微笑んだ。まんまと乗せられたということなのか、こいつに意図してそんな真似ができるのか――朱華は、少しだけ悩むことになる。
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