36 / 49
七章 燕はどこに消えた
6.提案
しおりを挟む
「──だから、逃げた……と?」
「……そう。庭を眺めるうちに、不意に涙ぐまれたそうで」
記憶の中の繍栄と同時に、朱華は溜息を吐いた。炎俊の声がやけに低く、目つきが険しいのを気にしながら。こいつはいったい何が気に入らないのか──心当たりはいくつもあるけれど、とりあえず黙って聞いていて欲しい。
『皓華宮には戻りたくない、長春君様のお顔を見たくないと仰って泣かれるばかりで──私どもがどれほどお慰めしても、聞いてくださいませんでした』
石畳で整えられた回廊を外れて、庭に足を踏み入れていた佳燕は、幼児が駄々を捏ねるようにその場に座り込んで首を振るだけになってしまった。そんな女主人をまた輿に乗せることは、繍栄たちにはどうしてもできなかったということだった。
『佳燕様のお悩みは、私どももよく存じておりましたし……。これで長春君様もお耳を傾けてくださるのでは、お妃を増やしてくださるのでは、と考えてしまったのでございます』
佳燕の不在は、その夜のうちにも翰鷹皇子の知るところになる。皇子はすぐに佳燕を迎えに行くだろうし、そこまで思いつめた理由もさすがに問い質すことだろう。だから、佳燕がひとりきりになるのもほんの数刻のこと、ここまでの大事にはならないだろうと繍栄たちは考えたのだ。でも──
「三の君様は真っ先に白家を疑って抗議したでしょう。白家も知らないことだから対応がかみ合わなくて、それで余計にお怒りになって──」
「輿を担いだ宦官どもは、白妃は確かに皓華宮に戻ったと述べたとか。その者たちはどのように言い包めたのだ」
「彼らは、ずっと平伏したままだもの。輿に乗ったのが佳燕様か身代わりの侍女なのかは分からない。三の君様のいないところで佳燕様が愚痴をこぼすのはいつものことだったから、証言するほどのこととは思わない。……というか、そこは言えないでしょうし」
「そのような、愚かな……!」
炎俊の呟きに、朱華も全面的に同意する。彼女も、繍栄に怒鳴ったのだ。皓華宮の真っ只中でのこと、他の使用人たちに聞きつけられないよう、声を抑えるのには苦労した。
「三の君様が怖かったのよ。皇子サマのお怒りを買ったら何があるか分からない。幸い、矛先は白家に向かっているし。おかしいと思った人もいるでしょうけど、口を噤んだのよ」
『長春君様は、私ども白家から来た者が宮から出ないように取り図られました。白家と通じることがないように、と。だから、どなたにお伝えすることもできませんで……』
繍栄は泣いて訴えたけれど、同情する気にはなれなかった。あの侍女は心から佳燕の身を案じ、哀れんで思い悩んで、けれど何もしなかったのだから。
『おひとりで、何日も……佳燕様はどれほどお心細くなさっているか……! 皇宮の建物の中ならしらず、庭までは呪も施されておりませんのに……!』
(私なら愚痴らず正面から怒るからね……あんたにも分からないんでしょうね)
怒りによってか呆れによってか、呟いたきり絶句する炎俊を、朱華はしみじみと眺めた。
朱華と炎俊の間なら、怒鳴り合いを交えながらも交渉はできる。朱華はしょせん偽者で無作法だから。お互いに秘密を抱えた特別な関係だから。でも、佳燕はそうではないらしい。だから──ここからが、また面倒なことになる。
「……だが、これで白妃の居場所は知れたということだな? 皓華宮の侍女たちは、そもそも知っていたのだろうが」
「ええ、三の君様に閉じ込められなかったら、自分たちで迎えに行っていたでしょうね」
「あてもなく白家に所縁の地を探すよりはよほど話が早い。今からでも白妃を捕らえてしまえば良いのだな」
(ああ、やっぱり……!)
捕らえる、という表現ひとつで、炎俊の思いは知れる。こいつは、ただただ面倒なことをさっさと片付けてしまいたいとしか思っていないのだ。佳燕さえ戻れば義理は果たしたとは、朱華にはとても思えないのに。
「でも……佳燕様はまた同じことをなさるかもよ? それじゃ解決にはならないわ」
「事情が分かれば、兄上もあちこち連れ回すようなことはなさるまい。ご自身の妃なのだからきちんと閉まっておいていただけば良い」
(そんなことを言うんじゃないかと思ってた!)
佳燕が自害するかも、などと言ってもこいつには無駄だろう。それを見張るのが夫の役目だから、で終わらせて。佳燕を連れ戻した後に何が起きたとしても、皓華宮の問題であって朱華たちには何の非もない、と。でも、それではあまりにも後味が悪い。
皓華宮で体調を損ねたフリをしながら、朱華はのたうち回る思いで考えたのだ。どうすれば、佳燕を本当に助けられるか。炎俊に面倒を納得させるか。まあ、結局はやってみなければ分からない、という結論に落ち着いたのだけど。
(まずは、こいつがどんな反応をするか、よね……)
「そうよね」
「だろう」
朱華が頷いたのを見て、炎俊の表情がわずかに緩んだ。また訳の分からない難癖をつけらずに済んたと思ったなら、まだ早い。朱華の本題は、まだこれからなのだから。
「じゃあ、逆にっていうか──佳燕様を星黎宮に隠してしまうのは? 三の君様に恩を売るのと、人質を取って引き下がっていただくのと、どっちが良いかしら?」
なるべくにこやかに、さりげなく。それでも不穏な単語を織り交ぜて朱華が首を傾げると、炎俊の目がわずかに見開かれた。
「……そう。庭を眺めるうちに、不意に涙ぐまれたそうで」
記憶の中の繍栄と同時に、朱華は溜息を吐いた。炎俊の声がやけに低く、目つきが険しいのを気にしながら。こいつはいったい何が気に入らないのか──心当たりはいくつもあるけれど、とりあえず黙って聞いていて欲しい。
『皓華宮には戻りたくない、長春君様のお顔を見たくないと仰って泣かれるばかりで──私どもがどれほどお慰めしても、聞いてくださいませんでした』
石畳で整えられた回廊を外れて、庭に足を踏み入れていた佳燕は、幼児が駄々を捏ねるようにその場に座り込んで首を振るだけになってしまった。そんな女主人をまた輿に乗せることは、繍栄たちにはどうしてもできなかったということだった。
『佳燕様のお悩みは、私どももよく存じておりましたし……。これで長春君様もお耳を傾けてくださるのでは、お妃を増やしてくださるのでは、と考えてしまったのでございます』
佳燕の不在は、その夜のうちにも翰鷹皇子の知るところになる。皇子はすぐに佳燕を迎えに行くだろうし、そこまで思いつめた理由もさすがに問い質すことだろう。だから、佳燕がひとりきりになるのもほんの数刻のこと、ここまでの大事にはならないだろうと繍栄たちは考えたのだ。でも──
「三の君様は真っ先に白家を疑って抗議したでしょう。白家も知らないことだから対応がかみ合わなくて、それで余計にお怒りになって──」
「輿を担いだ宦官どもは、白妃は確かに皓華宮に戻ったと述べたとか。その者たちはどのように言い包めたのだ」
「彼らは、ずっと平伏したままだもの。輿に乗ったのが佳燕様か身代わりの侍女なのかは分からない。三の君様のいないところで佳燕様が愚痴をこぼすのはいつものことだったから、証言するほどのこととは思わない。……というか、そこは言えないでしょうし」
「そのような、愚かな……!」
炎俊の呟きに、朱華も全面的に同意する。彼女も、繍栄に怒鳴ったのだ。皓華宮の真っ只中でのこと、他の使用人たちに聞きつけられないよう、声を抑えるのには苦労した。
「三の君様が怖かったのよ。皇子サマのお怒りを買ったら何があるか分からない。幸い、矛先は白家に向かっているし。おかしいと思った人もいるでしょうけど、口を噤んだのよ」
『長春君様は、私ども白家から来た者が宮から出ないように取り図られました。白家と通じることがないように、と。だから、どなたにお伝えすることもできませんで……』
繍栄は泣いて訴えたけれど、同情する気にはなれなかった。あの侍女は心から佳燕の身を案じ、哀れんで思い悩んで、けれど何もしなかったのだから。
『おひとりで、何日も……佳燕様はどれほどお心細くなさっているか……! 皇宮の建物の中ならしらず、庭までは呪も施されておりませんのに……!』
(私なら愚痴らず正面から怒るからね……あんたにも分からないんでしょうね)
怒りによってか呆れによってか、呟いたきり絶句する炎俊を、朱華はしみじみと眺めた。
朱華と炎俊の間なら、怒鳴り合いを交えながらも交渉はできる。朱華はしょせん偽者で無作法だから。お互いに秘密を抱えた特別な関係だから。でも、佳燕はそうではないらしい。だから──ここからが、また面倒なことになる。
「……だが、これで白妃の居場所は知れたということだな? 皓華宮の侍女たちは、そもそも知っていたのだろうが」
「ええ、三の君様に閉じ込められなかったら、自分たちで迎えに行っていたでしょうね」
「あてもなく白家に所縁の地を探すよりはよほど話が早い。今からでも白妃を捕らえてしまえば良いのだな」
(ああ、やっぱり……!)
捕らえる、という表現ひとつで、炎俊の思いは知れる。こいつは、ただただ面倒なことをさっさと片付けてしまいたいとしか思っていないのだ。佳燕さえ戻れば義理は果たしたとは、朱華にはとても思えないのに。
「でも……佳燕様はまた同じことをなさるかもよ? それじゃ解決にはならないわ」
「事情が分かれば、兄上もあちこち連れ回すようなことはなさるまい。ご自身の妃なのだからきちんと閉まっておいていただけば良い」
(そんなことを言うんじゃないかと思ってた!)
佳燕が自害するかも、などと言ってもこいつには無駄だろう。それを見張るのが夫の役目だから、で終わらせて。佳燕を連れ戻した後に何が起きたとしても、皓華宮の問題であって朱華たちには何の非もない、と。でも、それではあまりにも後味が悪い。
皓華宮で体調を損ねたフリをしながら、朱華はのたうち回る思いで考えたのだ。どうすれば、佳燕を本当に助けられるか。炎俊に面倒を納得させるか。まあ、結局はやってみなければ分からない、という結論に落ち着いたのだけど。
(まずは、こいつがどんな反応をするか、よね……)
「そうよね」
「だろう」
朱華が頷いたのを見て、炎俊の表情がわずかに緩んだ。また訳の分からない難癖をつけらずに済んたと思ったなら、まだ早い。朱華の本題は、まだこれからなのだから。
「じゃあ、逆にっていうか──佳燕様を星黎宮に隠してしまうのは? 三の君様に恩を売るのと、人質を取って引き下がっていただくのと、どっちが良いかしら?」
なるべくにこやかに、さりげなく。それでも不穏な単語を織り交ぜて朱華が首を傾げると、炎俊の目がわずかに見開かれた。
0
あなたにおすすめの小説
大正ロマン恋物語 ~将校様とサトリな私のお試し婚~
菱沼あゆ
キャラ文芸
華族の三条家の跡取り息子、三条行正と見合い結婚することになった咲子。
だが、軍人の行正は、整いすぎた美形な上に、あまりしゃべらない。
蝋人形みたいだ……と見合いの席で怯える咲子だったが。
実は、咲子には、人の心を読めるチカラがあって――。
本日、訳あり軍人の彼と結婚します~ド貧乏な軍人伯爵さまと結婚したら、何故か甘く愛されています~
扇 レンナ
キャラ文芸
政略結婚でド貧乏な伯爵家、桐ケ谷《きりがや》家の当主である律哉《りつや》の元に嫁ぐことになった真白《ましろ》は大きな事業を展開している商家の四女。片方はお金を得るため。もう片方は華族という地位を得るため。ありきたりな政略結婚。だから、真白は律哉の邪魔にならない程度に存在していようと思った。どうせ愛されないのだから――と思っていたのに。どうしてか、律哉が真白を見る目には、徐々に甘さがこもっていく。
(雇う余裕はないので)使用人はゼロ。(時間がないので)邸宅は埃まみれ。
そんな場所で始まる新婚生活。苦労人の伯爵さま(軍人)と不遇な娘の政略結婚から始まるとろける和風ラブ。
▼掲載先→エブリスタ、アルファポリス
※エブリスタさんにて先行公開しております。ある程度ストックはあります。
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
白苑後宮の薬膳女官
絹乃
キャラ文芸
白苑(はくえん)後宮には、先代の薬膳女官が侍女に毒を盛ったという疑惑が今も残っていた。先代は瑞雪(ルイシュエ)の叔母である。叔母の濡れ衣を晴らすため、瑞雪は偽名を使い新たな薬膳女官として働いていた。
ある日、幼帝は瑞雪に勅命を下した。「病弱な皇后候補の少女を薬膳で救え」と。瑞雪の相棒となるのは、幼帝の護衛である寡黙な武官、星宇(シンユィ)。だが、元気を取り戻しはじめた少女が毒に倒れる。再び薬膳女官への疑いが向けられる中、瑞雪は星宇の揺るぎない信頼を支えに、後宮に渦巻く陰謀へ踏み込んでいく。
薬膳と毒が導く真相、叔母にかけられた冤罪の影。
静かに心を近づける薬膳女官と武官が紡ぐ、後宮ミステリー。
香死妃(かしひ)は香りに埋もれて謎を解く
液体猫(299)
キャラ文芸
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞受賞しました(^_^)/
香を操り、死者の想いを知る一族がいる。そう囁かれたのは、ずっと昔の話だった。今ではその一族の生き残りすら見ず、誰もが彼ら、彼女たちの存在を忘れてしまっていた。
ある日のこと、一人の侍女が急死した。原因は不明で、解決されないまま月日が流れていき……
その事件を解決するために一人の青年が動き出す。その過程で出会った少女──香 麗然《コウ レイラン》──は、忘れ去られた一族の者だったと知った。
香 麗然《コウ レイラン》が後宮に現れた瞬間、事態は動いていく。
彼女は香りに秘められた事件を解決。ついでに、ぶっきらぼうな青年兵、幼い妃など。数多の人々を無自覚に誑かしていった。
テンパると田舎娘丸出しになる香 麗然《コウ レイラン》と謎だらけの青年兵がダッグを組み、数々の事件に挑んでいく。
後宮の闇、そして人々の想いを描く、後宮恋愛ミステリーです。
シリアス成分が少し多めとなっています。
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
芙蓉は後宮で花開く
速見 沙弥
キャラ文芸
下級貴族の親をもつ5人姉弟の長女 蓮花《リェンファ》。
借金返済で苦しむ家計を助けるために後宮へと働きに出る。忙しくも穏やかな暮らしの中、出会ったのは翡翠の色の目をした青年。さらに思いもよらぬ思惑に巻き込まれてゆくーーー
カクヨムでも連載しております。
男装官吏と花散る後宮〜禹国謎解き物語〜
春日あざみ
キャラ文芸
<第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。応援ありがとうございました!>
宮廷で史書編纂事業が立ち上がると聞き、居ても立ってもいられなくなった歴史オタクの柳羅刹(りゅうらせつ)。男と偽り官吏登用試験、科挙を受験し、見事第一等の成績で官吏となった彼女だったが。珍妙な仮面の貴人、雲嵐に女であることがバレてしまう。皇帝の食客であるという彼は、羅刹の秘密を守る代わり、後宮の悪霊によるとされる妃嬪の連続不審死事件の調査を命じる。
しかたなく羅刹は、悪霊について調べ始めるが——?
「歴女×仮面の貴人(奇人?)」が紡ぐ、中華風世界を舞台にしたミステリ開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる