【完結】月よりきれい

悠井すみれ

文字の大きさ
9 / 32
二章 唐織の素顔

3.花びらの痣

しおりを挟む
 壁越しに、あるいは夜の風に乗って、ほかの見世や座敷から嬌声や笑い声が聞こえてくる。桜の季節は終わっても、吉原よしわらに漂う空気は、常に白粉おしろいや種々の香が入り交ざった華やかかつ艶めかしいものだ。

「俺と信乃が生まれたのは、陸奥国むつのくに会津あいづの、小さな村だ。人よりも鳥や獣のほうが多いような、本当に小さな──」

 そんな、誘う匂いを含んだ風を感じながら、故郷の寂れた景色を思い起こすのは不思議な気分だった。唐織からおりが、興味深げな色を目にたたえて聞き入る態度なのも信じがたい。

(田舎の話が、そんなに珍しいか……?)

 客を相手にした座敷ではないのだから、今、演技をする必要はないはずなのだが。──まあ、花魁の気まぐれなど、考えたところで分かるまい。清吾せいごとしては、請われるがままに昔話を語るだけだ。

「俺が十になったころだったかな。うちに、信乃しのの親父さんが駆け込んで来たんだ。信乃がまだ帰ってない、ってな」

 何も清吾が娘の居場所を知っていると期待されていた訳ではなかった。逢引あいびきをするには、さすがにふたりは幼すぎた。山で迷ったか沢に落ちたか、大事な働き手がいなくなるのは村にとっても大事で、だから探すための人手を求めたに過ぎなかった。事実、外に出て娘探しに加わったのは清吾の父だけで、幼い彼は家で大人しくしているように言い含められた。だが──

「信乃を誰より知っているのは俺だ、と思ったんだ。あいつは、俺がどこに隠れても見つけてくれたし──だから、俺の方でも、って」

 幼いころの思い上がりを懐かしく蘇らせて、清吾は続けた。子供は親の言いつけなど聞かないもの、弟妹たちの監督で手いっぱいの母親の目を盗んで、彼は家を忍び出たのだ。灯りなどなく、月と星の光だけが頼りだった。山に入った大人たちが携える松明たいまつが闇の中で動いて、鬼火のようだと思ったのを覚えている。信乃の名を呼ぶ彼らの声が、獣を追い払ってくれるだろうと自分に言い聞かせて、怖気づく足を動かしたのも。

 信乃は働きもので聞き分けの良い娘だった。そして闇を怖がる小心でもあったから、姿を隠して大人を脅かそうなどとは思わない。清吾はそう知っていた。だから、大声で呼ばれてもなお見つからぬのは、身動きが取れなくなっているのだろうと考えた。

「子供が行く場所は、子供が一番分かるもんだ。まきを拾うのもきのこ山菜さんさいを採るのも、仲の良い同士だけが知ってる穴場がある。で、立往生しそうな裂け目やら崖やらを考えて──」

 そうして、果たして清吾は信乃を見つけた。茸を取ろうと手を伸ばして足を滑らせたら、と想像した崖下に、泣きながらうずくまっているところを。暗闇の中で動く彼の気配が、狼にでも見えたのだろう、信乃が声にならない悲鳴を上げる気配がしたから、清吾はあえて明るく声を出した。

『信乃、やっぱりここさいたぁ』

 信乃が、日ごろ清吾を見つけた時の口調を真似て、悪戯に。すると相手は、なぜか泣きながら怒ったのだが。彼の腕の中に収まる温もり、胸を叩く小さな拳は愛しかった。それが愛しいという想いなのだと、清吾はその時知ったと思う。

「──なるほど。幼馴染の間柄にも、めというものはあるのでありんすなあ」
「馴れ初めと、言うほどでもないんだが」

 語り終えると、唐織はほう、と満足げな溜息を吐いた。例によって重い仕掛しかけかんざしの類を省いた気楽な格好とはいえ、相手は吉原よしわら随一の美女だ。そう大層な相槌を打つほどの話とは思えないのに。

「そうだ、思い出した」

 照れと戸惑いを隠すために、清吾はわざとらしく声を上げた。同時に、筆を取って吉原細見さいけんの余白に墨でを描く。

「信乃の右足には、花びらみたいなあざがあった。こんな感じの──」

 あの夜、足をくじいた信乃を背負って、清吾は村まで戻ったのだ。彼の目の前に突き出された足は白く、月と星の灯りで痣がはっきりと見えた。

「へえ──人に伝えれば手掛かりになりいすなあ」
「ああ。今まで忘れたのがおかしいくらいだ。花魁、あんたが昔話をせがんでくれたお陰だ」
「その痣とは、どの辺りでありんすか?」

 大事な手掛かりを思い出した高揚に、清吾は迷いなく着物の裾をめくっていた。言葉で答えるだけでは足りずに、自らの身体で示さなければと意気込んでいた、のだが──

「ふくらはぎの下のほう、くるぶし上あたりだ。ちょうど、このあたりに──」
「なるほど、これは床を共にせねば分かりいせんなあ」
「な、何すんだべ!?」

 唐織の指にふくらはぎを撫でられて、高い悲鳴を上げてしまう。国のなまりをあらわにしてしまったことも気恥ずかしくて、思わず口を押える。が、唐織は嘲る風もなくくすりと笑うだけだった。

「会津の言葉はかような響きでありんしたか。……お客の出自も色々ゆえ、気になさんすな」
「あ、ああ……すまん」
「謝ることはござんせん。心を開いてくれたようで、嬉しゅうござんすよ」

 素の言葉が出るのが胸襟きょうきんを開いた証なら、唐織の心は固く閉ざされたままのなのだろう。この女が操るのは、吉原だけで通じるくるわ言葉で、出自を窺わせはしないのだから。

(当たり前だ。互いの利のために、情人を演じているだけなんだから)

 客に対するようなあしらいをされた気がして、清吾は身勝手にも不満を感じた。信乃を思い出したばかりで、唐織の心に隔てがあるを詰ることができるはずもないのに。そもそも彼では客ですらないのに。なのに──つい、憎まれ口を叩いてしまう。

「あんたが訛りを話したら、客も喜ぶんだろうな」
「あい。それも手管のうちでござんすね。……例の常陸ひたちのお客も、たいそうなご満悦でありんした」
「……うん?」

 実のない言葉なのは分かっているぞ、とあて擦ったつもりなのに。思いのほかに悪びれずに頷かれて、清吾は首を傾げた。唐織が含みある笑みで匂わせたことを察すると、じわじわと驚きが込み上げる。

(常陸の客といえば……)

 唐織花魁は慈悲深いと、江戸市中でも評判になった、まさにその由来となった逸話のはずだ。かつて、故郷の訛りに慰められた唐織が、大成した後にその客と再会して、揚げ代を取るどころか恩返しに金子を包んだとかいう。女郎ながら天晴あっぱれと、もてはやされるのが唐織、なのだが。

 ゆっくりと見開かれる清吾の目を覗き込んで、唐織はさらに唇に三日月を描かせる。同じ笑うと言っても、様々に色も表情も変えるのがこの花魁だった。今度の笑みを語るなら──悪巧みが成功したのを知った時の、得意げなもの、だろうか。

「清さんもやはりご存知でありんしたか。わちきのことを慈悲深いの観音様だの、世間はたいそうな持ち上げようだとか。──すべて嘘、方便でありいすのに、ありがたいこと」
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

【完結】『江戸めぐり ご馳走道中 ~お香と文吉の東海道味巡り~』

月影 朔
歴史・時代
読めばお腹が減る!食と人情の東海道味巡り、開幕! 自由を求め家を飛び出した、食い道楽で腕っぷし自慢の元武家娘・お香。 料理の知識は確かだが、とある事件で自信を失った気弱な元料理人・文吉。 正反対の二人が偶然出会い、共に旅を始めたのは、天下の街道・東海道! 行く先々の宿場町で二人が出会うのは、その土地ならではの絶品ご当地料理や豊かな食材、そして様々な悩みを抱えた人々。 料理を巡る親子喧嘩、失われた秘伝の味、食材に隠された秘密、旅人たちの些細な揉め事まで―― お香の持ち前の豪快な行動力と、文吉の豊富な食の知識、そして二人の「料理」の力が、人々の閉ざされた心を開き、事件を解決へと導いていきます。時にはお香の隠された剣の腕が炸裂することも…!? 読めば目の前に湯気立つ料理が見えるよう! 香りまで伝わるような鮮やかな料理描写、笑いと涙あふれる人情ドラマ、そして個性豊かなお香と文吉のやり取りに、ページをめくる手が止まらない! 旅の目的は美味しいものを食べること? それとも過去を乗り越えること? 二人の絆はどのように深まっていくのか。そして、それぞれが抱える過去の謎も、旅と共に少しずつ明らかになっていきます。 笑って泣けて、お腹が空く――新たな食時代劇ロードムービー、ここに開幕! さあ、お香と文吉と一緒に、舌と腹で東海道五十三次を旅しましょう!

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...