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二章 唐織の素顔
2.ふたりの時間
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唐織が清吾を呼ぶのは、花魁が座敷に出ずに男と過ごしている、という体が必要だからというだけだ。錦屋の遣り手やら若い衆は、探りを入れる客たちにないことないこと告げるから、火のないところにも盛大に煙が立っていることだろうが。金持ちたちの嫉妬や対抗心を煽って操って貢がせるのが、花魁の手管の見せどころ、となるらしい。
唐織が客たちとどのようなやり取りをしているかは、清吾の知るところではない。錦屋のほかの座敷から、三味線の音や幇間の笑い声が響くのを遠く聞きながら、同じ部屋にただいるだけで、特に話すこともない。好きでもない男を相手にする煩わしさから逃れるための口実が、彼なのだ。馴れ馴れしく口を開いては、唐織も気が休まらないというものだろう。
だから、唐織が気楽な格好で絵草子をめくる唐織からはなるべく距離を取って、清吾は吉原細見を睨んでいる。筆を片手に、これまで当たった見世や、会った女の名を消し込んで次の目星をつけるのだ。
(信乃は、この中にいるのか、それともいないのか……)
それぞれの見世が抱える遊女の名や揚げ代を連ねた吉原細見も、吉原のすべての女を網羅している訳ではない。売られても遊女にならずに飯炊きなどの雑用に回される者もいる。そもそも既に死んでいれば、細見に載る道理がない。
(今はまだ時間が早い。どの見世をどう回るか、考えておかないとな)
信乃の行方を訪ねたいなら時と場合を選べ、と。唐織をはじめとした錦屋の者たちは清吾に助言してくれていた。深夜の引け四つ前は、座敷もまだ賑やかで、女郎が客の相手をしなければならないのはもちろん、見世の者も接待に忙しい。雨の夜に清吾が殴られたのはまさにそのころ合いだから、あの時の彼は本当に何も分かっていなかったのだ。
人の口が緩む隙があるとしたら──女郎が客と床に入った後、不寝番が暇を持て余したころ。あるいは、茶を挽いた女郎を慰める体で近づくか。そうでなければ、いっそ夜が明けた後、客を見送った女郎が二度寝から覚めたころを見計らえばまだ脈がある。
無論、ただの客がうろつくのは不自然な時間になる。だからこそ錦屋を拠点にできるのは願ってもない話なのだ。と、細見に並ぶ女の名を追いながらも、清吾の考えはまた同じところを巡り始めるのだが──
「首尾は、いかがでありんすか?」
「わ──」
不意に、甘い声が耳をくすぐって、清吾は蛙のような勢いで飛び退っていた。一瞬にしてばくばくと煩く鳴る心の臓を抑えていると、唐織がおかしそうに口元に手を当てて笑っていた。薄化粧の癖にやけに艶やかな唇が、また近い。唐織は、いつの間にか清吾のすぐ傍にいざって、彼の手元を覗いていた。
「しゅび──いや、首尾と言えるようなことは、何も」
「若い衆にも聞かせておりいすが。吉原では女は化けるゆえ、難しいのでありんしょうなあ」
しどろもどろに答える清吾にごく軽く相槌を打って、唐織は細見の紙面を指先でなぞる。彼女にとっては有象無象に等しいであろう、小見世の遊女たちの名を。整った爪の先が、頁を抑える清吾の手に触れる──と思った瞬間に、けれど象牙から彫り出したような白い指は、気まぐれに去っていく。清吾の期待というか緊張を、あざ笑うような軽やかな動きだった。
そして、花魁の気まぐれはまだ終わっていないようだった。読んでいたはずの絵草子は部屋の隅に放ったまま、唐織は清吾のほうへ身体を傾け、上目遣いに問いかけてくる。
「信乃とは、どんな娘でありんした?」
「どんなと、言ってもな……ただの田舎娘だよ。……あんたとは、違って」
褒め言葉を強請ろうとしているのか、と思いかけて、自身の自惚れに呆れかえる。わざわざ清吾に擦り寄らずとも、唐織ならばもっと気の利いた言葉を飽きるほどに浴びせられているはずだ。
「ただの田舎娘に、かように入れ込むはずはありいせん。よほど見目か気立てが良いのか、働き者なのか──あやかりたいものと、思いいしてなあ」
ならば、唐織は彼を揶揄おうとしているのだろう。作りごとの絵草子よりも、生身の人間の色恋沙汰──なのかどうかは清吾自身にも分からないのだが──のほうが面白いと思うのかもしれない。
(花魁なのに……いや、だからこそ、なのか?)
笑顔ひとつで千金を動かす花魁のことだ。日ごろ接する客も当然のように金持ちや物持ちばかり、惚れた腫れたの話も、何というか洗練された雅なものなのだろう。たったひとりで額に汗して人探しに励む──そんな愚直さは、かえって物珍しいのだろうか。
「田舎娘なんだ、本当に。ただ──昔馴染みってやつは特別なものだろう。色々知ってるから、それで……それだけだ」
それなら、過ぎた厚意の恩返しに語ってやろう。美食に舌の驕った花魁に、塩気だけの握り飯を出すようなものではあるが。たまにはそんな趣向も良いかもしれない。
「こいつと一緒になるんだ、って思ったことは、あったな。あんたが面白いと思うかは分からないが──」
清吾にとっても、遠い彼方に薄れてしまった信乃の記憶を掘り起こすのは、愛しく温かい思いがするのだ。
唐織が客たちとどのようなやり取りをしているかは、清吾の知るところではない。錦屋のほかの座敷から、三味線の音や幇間の笑い声が響くのを遠く聞きながら、同じ部屋にただいるだけで、特に話すこともない。好きでもない男を相手にする煩わしさから逃れるための口実が、彼なのだ。馴れ馴れしく口を開いては、唐織も気が休まらないというものだろう。
だから、唐織が気楽な格好で絵草子をめくる唐織からはなるべく距離を取って、清吾は吉原細見を睨んでいる。筆を片手に、これまで当たった見世や、会った女の名を消し込んで次の目星をつけるのだ。
(信乃は、この中にいるのか、それともいないのか……)
それぞれの見世が抱える遊女の名や揚げ代を連ねた吉原細見も、吉原のすべての女を網羅している訳ではない。売られても遊女にならずに飯炊きなどの雑用に回される者もいる。そもそも既に死んでいれば、細見に載る道理がない。
(今はまだ時間が早い。どの見世をどう回るか、考えておかないとな)
信乃の行方を訪ねたいなら時と場合を選べ、と。唐織をはじめとした錦屋の者たちは清吾に助言してくれていた。深夜の引け四つ前は、座敷もまだ賑やかで、女郎が客の相手をしなければならないのはもちろん、見世の者も接待に忙しい。雨の夜に清吾が殴られたのはまさにそのころ合いだから、あの時の彼は本当に何も分かっていなかったのだ。
人の口が緩む隙があるとしたら──女郎が客と床に入った後、不寝番が暇を持て余したころ。あるいは、茶を挽いた女郎を慰める体で近づくか。そうでなければ、いっそ夜が明けた後、客を見送った女郎が二度寝から覚めたころを見計らえばまだ脈がある。
無論、ただの客がうろつくのは不自然な時間になる。だからこそ錦屋を拠点にできるのは願ってもない話なのだ。と、細見に並ぶ女の名を追いながらも、清吾の考えはまた同じところを巡り始めるのだが──
「首尾は、いかがでありんすか?」
「わ──」
不意に、甘い声が耳をくすぐって、清吾は蛙のような勢いで飛び退っていた。一瞬にしてばくばくと煩く鳴る心の臓を抑えていると、唐織がおかしそうに口元に手を当てて笑っていた。薄化粧の癖にやけに艶やかな唇が、また近い。唐織は、いつの間にか清吾のすぐ傍にいざって、彼の手元を覗いていた。
「しゅび──いや、首尾と言えるようなことは、何も」
「若い衆にも聞かせておりいすが。吉原では女は化けるゆえ、難しいのでありんしょうなあ」
しどろもどろに答える清吾にごく軽く相槌を打って、唐織は細見の紙面を指先でなぞる。彼女にとっては有象無象に等しいであろう、小見世の遊女たちの名を。整った爪の先が、頁を抑える清吾の手に触れる──と思った瞬間に、けれど象牙から彫り出したような白い指は、気まぐれに去っていく。清吾の期待というか緊張を、あざ笑うような軽やかな動きだった。
そして、花魁の気まぐれはまだ終わっていないようだった。読んでいたはずの絵草子は部屋の隅に放ったまま、唐織は清吾のほうへ身体を傾け、上目遣いに問いかけてくる。
「信乃とは、どんな娘でありんした?」
「どんなと、言ってもな……ただの田舎娘だよ。……あんたとは、違って」
褒め言葉を強請ろうとしているのか、と思いかけて、自身の自惚れに呆れかえる。わざわざ清吾に擦り寄らずとも、唐織ならばもっと気の利いた言葉を飽きるほどに浴びせられているはずだ。
「ただの田舎娘に、かように入れ込むはずはありいせん。よほど見目か気立てが良いのか、働き者なのか──あやかりたいものと、思いいしてなあ」
ならば、唐織は彼を揶揄おうとしているのだろう。作りごとの絵草子よりも、生身の人間の色恋沙汰──なのかどうかは清吾自身にも分からないのだが──のほうが面白いと思うのかもしれない。
(花魁なのに……いや、だからこそ、なのか?)
笑顔ひとつで千金を動かす花魁のことだ。日ごろ接する客も当然のように金持ちや物持ちばかり、惚れた腫れたの話も、何というか洗練された雅なものなのだろう。たったひとりで額に汗して人探しに励む──そんな愚直さは、かえって物珍しいのだろうか。
「田舎娘なんだ、本当に。ただ──昔馴染みってやつは特別なものだろう。色々知ってるから、それで……それだけだ」
それなら、過ぎた厚意の恩返しに語ってやろう。美食に舌の驕った花魁に、塩気だけの握り飯を出すようなものではあるが。たまにはそんな趣向も良いかもしれない。
「こいつと一緒になるんだ、って思ったことは、あったな。あんたが面白いと思うかは分からないが──」
清吾にとっても、遠い彼方に薄れてしまった信乃の記憶を掘り起こすのは、愛しく温かい思いがするのだ。
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