2 / 4
初恋雪華
しおりを挟む
おはつは、震える足をどうにか繰り出し、町をかけていた。小間物屋は年増から若い女たちで混んでいた。番頭も奉公人たちも他の接客に忙しそうだった。女たちは流行りの簪や紅や白粉に夢中だった。楽しげな声に酔って、きらきらと目に映る簪につい、手が伸びた。
先日、町を歩いていた同じ年頃の大店のお嬢さんがめかしこんで何処かへ行くのを見かけた。色鮮やかな着物と、きらきらと光る流行りの簪に目を奪われた。
はつが五つのときに父親が死んだ。翌年、母親は勤め先の小料理屋で出会った若い男と姿をくらませた。裏長屋での舅の太兵衛と幼い娘と暮らしていくことに嫌気が差して早々に見切りをつけたのだろう。祖父の太兵衛は腕のいい大工だったが、屋根から転落して右足の骨を折って以来、仕事が減ってしまった。はつは十三から水茶屋で働き始め、もうニ年になる。器量は悪くないが引っ込み思案で、愛想笑いの一つもできず、客あしらいにまごついてしまうため、看板娘の座は一つ年上のおちかに譲っている。おはつの初心な反応をあえて楽しむ輩もいて、わざとからだに触られて驚いて泣いてしまったこともある。
いったいどれほど走ったのだろうか。表店の脇で足を止め、すっかり上がった息を整えようと天を仰ぐ。荒い呼吸を繰り返し、吸い込んだ冷たい空気に肺が痛む気がした。震える手で袂から簪を出した。
陽の光を反射して雪華模様の飾りが揺れて光る。その光が一層視界の中で眩く痛いほど燦めいた。
(なんてことをしてしまったんだろう)
自分のしでかしたことの重大さに、胸を押しつぶされてしまいそうだった。
「泣くくれぇなら、ハナから盗んだりすんじゃねえ」
背後から咎める低い声がして、はつは弾かれたように振り向いた。
職人の格好をした若い男が、苦虫を噛み潰したような顔ではつを睨んでいる。どうやら小間物屋の人間ではないようだが、はつを追ってきたことに違いなさそうだった。
「ご……、ごめんなさい。あ、あたし……」
「それな、おれが作ったんだ。常陸のどっかの殿様が流行らせた雪の図案を元にな」
男は、はつを眺める。愛らしい顔立ちをしているが、ふっくらとした頬は色を失っている。目にはなみなみと涙を溜めて、全身が震えている。着ているものも貧相な古着で髪に飾り気もない。
「ちょうど、さっきの伊都屋に品物を納めに行ったところだった。そいつァ一等良い出来でよ。店先も賑わってたから、どんな嬢ちゃんに買われていくかって見てたんだ。そしたらあんたが袂にいれてくのが見えた」
「ごご、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
はつの頭の中は罪の意識としでかしたことの申し訳無さで溢れかえり、ただただ謝りの言葉しか出てこなかった。男は、ぼろぼろと涙をこぼし必死に謝り続けるはつの手から、簪を取り上げた。
「ねえちゃん、こいつをちゃあんと見たのか?」
と、目を見開いたはつの目の前に簪を掲げる。
はつは袖で涙を拭い、簪をまじまじと見つめた。日に、垂れた雪華模様の飾りがちかちかと光る。ふと、その向こうの男のほうに焦点があった。キリッとした意志の強そうな眉に、薄い二重の涼しげな目元、そして鼻筋の通った高い鼻梁。おはつと目を合わせると、ニヤリと得意げに笑った。
「どうだ? いい仕事してるだろ」
「あ……。はい。この簪が、とてもきらきらしていて、あたし、つい……。ごめんなさい……」
走ってきたからでも、罪悪感からでもない動悸がして、はつは狼狽した。
「いいかい、ねえちゃん。いくら物がよく見えたってこんなこと、もうしちゃあなんねぇよ」
男は真顔でいうと、深く頷いたはつを見て、険しい顔を解いた。
「これは預かっておれから伊都屋さんへ返しとくよ」
男はそういうと、懐から出した手拭いに簪を包んで再び懐へ仕舞った。すっきりとした月代に斜めに締めた鉢巻、屋号の入った印半纏に細身の股引きが粋だった。
「ありがとうございます。あの、あたしがこんなことを聞ける立場じゃないのはわかってるんですが、あにさんのお名前と工場を教えてはもらえませんでしょうか」
はつの胸は張り裂けそうなほど高鳴っていた。水茶屋に来る男たちにも長屋の亭主たちにも自ら声をかけたことはなかった。
「おれか? おれァ弥吉ってんだ。箱崎町でよ、錺り職人やってんだ」
と、屋号の入った襟を見せた。
「あたし、はつです」
「おはつちゃんか」
弥吉に名前を呼ばれると、今まで冷えていた頰が温む気がした。
「両国橋のたもとの水茶屋で働いてます」
「へえ。どうりで器量良しと思った。けどな、おはつちゃん、こんな状況で身元を明かしちゃなんねぇよ。おれが悪い男だったら今日の件で店へ行って金を強請るかもしんねぇぞ」
おはつはビクリと身をすくませ弥吉を見る。
「今度茶の一杯でも強請りに行くかな」
と弥吉は眉尻を下げて笑った。
「あの、弥吉さん。本当にすみませんでした」
「本当だよ。おれが丹精込めて仕上げた一品だってのに、盗んでいきやがってこの泥棒猫め」
弥吉は軽口のつもりだったが、おはつはとことん懲りたらしく、ひどく落ち込んだ。
「もう、しません」
涙を溜めて俯くおはつに、故郷の妹がだぶって見えた。弥吉は房総の漁村で生まれたが、暮らしがままならず、両親が亡くなったのを機に、十七で江戸に移り住んだ。二つ下の妹のちかは十の時に買われていった。生きているのなら二十になる。両親は妹の行先を教えてくれはしなかった。おはつの肩を軽くぽんぽんと二度ほど叩く。
「わかったからよ。泣くんじゃねえよ、おはつちゃん」
「……はい」
おはつが涙を拭うと、弥吉は笑ってみせ、もと来た道を戻っていく。
はつは、屋号を背負った広い背中を、見えなくなるまで見送った。
*****
あれからひと月ほど経った。師走に入り、気忙しくなった町につられるように歩いていた弥吉は、ふと足を止め、懐に忍ばせた手拭いにそっと手を当てた。
余った銀で拵えた簪だが、おはつのみずみずしい黒髪によく似合うだろう。
妹のおちかがだぶって見えたせいか、なんとなくおはつのことが気にかかって仕方がない。
簪も、手慰みに拵えたわりに、良いものができたが、手放しに自画自賛はできない。
泣き顔を見たあとは、笑顔が見たい。という気持ちに嘘はないが、純粋とは言い難い。
初心そうにみえたが、水茶屋で働いていると言っていたから、さぞかし色んな男を見ているだろう。そんなことまで考えて我に返る。年頃の娘が洒落た簪の一つも持てず、思いあまって盗みを働いた。それを不憫に思ってのことだろう。と自分に言い聞かせる。
両国橋のたもとの水茶屋は、それなりに繁盛していた。江戸に来て六年経ったが、江戸らしいところへ出歩いたことがなかった。岡場所に誘われることもあったが、そういうところで遊んでしまうと妹の不仕合わせに加担してしまう気がして行く気になれなかった。
とはいえ、弥吉も男だ。そういう欲求がないわけではない。幸いなかなかの男ぶりで、裏長屋の未亡人や暇を持て余した御内儀さんなどから声をかけられた。勘も物覚えもよく、顔もモノもいいとあって一時は小遣い稼ぎすらできたが、兄弟子からあらぬ疑いをかけられ、親方に咎められてからはすっぱり辞めた。それからといえば、どうしようもなくて蒟蒻を温めたこともある。
「いらっしゃい」
水茶屋『このえ』の暖簾から中を覗こうと近づいた隙にさっそく声をかけられた。おはつではない。少し目元がきつめの美人だった。こちらを見るなり妖しげに微笑む。おはつとあまり変わらなさそうな年頃に見えたが、男の気の惹き方を知っている。弥吉が中へ入ると席へ案内した。あめ湯を注文し、おはつというおなごはいるかと訊ねると、娘は面白くなさそうに愛想笑いをやめて奥に引っ込んだ。
「あんた、おちかちゃんじゃなくおはっちゃんが目当てかい」
側にいた商人風の男が、見ない顔だけど、と続け、ニヤけた顔で隣に腰かけた。
「さっきの娘はおちかというのか」
妹と同じ名前だが、似ても似つかない。
「……ちか」
伏せた瞼の裏に、まだ幼かった妹の顔が浮かぶ。
「弥吉さん?」
目をひらいて顔をあげると、少し曇った顔のおはつが立っていた。弥吉の前に小さな盆に乗ったあめ湯を置く。
「おちかさんが良ければ、呼んできましょうか」
「いいや、用があるのはおめぇのほうさ」
懐から手ぬぐいを抜き、開いて簪を見せた。おはつが小さく叫び、両手で口許を押さえる。
「あたしが、貰っても?」
仔鹿のような目が潤んでいる。
「余った材料で拵えたんだ。遠慮するこたねぇ」
弥吉は立ち上がって、持っていた簪を涙を拭うのに頭を垂れたおはつの髷に挿してやった。
「おめえさん、やるな」
商人風の男が感心したように弥吉に言った。
「なぁに。おらぁ錺職人よ。簪の一本や二本作るのなんざ大したこたねぇ」
弥吉は得意げに言うと、男は顔をしかめて言った。
「おめえ、まさかと思うが、男が女に簪を贈ることがどういうことか知らねえわけじゃねえよな?」
「いや、この嬢ちゃんがおれの作った簪を気に入ったみてぇだったから、よ……」
と尻すぼみに言って弥吉は口を噤んだ。目の前の男も、こちらを伺っていた男たちも、遠巻きに見ていた女将もおちかも、みんながみんな、なにか言いたげに呆れた顔をしている。
「とんだ野暮天だ」
「あーあ。おはっちゃん、可哀想になあ」
「簪を贈る意味も知らねぇなんざ」
口々に野暮だ莫迦だと罵られ、弥吉も頭に血がのぼる。
「なんでぇなんでぇうっせえな! なんの文句があるってんだ! コイツぁな、銀で拵えた一品物よ。この雪華模様をみてみろ! そんじょそこらのどの簪よりもおはつの黒髪によぉく似合ってんだろうが!」
弥吉の啖呵に今度はどっと冷やかしが沸く。
「ちゃんと守ってやれよ! この野暮天!!」
と野次が湧く。
「弥吉さん」
涙声に呼ばれ、ハッと顔を向けると、おはつが半泣きで嬉しそうに笑っている。
「あたし、ちゃんと似合ってますか?」
ちらちらと光をまき散らす雪華模様の細工より、笑顔に散る涙のほうが、ずっと眩しく弥吉の目には映るのだった。
先日、町を歩いていた同じ年頃の大店のお嬢さんがめかしこんで何処かへ行くのを見かけた。色鮮やかな着物と、きらきらと光る流行りの簪に目を奪われた。
はつが五つのときに父親が死んだ。翌年、母親は勤め先の小料理屋で出会った若い男と姿をくらませた。裏長屋での舅の太兵衛と幼い娘と暮らしていくことに嫌気が差して早々に見切りをつけたのだろう。祖父の太兵衛は腕のいい大工だったが、屋根から転落して右足の骨を折って以来、仕事が減ってしまった。はつは十三から水茶屋で働き始め、もうニ年になる。器量は悪くないが引っ込み思案で、愛想笑いの一つもできず、客あしらいにまごついてしまうため、看板娘の座は一つ年上のおちかに譲っている。おはつの初心な反応をあえて楽しむ輩もいて、わざとからだに触られて驚いて泣いてしまったこともある。
いったいどれほど走ったのだろうか。表店の脇で足を止め、すっかり上がった息を整えようと天を仰ぐ。荒い呼吸を繰り返し、吸い込んだ冷たい空気に肺が痛む気がした。震える手で袂から簪を出した。
陽の光を反射して雪華模様の飾りが揺れて光る。その光が一層視界の中で眩く痛いほど燦めいた。
(なんてことをしてしまったんだろう)
自分のしでかしたことの重大さに、胸を押しつぶされてしまいそうだった。
「泣くくれぇなら、ハナから盗んだりすんじゃねえ」
背後から咎める低い声がして、はつは弾かれたように振り向いた。
職人の格好をした若い男が、苦虫を噛み潰したような顔ではつを睨んでいる。どうやら小間物屋の人間ではないようだが、はつを追ってきたことに違いなさそうだった。
「ご……、ごめんなさい。あ、あたし……」
「それな、おれが作ったんだ。常陸のどっかの殿様が流行らせた雪の図案を元にな」
男は、はつを眺める。愛らしい顔立ちをしているが、ふっくらとした頬は色を失っている。目にはなみなみと涙を溜めて、全身が震えている。着ているものも貧相な古着で髪に飾り気もない。
「ちょうど、さっきの伊都屋に品物を納めに行ったところだった。そいつァ一等良い出来でよ。店先も賑わってたから、どんな嬢ちゃんに買われていくかって見てたんだ。そしたらあんたが袂にいれてくのが見えた」
「ごご、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
はつの頭の中は罪の意識としでかしたことの申し訳無さで溢れかえり、ただただ謝りの言葉しか出てこなかった。男は、ぼろぼろと涙をこぼし必死に謝り続けるはつの手から、簪を取り上げた。
「ねえちゃん、こいつをちゃあんと見たのか?」
と、目を見開いたはつの目の前に簪を掲げる。
はつは袖で涙を拭い、簪をまじまじと見つめた。日に、垂れた雪華模様の飾りがちかちかと光る。ふと、その向こうの男のほうに焦点があった。キリッとした意志の強そうな眉に、薄い二重の涼しげな目元、そして鼻筋の通った高い鼻梁。おはつと目を合わせると、ニヤリと得意げに笑った。
「どうだ? いい仕事してるだろ」
「あ……。はい。この簪が、とてもきらきらしていて、あたし、つい……。ごめんなさい……」
走ってきたからでも、罪悪感からでもない動悸がして、はつは狼狽した。
「いいかい、ねえちゃん。いくら物がよく見えたってこんなこと、もうしちゃあなんねぇよ」
男は真顔でいうと、深く頷いたはつを見て、険しい顔を解いた。
「これは預かっておれから伊都屋さんへ返しとくよ」
男はそういうと、懐から出した手拭いに簪を包んで再び懐へ仕舞った。すっきりとした月代に斜めに締めた鉢巻、屋号の入った印半纏に細身の股引きが粋だった。
「ありがとうございます。あの、あたしがこんなことを聞ける立場じゃないのはわかってるんですが、あにさんのお名前と工場を教えてはもらえませんでしょうか」
はつの胸は張り裂けそうなほど高鳴っていた。水茶屋に来る男たちにも長屋の亭主たちにも自ら声をかけたことはなかった。
「おれか? おれァ弥吉ってんだ。箱崎町でよ、錺り職人やってんだ」
と、屋号の入った襟を見せた。
「あたし、はつです」
「おはつちゃんか」
弥吉に名前を呼ばれると、今まで冷えていた頰が温む気がした。
「両国橋のたもとの水茶屋で働いてます」
「へえ。どうりで器量良しと思った。けどな、おはつちゃん、こんな状況で身元を明かしちゃなんねぇよ。おれが悪い男だったら今日の件で店へ行って金を強請るかもしんねぇぞ」
おはつはビクリと身をすくませ弥吉を見る。
「今度茶の一杯でも強請りに行くかな」
と弥吉は眉尻を下げて笑った。
「あの、弥吉さん。本当にすみませんでした」
「本当だよ。おれが丹精込めて仕上げた一品だってのに、盗んでいきやがってこの泥棒猫め」
弥吉は軽口のつもりだったが、おはつはとことん懲りたらしく、ひどく落ち込んだ。
「もう、しません」
涙を溜めて俯くおはつに、故郷の妹がだぶって見えた。弥吉は房総の漁村で生まれたが、暮らしがままならず、両親が亡くなったのを機に、十七で江戸に移り住んだ。二つ下の妹のちかは十の時に買われていった。生きているのなら二十になる。両親は妹の行先を教えてくれはしなかった。おはつの肩を軽くぽんぽんと二度ほど叩く。
「わかったからよ。泣くんじゃねえよ、おはつちゃん」
「……はい」
おはつが涙を拭うと、弥吉は笑ってみせ、もと来た道を戻っていく。
はつは、屋号を背負った広い背中を、見えなくなるまで見送った。
*****
あれからひと月ほど経った。師走に入り、気忙しくなった町につられるように歩いていた弥吉は、ふと足を止め、懐に忍ばせた手拭いにそっと手を当てた。
余った銀で拵えた簪だが、おはつのみずみずしい黒髪によく似合うだろう。
妹のおちかがだぶって見えたせいか、なんとなくおはつのことが気にかかって仕方がない。
簪も、手慰みに拵えたわりに、良いものができたが、手放しに自画自賛はできない。
泣き顔を見たあとは、笑顔が見たい。という気持ちに嘘はないが、純粋とは言い難い。
初心そうにみえたが、水茶屋で働いていると言っていたから、さぞかし色んな男を見ているだろう。そんなことまで考えて我に返る。年頃の娘が洒落た簪の一つも持てず、思いあまって盗みを働いた。それを不憫に思ってのことだろう。と自分に言い聞かせる。
両国橋のたもとの水茶屋は、それなりに繁盛していた。江戸に来て六年経ったが、江戸らしいところへ出歩いたことがなかった。岡場所に誘われることもあったが、そういうところで遊んでしまうと妹の不仕合わせに加担してしまう気がして行く気になれなかった。
とはいえ、弥吉も男だ。そういう欲求がないわけではない。幸いなかなかの男ぶりで、裏長屋の未亡人や暇を持て余した御内儀さんなどから声をかけられた。勘も物覚えもよく、顔もモノもいいとあって一時は小遣い稼ぎすらできたが、兄弟子からあらぬ疑いをかけられ、親方に咎められてからはすっぱり辞めた。それからといえば、どうしようもなくて蒟蒻を温めたこともある。
「いらっしゃい」
水茶屋『このえ』の暖簾から中を覗こうと近づいた隙にさっそく声をかけられた。おはつではない。少し目元がきつめの美人だった。こちらを見るなり妖しげに微笑む。おはつとあまり変わらなさそうな年頃に見えたが、男の気の惹き方を知っている。弥吉が中へ入ると席へ案内した。あめ湯を注文し、おはつというおなごはいるかと訊ねると、娘は面白くなさそうに愛想笑いをやめて奥に引っ込んだ。
「あんた、おちかちゃんじゃなくおはっちゃんが目当てかい」
側にいた商人風の男が、見ない顔だけど、と続け、ニヤけた顔で隣に腰かけた。
「さっきの娘はおちかというのか」
妹と同じ名前だが、似ても似つかない。
「……ちか」
伏せた瞼の裏に、まだ幼かった妹の顔が浮かぶ。
「弥吉さん?」
目をひらいて顔をあげると、少し曇った顔のおはつが立っていた。弥吉の前に小さな盆に乗ったあめ湯を置く。
「おちかさんが良ければ、呼んできましょうか」
「いいや、用があるのはおめぇのほうさ」
懐から手ぬぐいを抜き、開いて簪を見せた。おはつが小さく叫び、両手で口許を押さえる。
「あたしが、貰っても?」
仔鹿のような目が潤んでいる。
「余った材料で拵えたんだ。遠慮するこたねぇ」
弥吉は立ち上がって、持っていた簪を涙を拭うのに頭を垂れたおはつの髷に挿してやった。
「おめえさん、やるな」
商人風の男が感心したように弥吉に言った。
「なぁに。おらぁ錺職人よ。簪の一本や二本作るのなんざ大したこたねぇ」
弥吉は得意げに言うと、男は顔をしかめて言った。
「おめえ、まさかと思うが、男が女に簪を贈ることがどういうことか知らねえわけじゃねえよな?」
「いや、この嬢ちゃんがおれの作った簪を気に入ったみてぇだったから、よ……」
と尻すぼみに言って弥吉は口を噤んだ。目の前の男も、こちらを伺っていた男たちも、遠巻きに見ていた女将もおちかも、みんながみんな、なにか言いたげに呆れた顔をしている。
「とんだ野暮天だ」
「あーあ。おはっちゃん、可哀想になあ」
「簪を贈る意味も知らねぇなんざ」
口々に野暮だ莫迦だと罵られ、弥吉も頭に血がのぼる。
「なんでぇなんでぇうっせえな! なんの文句があるってんだ! コイツぁな、銀で拵えた一品物よ。この雪華模様をみてみろ! そんじょそこらのどの簪よりもおはつの黒髪によぉく似合ってんだろうが!」
弥吉の啖呵に今度はどっと冷やかしが沸く。
「ちゃんと守ってやれよ! この野暮天!!」
と野次が湧く。
「弥吉さん」
涙声に呼ばれ、ハッと顔を向けると、おはつが半泣きで嬉しそうに笑っている。
「あたし、ちゃんと似合ってますか?」
ちらちらと光をまき散らす雪華模様の細工より、笑顔に散る涙のほうが、ずっと眩しく弥吉の目には映るのだった。
0
あなたにおすすめの小説
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる