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二章 唐織の素顔
1.泥濘
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足しげく吉原に通う清吾のことを、大工仲間の多くは好奇の目で見てきた。これまでは悪所通いとは無縁だった彼のこと、女郎の手練手管に騙されていると案じる者もいるらしい。柄にもなく色気づいて云々と、冷やかすような案じるような声が届く機会も、増えた。
「清吾、そりゃあ恋文か。隅に置けねえじゃないか」
噂の真偽を確かめたくてうずうずしていたのだろう、唐織からの文を広げる清吾の手元を覗き込んで、仲間のひとりが冗談交じりに毒づいた。
「そんなんじゃねえよ」
素早く文を身体の影に隠しながら、清吾はさらりと応じる。
商家の蔵の建て替えということで、早朝からの仕事が一段落つき、昼時の休憩の時だった。思い思いに弁当なり握り飯なりを広げていたところだから、逃げ隠れし辛い。というか、相手もそれを狙って話しかけてきたのだろうが。
「廓勤めの昔馴染みを探してるだけだ。事情を話したら、助けてくれるって御仁がいてな」
しかたなく口にしたのは、事情を詮索してきた者に対しては、もはや馴染みの説明だった。誤解の余地なく、邪推を止めさせる力もある。茶化すのを止めて、同情したり励ましたりしてくれた者もいる。だが、今日の相手は引き下がらず、下卑た笑みを深めて肘で清吾の脇腹を突いてきた。
「じゃあ、なおさら隅に置けねえな」
「なんでだよ」
「しがない大工に無料で手助けなんてあり得ねえ。で、お前が金を持ってるはずもなし、その女はお前に惚れてるんだろう」
得意げに語る推量は、途中まではまあ頷かざるを得なかったが。だが、最後の最後で盛大に的を外すものだから、清吾は苦笑してしまう。
「女と決まった訳じゃないだろう。廓にも男は意外といるぞ」
「男からの文で、そうしまりのない顔をするかよ」
相手が文に手を伸ばそうとしたのを避けて、清吾は立ち上がった。文面こそ素っ気なく呼び出すだけのものだが、手跡は確かに水茎の跡もうるわしい女のそれ。花魁の直筆の文を見られたら、何を言われるか分かったものではない。
「目が曇ってるんじゃねえか。老眼には早いだろうによ」
「何だと」
憎まれ口は気安い間だからこそ、相手が拳を握るのも振りだけだ。そろそろ仕事に戻る時間でもあり、この話はこれで終わるだろう。
だから──清吾は、手を頬に伸ばしたくなる衝動を必死に堪えた。
(しまりがない、だと? そんな、まさか)
傍から見れば、図星を指されて照れているようにしか見えないだろう。それに、清吾自身も信じがたく認めがたい。彼が吉原に足を向けるのは、断じて遊里の快楽に興じるためでがない。唐織に会うためでもない。あの女の美しさを認めはしても、焦がれたりはするものか。
清吾が想うのは、絢爛な衣装に身を包み、贅に驕る花魁ではない。不夜城の輝きの下に、いっそう昏く落ちる影、その中で喘いでいるであろう信乃をこそ、彼は求めているというのに。
* * *
仲の町通りの桜並木が取り払われても、吉原に人の波が絶えることはない。むしろ、花見の間は茶屋も廓も代金が割り増しになるから、女目当ての客は行事のない時期のほうが得なのだとか。唐織を訪ねて錦屋に通ううち、顔なじみになった若い衆に教えられたことだ。
『ま、花魁の気を惹くならあえて高い揚げ代を払わなきゃ話にならねえがね』
大見世に勤める者だからといって花魁に縁があるということでもなく、彼らも大方は安い河岸見世の世話になるのだとか。……つまりは、知らぬうちに信乃の客になっているかもしれないということだ。その事実を頭から追いやることさえできれば、彼らは清吾の人探しに協力してくれてもいた。敵娼に、同輩の故郷や年をそれとなく聞いたりして。
(廓の者も、皆が皆、女を食い物にしている訳じゃない……話せば気の良い奴もいる)
清掻の三味線の音を聞きながら、笑い浮かれる男女の隙間を縫って歩きながら、清吾の胸は浮き沈みする。唐織と出会った夜とは違って空は晴れて月が輝き、足もとは確かなはずなのに。一歩ごとに、足を泥濘に取られる心地がする。
薄暗く汚れた河岸見世から目を背け、錦屋──大見世の総籬に入る後ろめたさが、清吾を迷わせる。唐織ほどでなくても、紅い格子の中に座る女郎たちは誰も彼も美しく艶めかしく輝いている。
(信乃。お前は今、どこで何をやっている?)
これは果たして、信乃を探すための最善の手なのかどうか。苦界に沈んだ女を助けるために、その苦界の頂点に君臨する女の手を借りるのは正しいことなのか。信乃と再会できたとして、胸を張って誇れるのか。昼間、仲間に語ったことに嘘はないと誓えるか。
(……俺の力には限りがある。意地を張ったところで利はない)
錦屋の二階に上がり、最奥の唐織の座敷に至るまでに、彼自身に言い聞かせる。恥を忍んでも唐織の、かりそめの情人に甘んじるのが賢い手なのだと。彼はあくまでも信乃のために動いている。幼いころに交わした言葉、目蓋に刻んだ笑顔を思い出せば、そうに違いないと信じられる。だが──
「清さん。待っておりいしたよ」
唐織の笑みに迎えられる度、清吾は深い沼に嵌った、と思うのだ。この女の笑顔を美しいと思ってしまうから。方便でも演技でも、親しげな言葉に喜んでしまうから。
「清吾、そりゃあ恋文か。隅に置けねえじゃないか」
噂の真偽を確かめたくてうずうずしていたのだろう、唐織からの文を広げる清吾の手元を覗き込んで、仲間のひとりが冗談交じりに毒づいた。
「そんなんじゃねえよ」
素早く文を身体の影に隠しながら、清吾はさらりと応じる。
商家の蔵の建て替えということで、早朝からの仕事が一段落つき、昼時の休憩の時だった。思い思いに弁当なり握り飯なりを広げていたところだから、逃げ隠れし辛い。というか、相手もそれを狙って話しかけてきたのだろうが。
「廓勤めの昔馴染みを探してるだけだ。事情を話したら、助けてくれるって御仁がいてな」
しかたなく口にしたのは、事情を詮索してきた者に対しては、もはや馴染みの説明だった。誤解の余地なく、邪推を止めさせる力もある。茶化すのを止めて、同情したり励ましたりしてくれた者もいる。だが、今日の相手は引き下がらず、下卑た笑みを深めて肘で清吾の脇腹を突いてきた。
「じゃあ、なおさら隅に置けねえな」
「なんでだよ」
「しがない大工に無料で手助けなんてあり得ねえ。で、お前が金を持ってるはずもなし、その女はお前に惚れてるんだろう」
得意げに語る推量は、途中まではまあ頷かざるを得なかったが。だが、最後の最後で盛大に的を外すものだから、清吾は苦笑してしまう。
「女と決まった訳じゃないだろう。廓にも男は意外といるぞ」
「男からの文で、そうしまりのない顔をするかよ」
相手が文に手を伸ばそうとしたのを避けて、清吾は立ち上がった。文面こそ素っ気なく呼び出すだけのものだが、手跡は確かに水茎の跡もうるわしい女のそれ。花魁の直筆の文を見られたら、何を言われるか分かったものではない。
「目が曇ってるんじゃねえか。老眼には早いだろうによ」
「何だと」
憎まれ口は気安い間だからこそ、相手が拳を握るのも振りだけだ。そろそろ仕事に戻る時間でもあり、この話はこれで終わるだろう。
だから──清吾は、手を頬に伸ばしたくなる衝動を必死に堪えた。
(しまりがない、だと? そんな、まさか)
傍から見れば、図星を指されて照れているようにしか見えないだろう。それに、清吾自身も信じがたく認めがたい。彼が吉原に足を向けるのは、断じて遊里の快楽に興じるためでがない。唐織に会うためでもない。あの女の美しさを認めはしても、焦がれたりはするものか。
清吾が想うのは、絢爛な衣装に身を包み、贅に驕る花魁ではない。不夜城の輝きの下に、いっそう昏く落ちる影、その中で喘いでいるであろう信乃をこそ、彼は求めているというのに。
* * *
仲の町通りの桜並木が取り払われても、吉原に人の波が絶えることはない。むしろ、花見の間は茶屋も廓も代金が割り増しになるから、女目当ての客は行事のない時期のほうが得なのだとか。唐織を訪ねて錦屋に通ううち、顔なじみになった若い衆に教えられたことだ。
『ま、花魁の気を惹くならあえて高い揚げ代を払わなきゃ話にならねえがね』
大見世に勤める者だからといって花魁に縁があるということでもなく、彼らも大方は安い河岸見世の世話になるのだとか。……つまりは、知らぬうちに信乃の客になっているかもしれないということだ。その事実を頭から追いやることさえできれば、彼らは清吾の人探しに協力してくれてもいた。敵娼に、同輩の故郷や年をそれとなく聞いたりして。
(廓の者も、皆が皆、女を食い物にしている訳じゃない……話せば気の良い奴もいる)
清掻の三味線の音を聞きながら、笑い浮かれる男女の隙間を縫って歩きながら、清吾の胸は浮き沈みする。唐織と出会った夜とは違って空は晴れて月が輝き、足もとは確かなはずなのに。一歩ごとに、足を泥濘に取られる心地がする。
薄暗く汚れた河岸見世から目を背け、錦屋──大見世の総籬に入る後ろめたさが、清吾を迷わせる。唐織ほどでなくても、紅い格子の中に座る女郎たちは誰も彼も美しく艶めかしく輝いている。
(信乃。お前は今、どこで何をやっている?)
これは果たして、信乃を探すための最善の手なのかどうか。苦界に沈んだ女を助けるために、その苦界の頂点に君臨する女の手を借りるのは正しいことなのか。信乃と再会できたとして、胸を張って誇れるのか。昼間、仲間に語ったことに嘘はないと誓えるか。
(……俺の力には限りがある。意地を張ったところで利はない)
錦屋の二階に上がり、最奥の唐織の座敷に至るまでに、彼自身に言い聞かせる。恥を忍んでも唐織の、かりそめの情人に甘んじるのが賢い手なのだと。彼はあくまでも信乃のために動いている。幼いころに交わした言葉、目蓋に刻んだ笑顔を思い出せば、そうに違いないと信じられる。だが──
「清さん。待っておりいしたよ」
唐織の笑みに迎えられる度、清吾は深い沼に嵌った、と思うのだ。この女の笑顔を美しいと思ってしまうから。方便でも演技でも、親しげな言葉に喜んでしまうから。
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