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二章 唐織の素顔
5.菖蒲と八橋
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四月が終わりに近づいても信乃の行方は掴めず、清吾は錦屋を──ひいては唐織を訪ねる日々を続けている。客でも使用人でもない立場は互いに気まずく、近ごろでは雑用を頼まれるようにもなっていた。要は、より馴染んで深い関わり合いになっているとも言える。信乃を余所に馴れ合っているのか、信乃を探すためにこそ吉原に入り込んでいるのか、迷いは尽きないが答えは出ないままだ。
今日の清吾は、錦屋の中庭の池で、膝まで水に漬かっていた。彼の本業が大工だと知った見世の者が、端午の花菖蒲の季節に備えて、八橋を設えたいと持ちかけられたのだ。自らの技で日ごろの礼ができるとなれば清吾にも否やはなく、見世の出入りの庭師と一緒に木材に向かい合っているところだった。
「上手いもんだな。木が水を弾いてるじゃねえか」
「これくらいはできねえとな。親方に殴られちまう」
これまでは、彼らの手でこうした四季折々の設えに対応してきたのだろう、庭師といっても木を削ったり切ったりの目利きもできるようだ。鉋かけの出来を褒められて、清吾の機嫌も初夏の晴天と同じく上々だった。
(しかしまあ、贅沢なことだ、吉原の大見世というところは……)
昼の光に聳える錦屋の二階建ての建物を見上げて、清吾は目を細めた。唐織の部屋にたびたび招かれていれば、襖絵や掛け軸、生け花の類の調度が季節に従っていちいち変わるのにはさすがに気付く。唐織とのやり取りの端々で、客に貢がせて整える場合も多いのだとも、分かる。
それだけでも、大名屋敷でもそうそう叶わない奢侈ではないかと思うのに、さらに庭の造りまでごく気楽に変えるのだから呆れた話だ。それだけ客の目も肥えているし、常に目新しい趣向が必要だということでもあるのだろうが。
早朝から作業を始めて数刻、昼見世が始まる正午近くには、池を渡る稲妻状の形の八橋はほぼ形になっていた。今はわずかに草葉の緑が水面から覗くだけの寂しい風景だが、三月の桜並木のように、ほど良いころに花菖蒲を植えてやれば良い。それは庭師の領分だ。
清吾がずっと屈めていた腰を正して、伸びをした時──けれど、まだ咲いていないはずの紫の彩が輝いた。同時に、艶のある声が響いて緑滴る初夏の中庭にいっそうの華を添える。
「これで、菖蒲の季節がますます楽しみになりんしたなあ」
「おっ、ひと足早く見事な菖蒲ですなあ、花魁」
菖蒲の裾模様も鮮やかな着物をまとった唐織が現れたのだ。揃いの模様の振袖新造のさらさを従えて、できたばかりの八橋を渡るその姿は、庭師が素早く追従した通り、菖蒲の花を先取りしたかのような美しさだった。
唐織は、称賛を当然のこととしてわずかに口の端を持ち上げただけだった。それこそ花咲くように、嬉しそうに笑顔をほころばせたのは、妹分のさらさのほうだ。
「和泉屋様からの貢物でござんすよ。姉さんには紫がよく映えること」
「五月に菖蒲とは、まったくつまらぬ趣向ではありんすが」
和泉屋とは、唐織が評したところの例の退屈な客だ。錦屋に出入りするうち、やはり札差なのだと聞いた。武家相手の金貸しとなれば羽振りが良いのも当然のこと、唐織に対しても帯やら着物やら頻繁に貢いでいるようだった。
(勝手に贈られたものだから、必ず感謝しろとも言いづらい、のか……?)
とはいえ、贅沢な話で、高慢なもの言いではある。
清吾にしてみれば、五月に菖蒲の模様の着物を仕立てるのはしごく当然のことと思えるのに、花魁ともなると手厳しいものだ。
さらさにとっても意外なのか、愛らしい顔立ちの娘は驚きに大きく目を見開いた。
「ま、姉さん。かような惚気を仰えして」
親しみゆえに、ついつい下げたもの言いをしてしまうのだ、と。若い割にはなかなか気の利いた相槌ではあったが、唐織は満足しないようだった。いまだ池に留まっていた清吾の目の前で、菖蒲の着物の裾が翻る。唐織が、素早く鋭く振り向いて、妹分に食ってかかったのだ。
「惚気などではありいせん。……姉さんの高田屋様に比べれば、どうにも見劣りする御方……!」
知らぬ名前に瞬きする清吾に、庭師がそっと耳打ちしてくれる。大見世に出入りするからか、目敏い質であるようだ。
「高田屋様は、先代の唐織花魁を身請けした札差だ。花魁への入れ込みようは、和泉屋様とご同様だったが──ご趣味というか遊び方は、まああちらのほうが──」
「はあ、なるほど……」
和泉屋という上客は、唐織を身請けしようと熱を上げているらしい。それもまた、錦屋に出入りしていれば自然と耳に入る話だった。財力の面では申し分ない話なのに、唐織は喜んでいないというのも、本人は言わずとも聞こえている。
(同じ札差だけに、姉貴分の客と比べてしまうのか)
当代の唐織が、先代の姉貴分を深く尊敬しているようなのは、すでに聞いた。同じ御職の花魁となった今は、憧れだけでなく対抗心も芽生えるらしい。難儀なことだ、と思いながら──清吾の目は、眼前を過ぎる女の足に吸い寄せられていた。池の中の彼からは、八橋を渡る唐織たちの足がごく自然に目に入る。
素足に下駄をつっかけた、白い足──着物に描かれた菖蒲の、色濃く鮮やかな緑と紫にいっそう映える。もしやそこに、花びらの形の痣はないかと、追ってしまうのだ。
(唐織花魁は、常陸の出ではない……)
先日の昔語りから、思いついてしまったことが頭から離れないのだ。世間の噂と違って、唐織の出自がどこかは分からない。ならば、彼や──信乃と同じ、会津であることも、まったくないとは言い切れない。
もしも、唐織こそが信乃だったとしたら。
あり得ないからこそ、甘美な妄想だった。
もしもそうなら、清吾が骨を折る必要は何もないのだ。彼の幼馴染は、美しく強かに成長して、豪奢な着物を纏って暮らしている。先々の心配も何ひとつなく、裕福な男のもとで大切に守られるのだろう。生涯を共にできずとも、相手の幸せを見届けることができたなら、それで十分だと思えるだろうに。
清吾が見上げる先で、唐織とさらさは言い合いを続けている。さらさは、姉花魁に逆らって、必死に「良いこと」を数え上げているようだった。
「姉さんの身請けに、和泉屋様は金を惜しまぬご所存とか。二代続けてさぞや豪気な見送りの儀になりんしょう。わちきもあやかりたいものでございんす」
「あやかるほどのものだかどうか……! 身請けなど、しょせんはひとりの男に買い切られるだけのものでありんすに。──年季明けを待つ男でも居たほうが、よほど幸せでありんしょう」
苛立ち紛れに吐き捨てて、唐織はふいと視線を池のほうに逸らした。すなわち、清吾がいるほうへ。捨て鉢な、すさんだ色の視線を受け止めることになって、清吾は思わず俯いてしまう。身請けされるのは女郎にとっては幸せと、勝手な考えを見透かされて咎められたように感じたのだ。
好んで嘘を重ねる訳ではないと、言われていたのにこの様だ。池の底の泥に足を取られるまま、沈み込みたい思いにもなる。
幸か不幸か、清吾が唐織に声をかける必要は、なかった。建物から現れた禿が、おずおずと唐織に呼び掛けたのだ。
「あの、花魁。和泉屋様がご登楼でありんすが」
「ああ、噂をすれば何とやら。お早いお着きで──」
唐織の不機嫌は、これから気に入らぬ客を迎えるためでもあったようだ。そして、溜息が聞こえるほどに早く登楼する辺り、和泉屋とやらは確かに無粋な男ではあるのかもしれない。そのように、清吾は合点しかけたのだが──
「わちきが、情人と逢瀬の最中だとでも邪推なさんしたのでありんしょうなあ」
「は?」
不意に水を向けられて、目を剥くことになった。そういえば、彼は唐織の情人ということになっていた。和泉屋は、体よく嫉妬を煽られている、ということなのか。
「それは……本当に邪推だな」
「ほんに。主は和泉屋様の目に留まらぬほうが良い──こっそりと、湯を使ってからお帰りなんせ」
清吾に勧める唐織の声音はあっさりとしたもので、情人に対してあるべき名残惜しさなど、欠片もないのに。何も知らぬ和泉屋は愚かだし、理不尽に寂しさを感じる清吾はなお愚かなのだろう。
今日の清吾は、錦屋の中庭の池で、膝まで水に漬かっていた。彼の本業が大工だと知った見世の者が、端午の花菖蒲の季節に備えて、八橋を設えたいと持ちかけられたのだ。自らの技で日ごろの礼ができるとなれば清吾にも否やはなく、見世の出入りの庭師と一緒に木材に向かい合っているところだった。
「上手いもんだな。木が水を弾いてるじゃねえか」
「これくらいはできねえとな。親方に殴られちまう」
これまでは、彼らの手でこうした四季折々の設えに対応してきたのだろう、庭師といっても木を削ったり切ったりの目利きもできるようだ。鉋かけの出来を褒められて、清吾の機嫌も初夏の晴天と同じく上々だった。
(しかしまあ、贅沢なことだ、吉原の大見世というところは……)
昼の光に聳える錦屋の二階建ての建物を見上げて、清吾は目を細めた。唐織の部屋にたびたび招かれていれば、襖絵や掛け軸、生け花の類の調度が季節に従っていちいち変わるのにはさすがに気付く。唐織とのやり取りの端々で、客に貢がせて整える場合も多いのだとも、分かる。
それだけでも、大名屋敷でもそうそう叶わない奢侈ではないかと思うのに、さらに庭の造りまでごく気楽に変えるのだから呆れた話だ。それだけ客の目も肥えているし、常に目新しい趣向が必要だということでもあるのだろうが。
早朝から作業を始めて数刻、昼見世が始まる正午近くには、池を渡る稲妻状の形の八橋はほぼ形になっていた。今はわずかに草葉の緑が水面から覗くだけの寂しい風景だが、三月の桜並木のように、ほど良いころに花菖蒲を植えてやれば良い。それは庭師の領分だ。
清吾がずっと屈めていた腰を正して、伸びをした時──けれど、まだ咲いていないはずの紫の彩が輝いた。同時に、艶のある声が響いて緑滴る初夏の中庭にいっそうの華を添える。
「これで、菖蒲の季節がますます楽しみになりんしたなあ」
「おっ、ひと足早く見事な菖蒲ですなあ、花魁」
菖蒲の裾模様も鮮やかな着物をまとった唐織が現れたのだ。揃いの模様の振袖新造のさらさを従えて、できたばかりの八橋を渡るその姿は、庭師が素早く追従した通り、菖蒲の花を先取りしたかのような美しさだった。
唐織は、称賛を当然のこととしてわずかに口の端を持ち上げただけだった。それこそ花咲くように、嬉しそうに笑顔をほころばせたのは、妹分のさらさのほうだ。
「和泉屋様からの貢物でござんすよ。姉さんには紫がよく映えること」
「五月に菖蒲とは、まったくつまらぬ趣向ではありんすが」
和泉屋とは、唐織が評したところの例の退屈な客だ。錦屋に出入りするうち、やはり札差なのだと聞いた。武家相手の金貸しとなれば羽振りが良いのも当然のこと、唐織に対しても帯やら着物やら頻繁に貢いでいるようだった。
(勝手に贈られたものだから、必ず感謝しろとも言いづらい、のか……?)
とはいえ、贅沢な話で、高慢なもの言いではある。
清吾にしてみれば、五月に菖蒲の模様の着物を仕立てるのはしごく当然のことと思えるのに、花魁ともなると手厳しいものだ。
さらさにとっても意外なのか、愛らしい顔立ちの娘は驚きに大きく目を見開いた。
「ま、姉さん。かような惚気を仰えして」
親しみゆえに、ついつい下げたもの言いをしてしまうのだ、と。若い割にはなかなか気の利いた相槌ではあったが、唐織は満足しないようだった。いまだ池に留まっていた清吾の目の前で、菖蒲の着物の裾が翻る。唐織が、素早く鋭く振り向いて、妹分に食ってかかったのだ。
「惚気などではありいせん。……姉さんの高田屋様に比べれば、どうにも見劣りする御方……!」
知らぬ名前に瞬きする清吾に、庭師がそっと耳打ちしてくれる。大見世に出入りするからか、目敏い質であるようだ。
「高田屋様は、先代の唐織花魁を身請けした札差だ。花魁への入れ込みようは、和泉屋様とご同様だったが──ご趣味というか遊び方は、まああちらのほうが──」
「はあ、なるほど……」
和泉屋という上客は、唐織を身請けしようと熱を上げているらしい。それもまた、錦屋に出入りしていれば自然と耳に入る話だった。財力の面では申し分ない話なのに、唐織は喜んでいないというのも、本人は言わずとも聞こえている。
(同じ札差だけに、姉貴分の客と比べてしまうのか)
当代の唐織が、先代の姉貴分を深く尊敬しているようなのは、すでに聞いた。同じ御職の花魁となった今は、憧れだけでなく対抗心も芽生えるらしい。難儀なことだ、と思いながら──清吾の目は、眼前を過ぎる女の足に吸い寄せられていた。池の中の彼からは、八橋を渡る唐織たちの足がごく自然に目に入る。
素足に下駄をつっかけた、白い足──着物に描かれた菖蒲の、色濃く鮮やかな緑と紫にいっそう映える。もしやそこに、花びらの形の痣はないかと、追ってしまうのだ。
(唐織花魁は、常陸の出ではない……)
先日の昔語りから、思いついてしまったことが頭から離れないのだ。世間の噂と違って、唐織の出自がどこかは分からない。ならば、彼や──信乃と同じ、会津であることも、まったくないとは言い切れない。
もしも、唐織こそが信乃だったとしたら。
あり得ないからこそ、甘美な妄想だった。
もしもそうなら、清吾が骨を折る必要は何もないのだ。彼の幼馴染は、美しく強かに成長して、豪奢な着物を纏って暮らしている。先々の心配も何ひとつなく、裕福な男のもとで大切に守られるのだろう。生涯を共にできずとも、相手の幸せを見届けることができたなら、それで十分だと思えるだろうに。
清吾が見上げる先で、唐織とさらさは言い合いを続けている。さらさは、姉花魁に逆らって、必死に「良いこと」を数え上げているようだった。
「姉さんの身請けに、和泉屋様は金を惜しまぬご所存とか。二代続けてさぞや豪気な見送りの儀になりんしょう。わちきもあやかりたいものでございんす」
「あやかるほどのものだかどうか……! 身請けなど、しょせんはひとりの男に買い切られるだけのものでありんすに。──年季明けを待つ男でも居たほうが、よほど幸せでありんしょう」
苛立ち紛れに吐き捨てて、唐織はふいと視線を池のほうに逸らした。すなわち、清吾がいるほうへ。捨て鉢な、すさんだ色の視線を受け止めることになって、清吾は思わず俯いてしまう。身請けされるのは女郎にとっては幸せと、勝手な考えを見透かされて咎められたように感じたのだ。
好んで嘘を重ねる訳ではないと、言われていたのにこの様だ。池の底の泥に足を取られるまま、沈み込みたい思いにもなる。
幸か不幸か、清吾が唐織に声をかける必要は、なかった。建物から現れた禿が、おずおずと唐織に呼び掛けたのだ。
「あの、花魁。和泉屋様がご登楼でありんすが」
「ああ、噂をすれば何とやら。お早いお着きで──」
唐織の不機嫌は、これから気に入らぬ客を迎えるためでもあったようだ。そして、溜息が聞こえるほどに早く登楼する辺り、和泉屋とやらは確かに無粋な男ではあるのかもしれない。そのように、清吾は合点しかけたのだが──
「わちきが、情人と逢瀬の最中だとでも邪推なさんしたのでありんしょうなあ」
「は?」
不意に水を向けられて、目を剥くことになった。そういえば、彼は唐織の情人ということになっていた。和泉屋は、体よく嫉妬を煽られている、ということなのか。
「それは……本当に邪推だな」
「ほんに。主は和泉屋様の目に留まらぬほうが良い──こっそりと、湯を使ってからお帰りなんせ」
清吾に勧める唐織の声音はあっさりとしたもので、情人に対してあるべき名残惜しさなど、欠片もないのに。何も知らぬ和泉屋は愚かだし、理不尽に寂しさを感じる清吾はなお愚かなのだろう。
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