彼がスーツに着替えたら

森野きの子

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投げられた賽4

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 なるべく人目につかないようにと三階から二十階まで非常階段で行こうとしたが、六階で断念した。時間がかかりすぎるのと、体力が続かないと悟ったからだ。
 この際ハリウッドセレブみたいに毅然とした態度で挑んでみようかと思い直したが、ハリウッドセレブのようなスタイリッシュグラマーとは違うと諦めた。とにかくボタンは全部閉めて、前屈みで歩き出す。その姿はまるで猿人から人類へ向かうイラストの逆バージョンだった。
「あ、桐原さん。大丈夫でした?」
 エレベーターから出ると、ちょうど秘書課から出てきた立花が駆け寄ってきた。どうやら冴子を探しにきていたらしい。
 こざっぱりした短めの髪、きっちり着こなした仕立ての良いスーツ。爽やかで人懐っこい笑顔の、社内イケメンランキングでもトップ10入りの顔面実力者だ。もちろん仕事も出来る。
「あっ! はい! お陰様で!!」
 バツン!
 驚いた拍子に姿勢を正すと、ジャケットとベストの中で、シャツのボタンが弾ける音がした。


 ――――帰りたい――――。


 この声が届いたら、ハウスメーカーのCMに即採用されてもおかしくないほど切実に、冴子は思った。
 立花には聞こえていたのかいないのか、彼は冴子を見てニコッと笑った。届いていない。この切実な願いも、ボタンの弾ける音も。冴子は確信した。
「社長室で皆お待ちですよ。どうぞ」
 爽やかなよく通る声で言われ、冴子は泣きたい気持ちで笑って頷いた。

 ドアをノックすると、大槻が出てきて「どうぞ」と冴子と立花を促す。「他の方々はもう挨拶を終えてます」という何気ない一言が、冴子には最後通告のように聞こえた。さようなら、私の第一印象。こんにちは、窓際の席。
 秘書課の面々が並んでいた。御三家からは冴子への毒々しさと、元来の華やかさが滲み出ている。冴子への視線が痛い。
「遅れて申し訳ございません。桐原です」
 部屋に入るなり、冴子は身体能力測定ばりに身体を折って頭を下げ、顔を上げた。
 重厚感のある木製の応接セットと社長専用のデスクを挟んだ先に立っていた男を見た瞬間、小さな悲鳴が漏れた。何かの間違いだと思った。否、思いたかった。
 きっちり撫でつけられた髪に、一目で高価だとわかるラインの美しいスーツを着て見違えるほど洗練されているが、見間違うはずがない。あの日、うっとりと見つめた罪な目元。横顔を際立たせる高い鼻梁、肉感的でありながらスマートな口元、低く温かみのある声。忘れられるはずがない。冴子を生まれて初めて芯から蕩けさせた彼の無駄の削ぎ落とされた筋肉質な肉体がフラッシュバックする。
「おはようございます。桐原さん。。この度社長に就任した望月亮介です」
 彼は、絶句して固まった冴子から素早く目を逸らし、彼女が見たことのない、そつのないよそ行きの顔で周りを見渡す。
「それでは、後ほど順に個人面談を行います。スケジュールは以前メールで通達した通りですが、各自仕事を優先してください。都合が悪ければいつでも変更します。では、よろしく」
 冴子を除いた八人が声を合わせて頷いた。
 え。メール? 嘘。来てないよ? 確認ミス? 
 狼狽える冴子を残し、他の社員が退出していく。
「あ、あの、大槻さん。通達メールの事なのですが……」
 隣にいた大槻に小声で話しかける。
「桐原さんにはメール送ってないです。私の秘書ということで、個人面談は行いません。これから共に行動する中で、直接この目で見て知っていこうと思っています。もちろん、あなたもそのつもりで」
 亮介はそう言うと、社長用のデスクの重厚な椅子に腰を下ろした。
「―――ああ。あと。桐原さん。今のメールの件もですが、大事なことは直接本人から聞いて確認した方がよろしいかと思います。では、大槻さん。引き続き彼女へのティーチングよろしくお願いします。私はこれから午後の会議の資料のチェックをします。何かあったら、お互いすぐに知らせましょう。私からは以上です」
「御意。それでは桐原さん、参りましょう」
 冴子が口を挟む隙もなく、大槻に促され、歩き出す。退出する前にもう一度確認の為に振り返ったが、彼は既にノートパソコンに目をやっていた。冴子はどういう感情になればいいのかわからず、混乱した頭のまま、大槻の後について部屋を出た。
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