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二章 唐織の素顔
6.花魁道中
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今宵は、清吾は唐織に呼ばれてはいない。呼ばれておらずとも、信乃を探したって良いだろうと、自らに言い訳をして吉原を訪れた。言い訳なのだと、彼自身がもう気付いている。
清吾を呼ばないということは、唐織は今日は客を取るのだ。全盛の花魁に相応しく、豪華絢爛に着飾って。
唐織の花魁道中は、仲の町通りをしずしずと進む。箱提灯を提げた若い衆を先頭に、さらさも含めた振袖新造や禿らに囲まれて、長柄傘を差しかけられて。
その行列の中心にいる唐織は、偶然の縁によって気安く言葉を交わしていたのが畏れ多いと感じるほどの近寄りがたい美しさだった。
横兵庫に結った髪に、金銀や鼈甲の櫛や簪、笄を挿した神々しさは、太陽を背に負ったかのよう。端午の節句のころとあって、胸もとから足もとに流れる前帯には、龍に変じる鯉の刺繍が身をくねらせて、仕掛で目を爛々と光らせる虎と睨み合っている。
勇壮な趣向の衣装とは裏腹に、当の唐織はどこまでも嫋やか、むしろ龍や虎が猛々しいほど、その優美さを引き立てるかのよう。三本歯の高下駄が踏む外八文字も一種の舞のように滑らかで、足指の先、衣装の裾にいたるまで、花魁の美と意気を野次馬どもに見せつける。通りに掲げられた灯りが照らす以上に、その存在によって吉原の夜をいっそう眩しく輝かせるかのようだった。
大見世に上がることなどできない素見や、そもそも女郎を買う気のない物見遊山の客たちの溜息が、清吾の耳にも届く。
「あれが、唐織花魁か。浅草寺の観音様もかくや、だねえ」
「心根も優しいっていうんだから大したもんだ」
「今夜の客は札差の和泉屋だってな」
「身請けの話が進んでいるんだって? まったく羨ましい話だ」
「いったいいくら積むんだか」
「そりゃあ、唐織だぞ? 錦屋を総仕舞にするのはもちろん、吉原中に祝儀をばら撒くに決まっている」
「はあ、さぞやめでたい日になるんだろうなあ」
(何も知らない連中が、勝手なことを──)
道中を目で追いながら、清吾こそ勝手に考える。唐織の噂の真偽だとか、身請けに対する鬱屈だとか。仮初の情人に過ぎない彼が、吹聴して良いことではない。唐織について何かしらを知っているとは口が裂けても言えない──それどころか、どうして今夜、吉原にいて花魁行列を眺めているか、それすら自分自身にも分からないというのに。
(あいつが、和泉屋か……)
名前と、辛うじて声だけは知っていた男の顔を、初めて見ることはできた訳だが。五十がらみのその男は、言葉遣いから感じた通りの、おっとりとした品の良い佇まいをしていた。苦労を重ねてのし上がった風ではないから、親から商いを継いだとか、そういうことなのかもしれない。野次馬の囁きは和泉屋の耳にも届くのか、どこか得意げな表情にも見えるのが愛嬌がある、かもしれない。
(良い旦那では、あるんじゃないのか)
これもまた勝手なことに、清吾は和泉屋を値踏みした。裕福で、優しそうでもある。唐織にはもの足りないかもしれないが、世間の夫婦でも互いに完全に満足している者は少ないだろう。だから身請けされても安心だ、などと──いったい誰に言おうとしているのだろう。唐織を慰めるつもりなら傲慢きわまりないし、彼自身に言い聞かせるのだとしたら、なおのこと分を弁えない話になってしまう。
(そもそも、信乃も見つかってないってのに)
唐織の目が、野次馬どもを撫でていく。暗い中、ひとりひとりの顔など見分けることはしないだろうが、清吾は目を合わせぬようにそっと背を向けた。唐織に対しても信乃に対しても、不実なことをしている自覚は重々あった。後ろめたさから目を背けるためにこそ、これ以上この場にいられない、と思った。
(唐織の助けを借りずとも、信乃を探して良いんだ。今夜はこのままひとりで探すさ)
河岸見世のひとつひとつを、素見の振りで覗くくらいはできるだろう。このふた月ほどで、それなりに範囲を絞れてはいるのだから。
* * *
鉄漿溝の際、最下級の切見世が肩を寄せ合う辺りを徘徊して、半刻ほど経ったころだろうか。雑踏の中から、清吾の名を呼ぶ声がかかった。彼が振り向く間にその声の主は近づき、彼の腕を引っ掴んで顔を覗き込んでくる。
「おい、あんた──清さんだろう!?」
「あ……錦屋の?」
強引な呼び止め方をしてきたのは、顔なじみになった錦屋の若い衆だった。探した相手が見つかって安堵したのか、その男は肩で大きく息を吐いた。
「ああ、やっぱりだ。唐織花魁が、道中で見かけたっていうからさあ。まさかとは思ったが、この界隈だろうと踏んだんだ」
「花魁が? 俺に……何か用だってのか? 今ごろは客の相手をしてるんじゃないのか」
品定めの男たちが迷惑そうに避けていくのを横目に見ながら、清吾は問い質す。思わぬ報せに、心臓が煩く高鳴り始めているのが、分かる。
唐織は、彼にちゃんと気付いていたのだ。夜の闇の中で、遠目で、目が合うかどうかのところで背を向けたのに。しかも、大事な客を措いても彼を探す用件があるらしい。いったい何の話なのか、見当もつかないのだが──だからこそ、体温が上がり鼓動が早まるのを抑えられない。
「だから、和泉屋様の目を盗んで、俺に言付けしたんだよ。ちょうど良かったって、あんたに伝えたいことがあるって!」
いくらか声を落としながら、その若い衆は清吾の腕を引っ張って物陰に引きずり込んだ。唐織の名を往来で呼ばわったのに気付いて、人の目と耳を憚ったらしい。答えを聞くまでにほんの数歩、ほんの数秒焦らされただけだというのに、そのわずかな間が果てしなく長く感じられた。
だが、それでも。ついに。錦屋の若い衆は、清吾の耳元に急いた声音で囁いた。相手のほうでも、抱えていた報せを押しとどめておくのに耐えかねたかのような勢いだった。
「あんたが探してた、信乃って女が見つかったんだ!」
清吾を呼ばないということは、唐織は今日は客を取るのだ。全盛の花魁に相応しく、豪華絢爛に着飾って。
唐織の花魁道中は、仲の町通りをしずしずと進む。箱提灯を提げた若い衆を先頭に、さらさも含めた振袖新造や禿らに囲まれて、長柄傘を差しかけられて。
その行列の中心にいる唐織は、偶然の縁によって気安く言葉を交わしていたのが畏れ多いと感じるほどの近寄りがたい美しさだった。
横兵庫に結った髪に、金銀や鼈甲の櫛や簪、笄を挿した神々しさは、太陽を背に負ったかのよう。端午の節句のころとあって、胸もとから足もとに流れる前帯には、龍に変じる鯉の刺繍が身をくねらせて、仕掛で目を爛々と光らせる虎と睨み合っている。
勇壮な趣向の衣装とは裏腹に、当の唐織はどこまでも嫋やか、むしろ龍や虎が猛々しいほど、その優美さを引き立てるかのよう。三本歯の高下駄が踏む外八文字も一種の舞のように滑らかで、足指の先、衣装の裾にいたるまで、花魁の美と意気を野次馬どもに見せつける。通りに掲げられた灯りが照らす以上に、その存在によって吉原の夜をいっそう眩しく輝かせるかのようだった。
大見世に上がることなどできない素見や、そもそも女郎を買う気のない物見遊山の客たちの溜息が、清吾の耳にも届く。
「あれが、唐織花魁か。浅草寺の観音様もかくや、だねえ」
「心根も優しいっていうんだから大したもんだ」
「今夜の客は札差の和泉屋だってな」
「身請けの話が進んでいるんだって? まったく羨ましい話だ」
「いったいいくら積むんだか」
「そりゃあ、唐織だぞ? 錦屋を総仕舞にするのはもちろん、吉原中に祝儀をばら撒くに決まっている」
「はあ、さぞやめでたい日になるんだろうなあ」
(何も知らない連中が、勝手なことを──)
道中を目で追いながら、清吾こそ勝手に考える。唐織の噂の真偽だとか、身請けに対する鬱屈だとか。仮初の情人に過ぎない彼が、吹聴して良いことではない。唐織について何かしらを知っているとは口が裂けても言えない──それどころか、どうして今夜、吉原にいて花魁行列を眺めているか、それすら自分自身にも分からないというのに。
(あいつが、和泉屋か……)
名前と、辛うじて声だけは知っていた男の顔を、初めて見ることはできた訳だが。五十がらみのその男は、言葉遣いから感じた通りの、おっとりとした品の良い佇まいをしていた。苦労を重ねてのし上がった風ではないから、親から商いを継いだとか、そういうことなのかもしれない。野次馬の囁きは和泉屋の耳にも届くのか、どこか得意げな表情にも見えるのが愛嬌がある、かもしれない。
(良い旦那では、あるんじゃないのか)
これもまた勝手なことに、清吾は和泉屋を値踏みした。裕福で、優しそうでもある。唐織にはもの足りないかもしれないが、世間の夫婦でも互いに完全に満足している者は少ないだろう。だから身請けされても安心だ、などと──いったい誰に言おうとしているのだろう。唐織を慰めるつもりなら傲慢きわまりないし、彼自身に言い聞かせるのだとしたら、なおのこと分を弁えない話になってしまう。
(そもそも、信乃も見つかってないってのに)
唐織の目が、野次馬どもを撫でていく。暗い中、ひとりひとりの顔など見分けることはしないだろうが、清吾は目を合わせぬようにそっと背を向けた。唐織に対しても信乃に対しても、不実なことをしている自覚は重々あった。後ろめたさから目を背けるためにこそ、これ以上この場にいられない、と思った。
(唐織の助けを借りずとも、信乃を探して良いんだ。今夜はこのままひとりで探すさ)
河岸見世のひとつひとつを、素見の振りで覗くくらいはできるだろう。このふた月ほどで、それなりに範囲を絞れてはいるのだから。
* * *
鉄漿溝の際、最下級の切見世が肩を寄せ合う辺りを徘徊して、半刻ほど経ったころだろうか。雑踏の中から、清吾の名を呼ぶ声がかかった。彼が振り向く間にその声の主は近づき、彼の腕を引っ掴んで顔を覗き込んでくる。
「おい、あんた──清さんだろう!?」
「あ……錦屋の?」
強引な呼び止め方をしてきたのは、顔なじみになった錦屋の若い衆だった。探した相手が見つかって安堵したのか、その男は肩で大きく息を吐いた。
「ああ、やっぱりだ。唐織花魁が、道中で見かけたっていうからさあ。まさかとは思ったが、この界隈だろうと踏んだんだ」
「花魁が? 俺に……何か用だってのか? 今ごろは客の相手をしてるんじゃないのか」
品定めの男たちが迷惑そうに避けていくのを横目に見ながら、清吾は問い質す。思わぬ報せに、心臓が煩く高鳴り始めているのが、分かる。
唐織は、彼にちゃんと気付いていたのだ。夜の闇の中で、遠目で、目が合うかどうかのところで背を向けたのに。しかも、大事な客を措いても彼を探す用件があるらしい。いったい何の話なのか、見当もつかないのだが──だからこそ、体温が上がり鼓動が早まるのを抑えられない。
「だから、和泉屋様の目を盗んで、俺に言付けしたんだよ。ちょうど良かったって、あんたに伝えたいことがあるって!」
いくらか声を落としながら、その若い衆は清吾の腕を引っ張って物陰に引きずり込んだ。唐織の名を往来で呼ばわったのに気付いて、人の目と耳を憚ったらしい。答えを聞くまでにほんの数歩、ほんの数秒焦らされただけだというのに、そのわずかな間が果てしなく長く感じられた。
だが、それでも。ついに。錦屋の若い衆は、清吾の耳元に急いた声音で囁いた。相手のほうでも、抱えていた報せを押しとどめておくのに耐えかねたかのような勢いだった。
「あんたが探してた、信乃って女が見つかったんだ!」
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