彼がスーツに着替えたら

森野きの子

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蟷螂の斧2

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 スプリングコートで、ちぐはぐなスーツを隠す。ウエストバンドがお腹に食い込んで苦しい。ワンサイズ下はさすがに無理がある。お腹を引きしめなるべく縦に伸びるようにしていたが、さすがにキツい。コートの下だし、見えないよね。冴子はこっそりホックを外す。それだけで随分楽になった。車を手配し、亮介と並んで後部座席に座る。
「お約束の時間まであと一時間と少しあります。ここからホテルまで十分程度ですが」
 スケジュール帳を再度確認しながら亮介にいう。亮介は冴子を横目で見て、フッと息を吐いた。そして運転手にいう。
「澤田さん。高村屋まで行ってもらえますか」
「かしこまりました。いつもの場所でよろしいですか」
「時間がないので表からで結構です」
「かしこまりました」
「今から百貨店に寄るんですか? 手土産なら亀屋のどら焼きを用意してありますが」
「そうではなくて、そんな格好の秘書を連れて歩いていたら私の品性が疑われます」
「えっ、あっ! そうですよね! でしたら一旦家に戻って着替えてもよろしいでしょうか?」
 ぱん、と手を叩き、冴子は目を輝かせる。
「申し上げにくいのですが、リクルートスーツに毛が生えた程度の格好じゃ困るんですよね」
「んなっ! 失礼な!」
「それに、あなたの家まで行って戻る時間があるとでも? 高村屋ならここから十分程度だ。そこからホテルまでも歩いたって十分もかからない」
「ですが、私、その、持ち合わせが……! クレカも持ってないですし! なんなら今日使えない制服を購入してしまって」
 亮介が冴子の腕をグッと掴んで耳元に顔を寄せる。
「大丈夫。おれが買い取る。コスプレセックスしよう」
 ひそひそと小声でとんでもないことを注ぎ込まれて仰天した。
「わあああああ!! うわあ!」
「存外騒がしいですね、桐原さん」
 冴子は耳を押さえて亮介から離れる。澤田の手前、変態ともドスケベともセクハラとも罵れない。顔を真っ赤にして慌てている冴子を見て亮介は吹き出す。
「制服だから部屋に置いてても怪しまれなさそうだしねぇ」
 と、窓の方を見やりながら飄々という。
「ちょ、あ、あの! えっ、りょ、いや、社長!?」
「落ち着いてください」
「無理ですが?」
「耐性が低いんですね」
 手の甲で口元を押さえ、笑いを噛み殺しているのが見える。
「公私混同しないでください……!」
「合間の雑談ですよ」
「適当なこと言って……!」
 冴子はそっぽを向いて距離を置く。亮介が声を殺して笑っているのが気配でわかる。
 百貨店の前のスクランブル交差点の信号で引っかかったので車を降りることにした。
「急ごう」
 亮介が冴子の手を取り走り出す。そして連れていかれたのは、イタリアのモードを代表するブランドの店。唖然と立ちすくむ冴子の腕を引き、亮介は中へ入る。
「いらっしゃいませ。望月様」
「こちら、私の秘書なのですが、申し訳ないが、急ぎで彼女に合ったものを一式用意してもらっていいですか?」
「かしこまりました。では、どうぞこちらへ」
 と、冴子をエスコートする。亮介のほうを振り向いた彼女はまるで初めての万引きが見つかった少女のように怯えている。が、亮介はそれを笑顔で見送る。
「お飲み物をご用意なさいますか」
「いえ、結構です。月曜日から金曜日までの分、彼女の好みも踏まえて、仕事に使えて着回しもできるもので見繕っておいてください。彼女が迷ったら両方購入ということで。私は少し席を外します。終わったら連絡をください」
「かしこまりました」

「こちらはいかがでしょう」
 採寸を終え、店員が持ってきたひと揃えを見て冴子は絶句した。ジャケット一つでひと月と半分の月給が飛ぶ。しかも縛りでもあるのかと思うほど、どれもシルクかカシミアだ。
(クリーニング代……!)
 と白目を剥きそうになる。店員は何故か何枚も次から次へとジャケットやパンツやスカート、カットソーやサマーニットを持ってきてはフィッティングさせる。そして尋ねるのだ。「いかがでしょう」「お好みは?」と。彼女は冴子の意志を聞き出そうと丁寧に話しかけるが、緊張と維持費の事で頭がいっぱいになって生返事しか返せない。お好みは、形状記憶とウォッシャブルとリーズナブルです。と頭の中では喚き散らしている。
「お願いします。この中で私が着てておかしくなくて、社長に恥をかかせないものを、とりあえず一つだけ選んでください」
「ですが、お客様。望月様からのご伝言で、一週間分のひと揃えをと仰せつかっておりますが……」
 目眩がした。本当に膝をつきそうになった。カシミアとシルクを一週間……? クリーニング代! 家で洗えない! と脳内では泣き叫んでいる。
「ごめんなさい。今すぐに決められないんです。でも、このセットは気に入りました。ありがとうございます。時間もないのでこれで」
 と、個室かと思うようなフィッティングルームを出て、亮介の姿を探す。見当たらない。とりあえず服は決まったのに出ることができない。慌てて社用のスマートフォンで電話をかけようとしたところで亮介が戻ってきた。藁にすがるように冴子は亮介に駆け寄る。
「いったい、これ、どうしたらいいんですか!?」
「決まった? お。いいねえ。似合う似合う」
「え、そうですか? ありがとうございます」
「じゃ、ちょっと支払いしてくるから先に車戻ってて」
「でも、こんな高価なもの……」
「気にしなくていいって」
「気にしますよ! 私の生活水準じゃないので困るんですよ!」
「給料も上がるから大丈夫だろ」
「え。本当ですか? じゃなくて! これ全部で年収の三分の一くらい飛んじゃうんですけど……! そんな不相応なものを買っていただく訳には……!」
「こんなところでそんな話やめよう?」
 全て小声だったが、言われてみればそうだ。冴子は、口元を押え俯く。亮介は店員の方へ行く。そして、会計を提示され、
「え」
 と、冴子のほうを振り向く。話が違うだろうと目が言っている。冴子は曖昧な笑みを浮かべ、そそくさと店を飛び出した。
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