彼がスーツに着替えたら

森野きの子

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投げられた賽7

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 亮介が会議室に入ると、室内に緊張が走るのが分かった。
「お待たせしてしまって申し訳ありません。それではお願いします」
 亮介が言い、二人は席につく。
「それでは始めさせていただきます」
 と今回の進行役らしい営業課の男性社員が言った。冴子は長テーブルの上に置かれた資料を手に取り、表紙をめくって目を見張った。
「なにそれメモ帳?」
 耳元で亮介のひそめた声がした。
 “どうぞお気をつけて、新人さん”
 トイレでの松原の声が思い出される。
「社長のは?」
 見ると、彼は持参した資料を冴子に見せる。しかし、テーブルの上にある冴子が昼休みのうちに営業の本田と一緒に確認し、置いておいたはずの資料は、冴子の手元のものと同じく真っ白だった。
「歓迎されてないね。きみも、おれも」
 亮介の柔らかな低い音に、冴子の強ばった肩から少し力が抜けた。
「すみません」
 亮介が発言し、顔の隣くらいの高さで挙手すると、プレゼンをしていた男性社員の声と動きが止まる。十数名の視線が集まった。
「資料として配られた物が白紙です。予備はありますか」
「えっ! あっ、はい、ただいま」
 室内がどよめき、気まずい雰囲気になる中、凛とした振る舞いで立ち上がったのは、専務付きの松原だった。彼女は素早く亮介に資料と企画書のファイルを差し出す。
「こちらです」
「ありがとうございます。貴女のような有能な社員がいて助かりました」
 亮介が笑顔で受け取る。松原は「恐れ入ります」と軽く頭を下げた。二人のやり取りに軽いショックを受けている冴子に目配せ、自分の席に戻って行く。
「どうぞ」
 冴子の目の前に受け取ったばかりの資料が置かれる。予備も用意せずにただ横にくっついていただけの自分が恥ずかしい。立つ瀬ない気持ちで膝の上で拳を握る。
「……申し訳ありません……」
 不甲斐なさに押しつぶされた声帯からは、か細い声しかしぼりだせなかった。
 会議が終わり、冴子は亮介に言われて社長室へ同行した。
「おつかれさまでした。どうぞ座って」
 と、デスクの前の応接セットのソファを勧められる。冴子は会議室での失態の謝罪をしようと口を開いた。
「あ、あの社長……」
「どうぞ」
 強められた声に思わず怯み、口を噤んで従った。
「そして、そのシャツ、あらぬことを疑われると困るので気をつけてください」
「あ……、申し訳ありません」
 肘掛けの傍に畳んでおいた冴子のシャツがあった。そういえば、慌ててたから置きっぱなしだった、と、ここでも自らの詰めの甘さを目の当たりにして落ち込む。
「桐原さんへの嫌がらせだったのでしょうが、一番迷惑を被ったのは企画主催した営業の本田さんでしたね」
「そうです、ね」
 亮介はリクライニングチェアを倒しながら長い息を吐く。
「それにしても松原さん、見事でした。抜かりなく予備も用意してあって」
「私の思慮が至らず……申し訳ありませんでした」
「不測の事態というものだったのでしょう。今回は仕方ない。大槻さんが私の分の資料は用意していたので私自体にはなんの問題はなかった」
 不測の事態に備えるのが秘書の役割なのではないかと思うが何か言える立場にないので頷いた。
「はい。せめてもの救いです。そういえば大槻さんは? お姿が見えないのですが……」
「午後休を取ってます。彼がいないと不安ですか?」
「……私では社長の秘書は務まらないのではないかと思っています」
「そうですか。それでは松原さんに代わってもらいますか?」
「え……」
 亮介は無表情で冴子を見ていた。
「そうなったら、代わりに専務の秘書はあなたがするんですか。社長秘書は無理で専務秘書なら務まるとでも仰るんですか」
「い、いいえ。申し訳ありません。失言でした」
「まだ慣れない場所で大変な事は私もよくわかっているつもりです。寄る辺ないのは私も同じです」
「社長……」
「ただ私には強大な後光が差してるので、そんじょそこらに怖いものはないのですが」
 と、不敵でいて自嘲的とも言える笑みを浮かべる。
「この会社の人間は私の機嫌を損ねるような真似はできない」
 亮介は人差し指を上に向け、二、三度振って、冴子を呼ぶジェスチャーをした。冴子は戸惑いながら、亮介の傍へ歩く。亮介はもっと傍へ来るように顎で促す。冴子が指示通りにすると、手を引いて、後ろ向きに膝の上に座らせた。そして耳元で囁く。
「おれがきみを懇意にしていることを示せば、誰も手出しはできなくなる」
 冴子はビクリと肩を竦めた。自らの勘違いで一度は離れたが真心からの好意を示しあった仲だとは思えないほど、血の通っていない声だった。


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