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近づく距離(2)

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 アニーが部屋から下がった後に、茉莉の部屋にはアレクサンダーも残って、茉莉と睨みあって――睨んでいるのは茉莉だけだったが――いた。
 茉莉はまず風呂を済ませて、衣類を早めにアニーに渡したかったのだ。もう夜も更けている。住み込みで働いているのか夜勤なのかは茉莉にはわからなかったが、あまり遅い時間にアニーに仕事を頼みたくなかったのだ。
「脱いだ服は籠に入れていただいて、私がアニーへ渡すということで」
 段取りを説明するアレクサンダーに対して、この日一番深い茉莉のため息が出た。
「あの、お伺いしたいんですけど」
「何でしょうか」
 ため息を気にしないかのように、アレクサンダーは風呂の準備を、とバスルームに向かう。
「あなたと私は今夜セックスをするのは、決まっていることなの?その、マーガレットのお告げとかで…」
 茉莉は、アレクサンダーの顔を見て聞くのが気まずくて、背中に向かって話しかける。
「決まってはいませんが……」
 アレクサンダーは口ごもる。口ごもりながらもシャワールームのバスタブに湯をため始める。
「決まってはいませんが?」
「今夜するのは、セックスじゃなくて、メイクラブ」
 今回は、アレクサンダーだけではなくて、茉莉の顔も赤くなった。茉莉自身、自分の頬が熱くなったのがわかる。
「……私のこと、愛してくれる?」
「もちろんです」
 アレクサンダーは茉莉の方に戻ってきて、私の頬に唇を落とす。
「これからお互いのことを深く知って、愛を育てていきましょう」
 アレクサンダーに抱きしめられて、今日はこれでゆっくり眠れるのではないだろうか、と茉莉は思ったが、そうは行かなかった。アレクサンダーの方がすっかりやる気になっていて、先ほどまで見せていた弱気なそぶりは何だったのだというくらいになっていた。
 シャワーも一緒に浴びようと言われたが、女には準備があるのだと茉莉は必死で言い逃れ、一人で入ることに成功。髪まで洗って、乾かしてからのんびりシャワールームから出てきた。バスローブと一緒に置かれていたニッカースは迷ったけれど履かなかった。

 アレクサンダーは、やっぱり顔を赤くしてベッドに座って待っていた。大型犬っぽい。
「服は、アニーに渡しておいたから」
「ありがとう」
 アレクサンダーは茉莉の頬にキスをして微笑んで、バスルームに向かった。
 やる気満々の顔だな、と思いながらその背中を見送る。

 茉莉は、まだこれが夢だということを期待している。そして、どうせ夢なんだから少しくらい恥ずかしいことをしてもいいや…とも思っていた。
 それはさておき、本当にここでしてしまうんだろうか?と茉莉は部屋を眺める。
 天蓋付きの大きなベッド、壁紙はアラベスク模様が入っていて、銅版画もかかっている。サイドテーブルも細工が施されていて、いつか泊まってみたいなんて思っていた、イギリスのマナーハウスのイメージとそう変わらない。
 しかし電気も水道もあるので、ここは私がいた世界と3つ隣――とりあえず似ている、夢の世界なんだろう。
 置かれていたアメニティのブランドは知らないブランドだったが、使い心地が良い。ドライヤーも知らないメーカーだったが、使い勝手も良くてとても気に入った。
 古めかしいのは見た目だけで、技術的なものは茉莉の世界と変わりはほぼないように思えていた。
 茉莉の頭の中に、この世界に呼ばれてきた“マーガレットの娘”には、理想の男性が用意されているという話がふと蘇ってきた。そして、以前見た映画『ブリジッド・ジョーンズの日記』でかかっていた「It's Raining Men」という曲を連想した。
 Mother Nature――母なる自然の女神が天使を説得して回り、すべての女性に理想の男性を降らせるという歌だ。今夜10時半には通りに出ると、理想の男性が降ってくるよと。映画ではその曲をBGMに、ブリジッドを間に争う男二人が大雨の中で喧嘩していた。
 化粧水を肌に入れながら、なんとなくこの歌を口ずさんでいたら、アレクサンダーがバスルームから出てきた。
ふと、時計が目に入る。10時半を指している。
ああ、この人が天から降ってきた、私の理想の男性か……と茉莉はまじまじと彼の体全体を眺める。
 軽く化粧でもしておけば良かったかな、と思ったけれど、どうせ泣き顔以来化粧が剥げた顔しか見せていない。もう今さらだ。
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