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27 初めてのキス

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 エッジウェア伯ハーバートが帰宅した後、クーパー家は心置きなく歓声を上げた。
「アンダーソン!ブランデーでも、エールでも、ジンでもなんでも用意して!当主の結婚の前祝いだ!」
 ガラティーンは廊下を大股で歩き階段を駆け下りながら、調理場へ向かう。
「マギー!急だけど、今日はみんなでパーティできるかな?父上の結婚の前祝いだ!」
 コックのマギーは目を丸くして、急に何を言い出すのかとフランス語でガラティーンに訴える。
「ごめんごめん。できるだけでいいんだ。私も手伝うから!」
 ガラティーンもフランス語で返してマギーの手を取る。
「旦那様のご結婚が決まったのなら仕方ありませんね。できる限りのことはいたしましょう!」
 クーパー家は普通の貴族の家からすれば信じられないくらい雑な、のんびりした家風だった。厳しい家ならば使用人の声が客人に聞こえるようなことがあれば、その声を上げたものは職を失うなどがあってもさして不思議ではなかっただろうが、過去三代ほどは完全に「大きな家族」という感覚でクーパー家は運営されている。
「本番の準備という気持ちでやりましょう!……旦那様のお好きな、肉のミンスパイをふるまいましょう!」
 後半は英語にして、キッチンメイドにミンスパイの準備をするようにマギーは言いつける。
「じゃあガラティーン様、お手伝いをしてくださるということですから、キッチンから出て行ってくださいね」
「はあい」
 何もしないのが一番の手伝い、ということでガラティーンは追い出される。子供の頃からマギーとフランス語で話しながらジャガイモを剥いたり、鳥の羽をむしってみたりなどをやっていたが、さすがにマギーも「社交界デビューをされたお嬢様の手を痛めるようなことはさせられない」と思っているようだ。
「父上、父上がコーネリアと結婚だ!」
 ガラティーンはなぜか自分が晴れやかな気持ちで、家の中を駆け回って使用人たちに知らせて回る。まさしく快活な青年と言った風情で笑いながら駆け回っていたガラティーンに、家令は来客を告げる。
「……おや、今度は誰が来たんだい?」
「ホルボーン子爵、アルジャーノン・ラッセル様です」
「私に会いに来たのかな?それとも父上?」
「お二方ということです。旦那様のお部屋にお通ししております」
「わかった。すまないねアンダーソン、駆けずり回ってしまっていたから、探すのが大変だっただろう」
 向日葵のように明るく笑ったガラティーンは、ダニエルの部屋へ向かう。
「失礼」
 勝手知ったる、とはいえども一応は父の自室だ。ガラティーンはノックをしてから声をかけて入る。
「やあ、アル……父上!客人が来ていますよ」
 まだ椅子の座面に突っ伏したままのダニエルにガラティーンは声をかける。
「いや、大丈夫です」
「……いい?」
 ガラティーンは肩をすくめて背の高い自分よりもさらに背の高いアルジャーノンを見上げる。
「今日は父上と私に用って、どうしたの」
「クーパー殿と、エッジウェア伯の娘御の件を聞いて……」
「そう!そうなんだよ!父上とコーネリアが結婚をするんだ!」
 ガラティーンは本当に嬉しいのだというのが見るだけでも、もしくは声音だけでもわかるような喜びようだ。アルジャーノンはその様子を見て、彼女は自分と結婚をするということにも同じくらい喜んでくれるのだろうかと不安になる。
「それで、その……念のためなんだけれども、君と私の結婚のことは……」
「私は、アルと結婚するつもりだけど?」
 ガラティーンはアルジャーノンの瞳をまっすぐ見て、即座に答える。そしてちらっとダニエルの方を横目で見てから、またアルジャーノンに向き直る。
「でも、父上とコーネリアの結婚の後じゃだめかな?」
 ガラティーンはアルジャーノンの右手を取って、手の甲に口づける。
「私は君に純潔を誓うよ。まあ君はどこの娼婦と何かをするかもしれないけれど……ん!」
 アルジャーノンはガラティーンを抱き寄せて、素早く唇に軽いキスをした。
 ダニエルは椅子を抱えていても「何かが起こった」ということがわかったらしく、動揺してガタンと椅子を鳴らす。
「何も!しないから!」
「ふうん?」
 アルジャーノンはガラティーンを自分の胸に強く、強く抱きよせる。
「……アル!」
 さすがに自分の娘のことでは、自分のことで恥ずかしがってばかりはいられなかったようで、ダニエルはようやく椅子から顔を上げる。
「お前はうちの娘に何をしているんだ!」
「親愛の意を表すハグです!」
 アルジャーノンはガラティーンを抱きしめて、彼女の金の髪に自分の頬を摺り寄せる。
「ははは、父上。父上はコーネリアに狼藉を働かないでくださいね」
「ガラ、お前何をされたんだ!」
「ふふふ」
 アルジャーノンはガラティーンを抱きしめることに意識が向いてしまい、ガラティーンの顔を見ていなかった。しかしダニエルはガラティーンが男のなりをしていても、年ごろの娘らしく頬を染めて、柔らかく笑っているのを見た。こんな顔をされては、植民地での戦闘で亡くなった彼の兄のように、どこか遠くに派遣されるような可能性のある人間以外と結婚させようと言い出すのは難しかった。
 アルジャーノンはガラティーンの笑い声が途切れてから、ようやく彼女の顔を見る。しかし彼女はその時にはいつもの、いたずらっぽい笑顔に戻ってしまっていた。
「父上、まずはあなたとコーネリアの結婚。そして落ち着いたらアルと私の結婚。はい、決まり!」
 ガラティーンはアルジャーノンの胸から少し身をよじり、腕を解放させてから自分でもアルジャーノンの背中に手を回す。
「アル、もう少し待っていてくれよ」
 そう言って彼の顔を見上げてから、ガラティーンはぎゅっと体を寄せる。
「コーネリアは父上のことが好きだけど、私は君のことが好きだから」
 アルジャーノンはガラティーンのこの言葉を聞いて、眼窩から目が零れ落ちそうなくらいに目を見開く。
「……アルのことが好きだよ」
 驚いたアルジャーノンの顔を、ガラティーンは不安そうに見上げる。
「私」
 アルジャーノンは同じ言葉を繰り返そうとしたガラティーンの腕を掴み、彼女がダニエルの位置から見えないように向きを変え、また軽く唇を掠めるようなキスをする。
「……失礼します!」
 上官のダニエルに挨拶をして、掴んだままのガラティーンの腕を引いてアルジャーノンは速足で部屋を出る。ガラティーンはよくわからないながらもアルジャーノンについて部屋を出る。
 ダニエルは一瞬反応が遅れて、「お前たち!」と声をかけたがぱっと追いつけない。それをいいことに、アルジャーノンはガラティーンの腕をつかんで、階下へと駆け下り、玄関から飛び出す。フットマンも驚いた顔をしていたが、ガラティーンはフットマンへ軽くウィンクをして、すまないねという気持ちを表す。フットマンは黙って頭を下げる。これで、ダニエルが来てもフットマンが時間を稼いでくれるだろう。
 ガラティーンは、これはドレスを着ていたら走るのが大変だったなと思いながらもアルジャーノンに引っ張られるままについて行く。そして玄関から少し離れた木陰に、アルジャーノンに押し込まれた。

 11月の冷たい空気が頬に刺さる。陽が傾いてきている時間ではあるが、それでも高揚している二人にはあまり問題にはならなかった。
「さっきは我慢できなくて、キスしてしまった」
 アルジャーノンはようやくガラティーンの腕から手を放し、今度はガラティーンの手を取って、手の甲にキスをする。
「いつも、順番を間違えているけれども――俺は、世界で一番深く愛している人と結婚をしたい」
 そう言ってガラティーンの青い瞳をじっと見つめる。ガラティーンは自分を見つめるアルジャーノンの緑色の瞳を見つめ返す。
「私は、父上から言われたら、その相手と結婚をして子供を産むつもりだった。誰でも良かった。だけど」
 一気にガラティーンは言い切り、今度はガラティーンの方からダニエルに口づける。
「私も、自分が愛している人と結婚をしたい」
 お互いの鼻の頭がつくかつかないかというような距離でガラティーンは囁く。
「私はアルと結婚がしたい。どうしてかはわからないけど、アルがいい」
 アルジャーノンはガラティーンの言葉が切れたところで、今度は唇をしっかり押し付けて噛みつくようにキスをする。話がふと切れたところだったガラティーンの唇が薄く開いていたのをいいことに、唇を重ねるというよりも、食むようなキスをする。乾いた唇が重なるのは温かくて気持ちが良かったけれど、ぬるっとした感触にガラティーンは違和感を感じた。
 ガラティーンは「このようなキスを深い仲の男女は行う」ということを知識としては知っていた。ダニエルの部隊の青年たちはとてもとてもいい先生だったのでガラティーンは耳年増になっていたが、実際に行ったことはなかったのでふっと頭が冷える。
「……ん!」
 ガラティーンはアルジャーノンの胸を叩いて抗議する。
「ん?」
 甘い顔をしてガラティーンの顔を覗き込んだアルジャーノンだったが、ガラティーンの機嫌があまりよくなさそうなことにすぐ気づく。
「話をしたいんだ」
「……悪い」
 そう言いつつもそのままアルジャーノンはガラティーンの白い頬を撫でる。
「ごまかされないよ」
 そうは言いつつもガラティーンはアルジャーノンの手に頬を摺り寄せ、その手に自分の手を重ねる。
「君のことを好きになったのは、君が最初に求婚してくれたから。それで君が男性だということを意識したから、かもしれない。そんな理由でもいい?」
「かまうもんか」
 アルジャーノンはガラティーンの額に口づける。
「俺は、あの時の――君に触れられた時の――あの時の君の、すべてが」
 口ごもり、頬を赤くしながらアルジャーノンは続ける。
「女性である君の、すべてに、一目で恋に落ちた。強く輝く瞳も、男性にしたら不思議に長かった髪も、男性にしたら華奢だった顎も、首も」
 アルジャーノンはガラティーンに上げていく体の箇所に唇を落としていく。
「……胸も、すべてがまぶしくて」
 少し陶酔しているようなアルジャーノンに対して、ガラティーンは比較的冷静になっている。胸の話が出たときにやっぱりな、と思ったが口には出さなかった。今は口に出して、話の腰を折るべきではないだろうと思ったのだ。
「今もそうだと思うけど、君は何かあると逆に頭が冷える性分でしょう」
 気づいていたのか、とガラティーンは眼を瞬かせる。言い当てられたのに正直驚いていた。
「そんなところも好きだよ」
 そう言ってまたアルジャーノンはガラティーンに唇を重ねる。今回は唇を重ねて、軽くついばんですぐに唇を離す。
「私は、そうやって案外わかってるアルが好き」
 またガラティーンの方からアルジャーノンへ唇を寄せ、二人は――というよりはガラティーンは少しずつキスに慣れていった。
「キスも、初めてだったんだ」
 唇が少しだけ離れた合間に、ガラティーンは囁く。それを聞いて、アルジャーノンはまたゆっくりと唇を合わせる、薄く開いたままのガラティーンの唇の隙間に、自分の舌を滑り込ませる。
 ガラティーンはなんとなく、自分も彼の口腔内に舌を伸ばしてみたらいいのだろうかと思い、ゆっくりと舌を伸ばそうとする。濡れた粘膜同士の接触というのは彼女にとってはこの日が初めての体験だ。これは確かに親密な恋人同士などではなければやりたいことではない、と思っていたら、自分の伸ばした舌がアルの舌に軽く触れた。
 ガラティーンは、脳の奥がじんわり痺れ、少しは鼻にかかったような声が漏れてきた。これが、気持ちいいということなのかと少しだけわかったような気がしてきた。愛し合っているもの同士という満足感も手伝い、濃厚な口づけに没頭をしていくうちに心が満たされていく。
 ガラティーンが気が付くとアルジャーノンの左腕は彼女の背中に回り、右手はガラティーンの左胸を脇から優しく触れている。彼の手が触れている箇所がやたらと熱く思え、ガラティーンは体を震わせる。
 ガラティーンが男性用の衣類を身に着けるときは、胸の下に布を入れて全体を平らにするようにしてからボディスを付けるようになった。以前はボディスではなく布を巻き付けて抑えていたが、現在はそこまですることはなくなった。
 アルジャーノンはガラティーンの左胸をする、と撫で、指は何かを探るように彼女の胸に埋めるように少しだけ力を入れる。
「……ん!」
 ガラティーンは、左胸にくすぐったいような快感が走り、驚いて小さく声を上げる。アルジャーノンは彼女の乳首を探していたようで、彼女の反応があった箇所を中心に指に力を入れる。
「……ここは、屋敷の外だから」
 少し紅潮した頬に蕩けたような目、そして初めての快楽の芽を見つけて掠れた声で、ガラティーンはアルジャーノンに、ここがどこかを思い出させようとする。自宅の屋外で事に及ばれても困るのだ。
 アルジャーノンはガラティーンの瞼にキスをする。
「ごめん、気が急いた……」
 アルジャーノンはガラティーンを両腕でかき抱く。
「君は俺のものだ。そして俺は君のものだ」
「悪くないね」
 ガラティーンもアルジャーノンの背中に両腕を回し、しっかりと抱きしめる。
「君は私のものだ。そして、君は私のものだ。ふふ」
 ガラティーンはアルジャーノンの耳元に向かって囁く。
「愛してるよ」
「……ガラ、誰に教わったんだい、それ」
 耳元で囁かれた彼女のガラティーンの声に、アルジャーノンは体を震わせた。
「私の周りでこんな話をしていたのは君たちだ」
 ガラティーンはそのままアルジャーノンの耳元で囁き、軽く耳を食む。
「もう終われなくなるから、このあたりで止めてくれ……」
「じゃあ、私を離してくれないかな」
「離したくない……」
 そうは言いつつも、アルジャーノンはガラティーンをもう一度抱きしめ、彼女の金の髪に口づけをしながら、ゆっくりと体を離す。
「さあ、中に戻ろうよ。風邪をひいてしまう」
 ガラティーンは思ったよりもロマンティックなアルジャーノンをからかう。
「君は、私よりもよっぽどロマンティックだね。そんなところも好きだよ」
 それまでの雰囲気を変えるように努めて明るく笑い、アルジャーノンの手を取り、ガラティーンは玄関に向かう。
「冬には一緒に狩猟に行こう」
「ああ」
「夏には海水浴。ブライトンは騒がしいかな」
「騒がしいのは苦手?」
「そうだねえ……あんまり得意ではないかなあ」
「ラムズゲイトにしてみる?」
「でもブライトンに一度行ってみたい」
 今度はガラティーンがアルジャーノンの手を引いて玄関をくぐる。
「私の本当の父上と母上が、夏には一緒にブライトンに行っていたらしくて」
「そうか。じゃあ次の夏に行ってみようか」
「うん」
 ガラティーンはアルジャーノンとつないだ手に視線を送る。そして彼の腕を軽くつついて足を止める。
「ちょっと、いいかい?」
「何?」
 足を止めたアルジャーノンとつないでいた手を、指を絡めるように握りなおす。
「こうでもいい?あまりお行儀が良くないかな?」
「君と俺との間で、お行儀だとか今さら言うかい?」
「ふふふ」
 玄関に入ってから手を繋ぎなおして満足気なガラティーンは、階段の上からダニエルが見下ろしていることにしっかり気付いていた。
「ねえ父上、コーネリアもこの手のつなぎ方、好きみたいですよ。彼女の読んでいた小説に書かれていました」
「お、お、おれにそんなことができるとおおおおもうのか」
「できるか、じゃなくてやるんですよ」
 ガラティーンはアルジャーノンとつないだ側の手を持ち上げ、アルジャーノンの指にキスをする。
「私が見本を示してあげますから、私がアルジャーノンをエスコートするように、コーネリアをエスコートしてあげてください」
 アルジャーノンはどういうつもりかと思いながらガラティーンに視線を送る。
「私のためにドレスを着てくれるかな、レディ・アルジャーノン……なんてね?」
 アルジャーノンは口が半開きになって、自分が惚れた女性は、自分の所属している部隊にいただけのことはある、という性格をしていることに改めて気づいた。
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