【完結】月よりきれい

悠井すみれ

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三章 想いの値段

2.五十両

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「五十両──」

 思わず喘いだ清吾せいごの脳裏に、吹っ掛けられている、という直感が稲妻のように走った。女郎の身請けの相場など知る由もないが、明らかに死に瀕した女につけるあたいとは思えなかった。小判など、庶民の暮らしではそもそも目にすることさえまれなのだ。それを五十枚とは、正気の沙汰とは思えない。

 きっと、不満が表情にも上ったのだろう、万字まんじ屋の蟇蛙ヒキガエルめいたつらが、一瞬にして不機嫌に歪んだ。

「何だい。好いた女のために金を惜しむってのかい」

 女を食い物にする忘八ぼうはちおどしに過ぎないと、頭では分かっていた。だが、信乃しのをひと目で見分けられなかった後ろめたさが、清吾の意気をくじいていた。

「だって、でも、法外だろう! 薬なんて──本当に使ってやっていたか怪しいもんだ」
「言いがかりだな」

 弱気は声にも現れて、どうにか絞り出した反駁はんばくはごくあっさりと斬り捨てられた。立ち竦む清吾の胸倉むなぐらを掴んで、万字屋は彼の耳元に怒鳴りつける。

手前てめえは、こいつがいくらで売られたかも知らねえんだろうが。親が引き取るってえなら、こっちもやらねえでもないが、ぽっとでの馬の骨じゃなあ。うちの女を、五十両も出せねえ男には渡せねえんだよ!」

 万字屋の主張は、どこまでも欺瞞であり詭弁だった。こんな淀んだ部屋に押し込めておいて大事だなどと、どの口が言うのか。信乃の親は、遥か会津だ。本当に情があるなら、もっと早くに報せて会わせてやるのが筋だろうに。

(俺を、人攫いみたいに言いやがって──)

 すでに死体の顔色の女を引き取りたい理由など、大事だから以外にあり得ないだろうに。ようやく憤懣ふんまんが込み上げて、清吾は拳を握ろうとした、のだが──

「せいご──」

 隙間風のような掠れた囁きに呼ばれて、力を失う。殴られる恐れがなくなったのを見てとったか、万字屋は鼻を鳴らすと清吾を突き飛ばした。辛うじて、信乃が横たわる布団を避けて床にくずおれる──彼の腕を、枯れ枝の指が、そっと撫でた。

「あたしは、良いから。会えただけで、もう……」

 肉が落ちてぎょろりと剥いた目に浮かぶ涙を見て、清吾の肚は決まった。信乃の命のともしびが消えかかっているのは、もはや否定しようのないこと。残り僅かな生を、くだらない言い争いを間近に見せて浪費させる訳にはいかない。こんな暗く淀んだ闇の中で最期を迎えさせるなどもってのほかだ。

「金は必ずどうにかする。少しだけ待ってくれ。これで──布団を換えて、卵でも食べさせてやってくれ」

 清吾が懐から突き出した財布を、万字屋は嬉しそうにもぎ取った。中の銭を数える姿の浅ましさこそ、羅生門らしょうもんの鬼のようだった。

      * * *

 一夜明けて、清吾は錦屋を訪ねていた。唐織からおりの客の和泉いずみ屋は、今日は居続けをしてはいない。若いしゅを差し向けてもらった以上、ことの次第を申し述べるのは当然の義理ではあるが──

「それで、わちきに金を借りたいとおっせえすのかえ」

 唐織が呆れた口調で煙管きせるを吹かすのも道理、図々しいにもほどがある申し出をした清吾は、輝くばかりに整った錦屋の座敷で身を縮めた。

(何もかも世話になった上に、金まで頼ろうなんて……)

 情けなさに、消え入りたくなる思いだった。だが、五十両もの大金を、それもすぐに手に入れるアテは、ほかには思いつかなかった。信乃の容態は、見るからに悪い。金策のために走り回るほんの数日でも、持ちこたえられるかどうか怪しいものだ、と見えた。

 だから──なりふり構っている場合では、ない。これは、信乃のためなのだ。そう、自分に言い聞かせて、清吾は畳に額を擦りつけた。

「……俺は大工だ。仕事を選ばず掛け持ちすれば、そこらの男の倍は稼ぐ。どんな高い利子をつけたってかまわない。必ず返すから……!」
「ならば、金貸しはほかにもおりんしょうに。なぜよりによって、このわちきに?」

 当然の疑問に答える前に、清吾は軽く息を整え、唇を舐めた。

 あえて唐織に頭を下げる理由は、ある。これまでの縁と厚意に甘えるだけではもちろんないし、花魁ならば五十両はぽんと出せるだろうと考えている訳でもない。

 ほんの少しだけ顔を上げ、上目遣いに気怠けだるげな女の顔を見上げ、口を開く。

「あんたのためにも、なるかと思って」

 唐織と違って、彼は駆け引きめいたことに慣れてはいない。相手の気を惹くべく、意味ありげな含みを持たせようと持っても、思うように堂々とした声は出てくれない。立て板に水とは行かずとも、それでも懸命に、夜明けを待つ間に考え抜いた言葉を並べる。

「病気の女郎をけ出してやる。苦界くがいからすくい上げて、故郷の男と添わせてやる──慈悲深い唐織花魁のしそうなことだ。世間はまた褒め称えるだろう。感心して身請けしようって大尽だいじんも、出てくれるかも……」

 出自を偽ってまで、常陸ひたちの者に金をやったくらいだ、名誉名声は唐織も望むところのはず。客の気を惹き、焦がれさせるためなら嘘も辞さないのは、清吾が身をもって知っている。

(俺には金はない、が……!)

 だが、代わりに差し出せるものがある、という取引のつもりだった。和泉いずみ屋のように豪奢な衣装を貢ぐことができない代わり、形のないもの、世間からの称賛ならば贈ることができるかもしれない。

『誰も好んで嘘を重ねるのではありいせんのに』

 それで唐織が喜ぶだろうと信じるには、あの夜、唐織が漏らした溜息は清吾の胸に深く甘く刻まれているのだが。信乃のために、という名分が、唐織の心を踏み躙るのに十分なのか、それもまた分からないのだが。

 清吾が息を詰めて仰ぎ見る先で、唐織の唇が笑みとは違う形に歪んだ。

「一途なお人と思うておりいしたが。どうして、なかなか勘定かんじょうが得意でありんすなあ」
「……すまん。だが──頼む」

 計算高い女だと思っているのだな、と。詰る響きを確かに聞いて、清吾は再び深く頭を下げた。そこに、唐織の苦笑の吐息が零れ落ちる。

「わちきに何を謝るのやら──」

 清吾の詫びは、図々しい強請ねだりごとに対してのものではないことに、唐織は気付いてしまっているようだった。

(さぞ腹立たしいことだろうな。勘違いして思い上がっていると……)

 清吾は、唐織を利用して信乃を助けること、それ自体に後ろめたさを感じている。愚かなだけでなく、傲慢にもほどがある考えだ。これではまるで、信乃を選んですまないと言っているようなものだ。彼とこの女とは、決してそのような関係ではないというのに。

 どのような罵倒も叱責も、甘んじて受ける。そのつもりで、清吾はひたすらに土下座の姿勢を保った、のだが──

「姉さんの気も知りいせんで、勝手なことをぬけぬけと──もはや黙ってはおれえせん!」

 彼に投げつけられた言葉のつぶては、唐織のものではなかった。より甲高く、より怒りと嫌悪を剥き出しにしたその声の主は、姉貴分の脇に控えていた、振袖新造ふりそでしんぞうのさらさのものだった。
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