炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~

悠井すみれ

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七章 燕はどこに消えた

5.振出しに戻る

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 扉の外から、炎俊と翰鷹皇子の声が聞こえてくる。翰鷹皇子の寝室での時見は、どうやら色良い結果にはならなかったようだ。

「そなたの《目》でも何も視えなかったのか? 本当に?」
「嘘を吐いても私に得はございません」
「だが──」
「お疑いとあらば、兄上が白妃に囁いたことをこの場で申し上げる」
「な──そなたには情というものがないのか!?」
「私だって言いたくはないのです!」

(ああ、くだらない……!)

 炎俊は、律義かつ念入りに時見を行ったのだろう。翰鷹皇子と佳燕の睦言を、彼らの唇を読んで聞き取るほどに。でも、たとえ不首尾に苛立っているのだとしても、兄妹のやり取りはあまりにも程度が低いような気がしてならなかった。

 尊いはずの皇子ふたりの足音が近づくのを聞きながら、朱華は額を抑えた。長椅子に横たわった彼女の傍らには、佳燕の侍女の繍栄が窶れ切った顔で控えている。心労に加えて朱華が問い詰めたからだろうけど、何もかもを聞いた後では同情する気にもなれない。

「陶妃様……」

 心配顔の繍栄が呟いたのに対して、朱華は眼差しだけで命じる。任せていなさい、と。この侍女に腹芸なんて期待していない。炎俊の方も、朱華の意図を察して動いてくれるかどうかは甚だ不安だけれど──どうにか上手くやるしかない。

(もう、面倒臭いったら!)

 繍栄の話を、炎俊に伝えなければ。その上で、また対策を練る必要がある。もしかしたら、既にして面倒がっているヤツは手を引くと言い出すかもしれないし、朱華にもその気分はよく分かる。でも──それでも、できることなら佳燕を助けたい。

 炎俊を説得する理屈を頭の中で捏ねながら、朱華は長椅子に突っ伏した。そしてちょうど、扉を開く音がする。

「雪莉──これは、どうしたことだ」
「我が君様……申し訳ございません」

 炎俊が近づくと、朱華はわざとらしく夫にもたれかかった。彼女が正気なら絶対にしないことだ。だから何かあると気付いてくれるだろう。……多分。

「皓華宮があまりに眩しくて恐れ多くて……少し、気分が悪くなってしまいましたの」
「……それは大変だ。すぐに星黎宮に戻らねば」

 碧羅宮では、何人もの妃たちとの茶会にも耐えた朱華だ。使用人たちに囲まれたからといって、怖気づくはずもない。あり得ない言動の真意を、幸いにも炎俊は察してくれた。どこか気味悪げに見下ろしてきたのは腹が立つけど、朱華が望む言葉を返してくれたのだ。

 恐らく炎俊には闘神の《力》も備わっている。だから、女にしては、そして細腕の割には力が強く、多分朱華を抱え上げるくらいは造作もない。でも、炎俊の手を借りて立ち上がる振りで、朱華はこれまた大げさによろめいて見せた。

「『きゃあ』」
「と、陶妃様……」

 朱華は炎俊ではなく繍栄に縋る。もちろん、動揺しきりの老女に体重を掛ける訳にはいかないから、絹の衣装の下では筋肉が攣って少し痛い。

「……ごめんなさい、繍栄。手を貸して……支えてくださる……?」

 炎俊の方をちらりと見ながら侍女の名を口に出せば、夫の眉が軽く上がる。炎俊は、時見で繍栄の顔を視ている。名前を出せば、聞き逃すことはないだろう。
 果たして、炎俊は朱華ごと繍栄を抱え込んだ。不意に貴人に触れられた繍栄は小さく悲鳴を上げたし、朱華の方も、繍栄に炎俊の女の身体が気付かれないかどうか、気が気ではなかったけれど。幸いに、皓華宮を訪ねるために盛装した炎俊の身体は、重く硬い刺繍を施された何重もの衣装によろわれていた。

「兄上、申し訳ないが雪莉がこの有様だ。一旦出直させていただきたい。雪莉の支えに、この者もお借りする」
「その者は……だが──」
「誠に申し訳ない。失礼する」

 戸惑った表情からして、繍栄が佳燕の側近なのは、翰鷹皇子も承知しているはず。でも、兄皇子がはっきりと嫌だと言う暇を、炎俊は与えなかった。朱華も、今にも倒れそうな体で繍栄にしがみついて離さない。当の繍栄には、皇子たちに逆らって物申す度胸があるはずもないし──先の朱華の言いつけが、彼女を縛っているはず。
 と、いう訳で。朱華と炎俊は、繍栄を連れて皓華宮を後にすることに成功した。

      * * *

 星黎宮に着いた炎俊は、気楽な格好に着替えるなり朱華を問い質した。

「──で、あの侍女は何を言っていたのだ」
「心配して欲しい訳じゃなかったけど、全然心配しないのね」

 同じく普段着に着替えた朱華は、念のために苦情を言っておくことにした。けれどこれもいつものこと、そのうち分かるだろうと期待するしかない。それに、今はもっと大事なことがある。茶を一杯だけ飲み干してから、切り出す。

「皇子サマの寝室でも、収穫はなかったでしょ?」
「うむ。兄上から聞いたことの裏付けが取れたというだけで。白妃は懸命に他の妃を勧めているのに、兄上は聞く耳を持たないのだ」
「繍栄もそう言ってたわ」

 その繍栄は、今は別室で休んでいる。朱華の炎俊に対する口の利き方は、他所の宮の者には絶対に見せられないし聞かせられない。

「白家の思惑については? 白妃をどのように隠したかは知れたか? 私から働きかける余地があれば良いのだが」
「それなんだけどね……」

 こいつはどんな顔をするだろう、と思いながら朱華は小さく溜息を吐いた。怒るか、驚くか、その両方か。少しだけ、ほんの少しだけ炎俊が狼狽えたところを見てみたい気もするけれど、宥めて話を進めるのが自分の役目だと思うと、やはり憂鬱さの方が勝る。

「白家は何もしてないんだって。佳燕様がいなくなったことに、白家は関係ないの」
「何……?」

 ゆっくりと瞬いた炎俊が気を取り直すまでの間に、朱華はもう一杯茶を啜り終えていた。

「だが、他の娘を引き受ければ白妃を返すと言ったのではないのか」
「言ってないのよ。三の君様が勝手にそう思っただけで」

 先ほど、皓華宮で繍栄を問い質したのと同じやり取りを、立場を変えて繰り返すのは虚しかった。皓華宮に足を運んだのは無駄だったようなものなのだし。翰鷹皇子の思い違いに、まんまと振り回されたことになる。

「日頃からうちの娘を、って言ってたからよ。本当にたまたま……間が、悪かったのよ」
「では、白妃を攫ったのは何者だ? 実家以外の手によることならば、看過できぬ」

 炎俊が眉を寄せて声を尖らせたところさえ、朱華は既に通り過ぎている。

「あのね、佳燕様はご自身で姿を隠されたの。……ご夫君から、逃げたのよ」

 考えてみれば──というか、翰鷹皇子を見ていれば、気付いて当然のことだったかもしれない。

(まあ、気付いたからって何ができたとも限らないんだけどさ……)

 険しい表情のまま、けれど呆然と固まってしまった炎俊を前に。朱華はまたひとつ溜息を零すと、繍栄から聞いたあの日の顛末を語り始めた。あの日──翰鷹皇子が主張するところの、佳燕が消えた日のことだ。

「あのさ、皓華宮で、佳燕様が出ていくところや捕まるところは視えなかった、でしょ?」
「……そうだ」

 佳燕が実家である白家の企みによって連れ去られた、と。前提にしていた仮説を覆されて自失した様子の炎俊を慮って、朱華はおずおずと前置きを置いた。幸か不幸か炎俊は即座に立ち直って、憤りも露わに身を乗り出してきたのだけれど。

「白妃の部屋も兄上の部屋も念入りに視たのだ。お陰で見たくもないものを視る羽目になった。毎日毎日、似たようなことをしているから六日前を視分けるのも厄介だった」

(ああ……時見ってそういう難しさもあるのか……)

 非常に珍しいことに、愚痴めいたことをこぼす炎俊を前に、朱華はまたひとつ時見の不自由さに気付いた。同じ人々が同じ建物にいるところを視るのだから、どこからどこまでが何日なのか、別の日の出来事を視分けるのは難しいことに違いない。

「白妃はどのようにして宮を出たのだ。宮の造りを知り尽くしていたところで、全く姿を見せずにすり抜けるのは難しいと思うが。しかも、白妃ひとりで、なのだろうに」
「あ、あのね、そこがまず間違いなの。佳燕様がいなくなった日は、おひとりで皓華宮に戻られたということだったでしょ?」
『常ならば、行きかえりの輿も長春君様とご同乗なさるものでした』

 繍栄という老侍女の弱り切った声を脳裏に蘇らせながら、朱華はその言葉をなぞった。

「その途中で、輿を止めさせて庭を眺められたということなの」
『皓華宮に戻れば、白家からの書簡が届いております。長春君様に元々仕える方たちは無視しろといい、白家から従う者たちは、長春君様への取次ぎを、とつつきます』

 佳燕が両者の板挟みになって苦悩していた、という推測は外れようもない。朱華が──薄々恐れてはいたけれど──思い至らなかったのは、あの方にとって最大の悩みの種は誰だったのか、というところだった。

「貴重なひとりの時間だったから、広々したところで息抜きしたかったんでしょうね」

 でも、夜になれば翰鷹皇子が帰ってくる。あの方は、決して佳燕の話に本当の意味では耳を傾けない。あの方の他に妃を寄せ付けず、決して乱暴もせず、甘えては慰めを求める──それはそれで、得難い僥倖で、至上の幸福と思う女も多いのだろうけど。

 時見の《力》を思うように扱えない佳燕にとって、皓華宮は絶好の隠れ処であり、翰鷹皇子はまたとない庇護者のはずだった。それでも、ひたすら囲い込まれて何ひとつ意思が伝わらない日々は苦痛でしかなくなっていたのだ。
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