炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~

悠井すみれ

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十章 琴瑟相和すか

2.佳燕の勇気

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 翰鷹皇子の態度は、炎俊にとっても不本意かつ不快なものだったのだろう。朱華が恐る恐る見上げる先で、整った眉が寄せられ、艶めいた唇が歪められた。

「私は納得したのではない。させられたのだ。ご自身の命でもって脅されたのをお忘れか? 決して、気分の良いなさりようではなかった」
「……ならば今度はそなたの命でもって脅そう。佳燕と離れるくらいならば、死罪を賜ろうとどうでも良い」

(あ、皇族も罪に問われるんだ……)

 緊張感に堪りかねて、朱華はそれこそどうでも良い情報を拾った。皇族殺しは、当の皇族にとってさえ死に値する大罪らしい。でも、今の翰鷹皇子にはそれさえ思いとどまる理由にならないのだ。

 紫薇が淹れてくれた茶が、ゆらりと宙に立ち上がった。炎俊を威嚇するように、薄緑色の半透明の竜が顎を開く。翰鷹皇子が、水竜の《力》で生み出したのだ。

「長春君様……」

(どうするの? 本当に大丈夫なの?)

 朱華が小さく呼びかけても、炎俊は見向きもしてくれなかった。

 水竜の《力》の使い手は、その気になれば茶の一杯でも人を殺すことができるのだと、先日、ほかならぬ翰鷹皇子が言っていた。命を奪われる前に殴り倒すか締め落とせば良いと、炎俊は言っていたのだけど。蔡弘毅の例からしても、闘神の《力》が可能にする身のこなしは確かに常人離れしているらしいのだけど。

「雪莉の命で、と言わないところは認めて差し上げよう。しかし愚かな真似をなさる。私を倒して白妃を連れて逃げる──そのようなことが可能とでも?」
「そなたは帝位を諦めまい。決して私を殺せぬならば、勝機もあろう。何、命を奪わぬまでも気を変えることができれば良いのだ」

 朱華の腰に回っていた炎俊の手が、離れた。男物とはいえ動き辛そうなかさ張る衣装の裾がさばかれて、沓が覗く。炎俊の眼差しさえも常になく鋭くて、水の竜の牙を掻い潜る隙を狙っているのだと分かってしまう。

(ほんとにやり合うの!? 星黎宮のど真ん中で!?)

 何をやっているんだ、と思うし、止めなければ、とも思う。でも、殺意としか思えない鋭い気配を放つ皇子ふたりに、朱華の身体はどこも言うことを聞いてくれない。

「長春君様! もうお止めください!」

 部屋に響いたのは、だから朱華のひび割れ引き攣った声ではなかった。もっと高く、より切実な恐怖を帯びた声の主は──

「佳燕!? そなた、何を……!?」

 肩を震わせて、両手を広げてふたりの皇子の間に割って入ったのは、それだけの勇気を振り絞ったのは、ひたすらか弱く儚げにしか見えなかった佳燕だった。

「佳燕……なぜ、炎俊を庇うのだ!?」

 翰鷹皇子が叫ぶと同時に、宙に浮いて牙を剥いていた竜が崩れ落ちた。もとの茶に戻って、床と卓に染みを作る。狂気じみた目つきで炎俊だけを睨んでいた翰鷹皇子が、今はおろおろと自身の妃に手を差し伸べている。

 多分、いつもなら躊躇いなく抱き寄せていたのだろうけど。恐らくは初めて、翰鷹皇子は佳燕に触れても良いものかどうか迷っていた。それだけ、佳燕が自らの意思を示す姿が意外だったのだろう。

「炎俊に何を言われた? 何をされた? そなたがどうして、このようなことを……!」

(あ、ダメかも……)

 けれど、あくまでも非を炎俊に求め、佳燕の意思を汲もうとしない翰鷹皇子を見て、朱華は内心でがっくりと肩を落とした。ここまで大掛かりな芝居を打っても、この方には大事なことがまだ何ひとつ伝わっていない。

(違うんです、佳燕様は炎俊に背を向けてまで貴方に諫言したいんです)

 佳燕は、炎俊を庇ってなどいない。天にも等しいと言われる皇族が《力》を尽くして争おうとする間に割って入るなど、生半可な覚悟でできることではない。簡単に自らの命を奪える相手に、無防備な姿を晒すことになるのだから。あの気弱で臆病な佳燕が、炎俊の前に飛び出ることができたのは──自らの身を顧みずに、夫に伝えたいことがあるからだ。

 でも、それを朱華が言っても仕方がない。朱華は、炎俊の妃だから。下手に口を挟めば、炎俊の手の者が佳燕を惑わし、翰鷹皇子を言いくるめようとしていると思われてしまう。

「待て、兄上。白妃を渡す訳には──」
「長春君様、お静かに。ここは、佳燕様にお任せしないと」

 無粋な口出しは、更にもってのほかだ。だから、朱華は炎俊の袖をそっと引いた。邪魔をされた炎俊が軽く睨んでくるけれど、知ったことか。佳燕の暴挙に、翰鷹皇子が気を呑まれたのは千載一遇の好機なのだ。この機を逃さず言いたいことを伝えてもらうのが良い。

(ほら、いつもみたいに甘いものでも食べてなさいよ)

「…………」

 無言のうちに菓子を口元に突き付けてやると、炎俊は何か奇妙な虫でも見つけたような目つきで朱華を眺めてから、おとなしくそれを齧り取った。糖蜜を絡めた胡桃が噛み砕かれる、カリカリという音が響くのを、佳燕と翰鷹皇子のやり取りが掻き消していく。

「わ、私は何も脅されてなどおりません……! 四の君様も雪莉様も、私を気遣ってくださいました。好きにして良いと仰ってくださいました!」
「そなたは白家に攫われて隠されていたのではなかったのか? 自ら出奔したというのは本当か? ……そなたの望みは、何なのだ……!?」
「長春君様……!」

 朱華の耳元で、かり、ぽり、という音が聞こえている。炎俊が、何かを諦めたように菓子を貪り始めているのだ。

「……これがそなたの芝居か? 狙い通りになったのか? 始めからふたりで話していれば済んだことだろうに」

 先ほどの意趣返しのように、朱華の口にも甘く硬い菓子が押し付けられた。口紅を落とさないように慎重に咥え、噛み砕き──呑み込んでから、朱華は答える。

「でも、佳燕様はおひとりでは三の君様にお伝えすることはできなかったでしょう。三の君様も、すぐにはお耳を傾けてはくださいませんでした」
「我らが骨を折る必要はあったのか? そなたはこれで満足なのか」

 皓華宮の夫婦の話は尽きないようで、手を握り合いながら何か語り合っている。傍にいる朱華も炎俊も目に入らないかのようだし、こちらとしても耳を傾けるのは憚られる。だから、こっちはこっちで話をしていても、聞かれることはないだろう。

「はい。皓華宮の方々にとって良い結果だったのはもちろんのこと、我が君様にとっても得難い教訓だったと思いますわ」
「教訓? 兄上にとっての、ではないのか? 私が改めるべきことなど何もないだろう」
「自らの心の裡さえ簡単には口に出すことができない者もいるということです。どうか御心に留めてくださいませ」

(ほんと、似た者同士の兄妹ね……)

 心の中で呆れながらも、朱華は辛抱強く小声を保った。声を上げられる者はそもそもそれなりに強いのだ、という知見は、人の上に立つ者にはあっても良い気がする。炎俊や翰鷹皇子の傲慢さを見た後ではなおさらだ。

「力なき者にも声はあります。そして、民のほとんどはそういう者たちですわ。その者たちの声をどのように聞き取るかは、大事なことかと存じます」
「ふむ……?」

 有象無象の民の声など聞く必要はない、とでも思ったのかもしれない。炎俊は軽く首を傾げた。だが、とでも言おうものなら、朱華の疲れはいや増していただろうけど──幸いに、炎俊が何か言うよりも、翰鷹皇子がこちらに向き直る方が早かった。
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