江戸ごよみ

森野きの子

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だるま落とし

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 同じ水茶屋で働いていたおはつが錺職人の男と所帯を持つことになり、店をやめた。ちかは、有名な絵師の浮世絵にもなるほどの人気だったが、はつのあとに入った年下のみつに看板娘の座を奪われそうになっている。家に帰れば、父親が待ちかまえており、彼女のわずかばかりの稼ぎを酒代にしてしまう。母親は彼女が十の時に流行り病で死んでしまった。
 せっかく稼いだ金をすべてとられるのは癪だからと、水茶屋の女将に半分預かってもらっていたのだが、娘の稼ぎがこんなに少ないはずがないと父親が怒鳴り込んだせいで、それもできなくなった。しかたがないので賃金の一部を町外れにある寺まで行き、そこで知り合った小僧に預かってもらうようにした。もちろん預かり料を取られるので、ちかの取り分はずいぶん少なくなるが、父親の酒代にされるよりはましだった。
 寺には、斎淳さいしゅんという住職がおり、ちかの知り合いの小僧の春光しゅんこうと二人で暮らしている。歳は二十八。もともと旗本の次男坊だったという。物静かで穏やかで清廉さが佇まいに滲み出た男だった。
 前の住職が吉原で捕らえられ、島流しにされた後、荒屋のようになっていた寺を引き継ぎ、斎淳自ら二年ほどかけて廃材をもらい、近所の大工に教えを請い、質素ながら小綺麗な本堂に建て替えた。二つのときに寺に捨てられた春光は今年で十になる。斎淳のことを兄のように慕っているのがよくわかる。斎淳もまたきちんと春光の面倒をよく見ていた。ちかには生意気な口をきく春光だが、斎淳のいうことは素直によく聞いた。斎淳は近くの町民だけでなく周辺の集落に赴き、男女身分問わず死者があれば念仏を唱え、請われれば文字や読み書きを教え、説法を聞かせた。常に身綺麗にし、普段は早朝から夜更けまで勤めをこなす。ちかと春光が無邪気に戯れるのを、少し離れたところから穏やかな微笑を浮かべて見守るような男だった。

 ちかは十二のとき、父親が留守中に押し入ってきた男に襲われたことがある。珍しいことではなかった。近所の年上の女房から一つの通過儀礼のようなものだと教えられた。嫌だろうと悲しかろうと、誰もまともにちかの言葉を聞いてくれる者はいなかった。酒乱の父から暴力をふるわれたり、店に訪れる男たちから身体を触られたりは日常茶飯事で、気に病むだけ生きづらくなるだけだといつの間にか諦めた。傷をつけられないために受け流すのが、自分を守る術だった。なんなら逆手に取るように自ら男を誘い、手荒に扱われないようにするほうがましだった。求められれば、よっぽどでない限り、男たちと寝た。そうしていくうちに、はぐらかし方も関心の惹き方も身体で覚えた。
 斎淳の眼差しは常に穏やかで、いっそちかに対して無関心のようにも見えた。
 はじめから他の男たちとは違う斎淳のことが気になっていた。春光に金を預けに行く目的は、本当は斎淳に一目会うためだった。ちかと斎淳が言葉を交わすことはそうない。なんだかやけに意識してしまい、挨拶くらいで精一杯なのだ。目を合わすことすら気恥ずかしい。その真心の反面、普段の男たちと関わっている自分を試してみたい気もしていた。

 ある日のことだった。ちかはいつものように賃金を預けに寺へ向かっていた。
 梅雨時期らしく朝から黒い雲が低く垂れ込めていたが、昼を過ぎても雨が降る気配はまだ遠かった。
 日が暮れかけ、辺りは薄暗く、雷鳴が轟き、風が冷たくなった。まだ間に合うだろうと駆けていったのだが、寺が目前に見えた時、あっという間に土砂降りになった。
「春光」
 本堂の軒下で何度か呼び続けて、ようやく出てきたのは、斎淳だった。薄暗いなかに仄かな光を放つような青白い顔をしていた。
「春光なら今日はいないよ」
「えっ」
「下落合の方の寺へ使いにやってしまってね。帰るのは明日だ」
「そんな……」
「こんな日にまで遊びに来るなんて、ずいぶん仲がいいんだね」
 斎淳はちかが春光に金を預けに来ていることを知らない。
「そんなんじゃないけど……」
 どきどきと高鳴る胸とは裏腹に冷えた肩がぶるりと震える。少しの間の後、斎淳が言った。
「こちらへおいで。火鉢がある」
 雨は乱暴に屋根や戸口を叩き、辺りは薄灰色にけぶって何も見えないほどだった。
 通されたのは、本堂の裏にある居住地だった。土間に炊飯場があり、十畳ほどの板張りの間があった。斎淳と春光が寝食を営む場所なのだろう。かすかな香に混じり、男の匂いがした。斎淳は手ぬぐいと羽織るものをちかに渡して、湯を沸かし始めた。
「春光になにか用があったのかい」
 柔らかな口調は相変わらずだ。答えに窮して黙っていると、斎淳は背を向けたまま、茶碗に湯を注ぎ、また口を開いた。
「まさかと思うけど、なにか私に言えないことをしていないだろうね」
 僅かながら、ちかを咎めるような言い方だった。
「……斎淳さんは、あたしが、春光に悪い遊びを教えてるとでも思ってるんですか?」
「いや……」
「斎淳さんのかわいい春光にちょっかいを出す女狐だとでも?」
 振り向いた斎淳のうつむき加減の眼差しが心なしか鋭く見えて、ちかはぞくりとした。
「……春光と私はそういうのではないよ」
「あたしと春光だってやましいことはありませんよ。ただ春光にあたしの大事なものを預かってもらってるだけ」
「大事なもの?」
 蝋燭に伸びた影のせいだろうか、茶を目の前に差し出してくれた斎淳がやけに大きく感じて、ちかは思わず息を呑んだ。
「あたしが稼いだ金を親父の酒代にされないよう春光に預けてるんですよ」
「春光に? いつから?」
「もう二年近くになります」
「そんなにかい?」
 斎淳は眉をひそめてなにか考え込むように腕を組んだ。
「斎淳さん?」
「そんなに長い間預かっているなら私に隠していられまいに、そんな痕跡はどこにもない」
「え……」
「ご覧の通りここが私達の住まいだ。本堂の方もそう広くない。もしかしたら春光だけの隠し場所があるのやも知れぬが……、そんなに長い間預かっているなら、隠し場所に困るのではないと思ってね。私の思い違いならいいのだが。春光が帰ったら聞いてみよう」
「そうしてください。斎淳さんに最初から疑われちゃ春光が可哀想」
「おちかさんの言うとおりだ。私としたことが、春光にひどいことをしてしまった」
 斎淳に言われ、ちかも内心穏やかではいられなかった。しかし、春光を疑うのも正しくない気がした。沈黙が良くない。黙っているから悪い想像をしてしまう。そんなことを思い、ちかはなにか話そうと斎淳を盗み見た。
 蝋燭の灯りに照らされた額や鼻梁の陰影が造形の良さを引き立てる。澄んだ空気を纏うその佇まいは、白い蓮の花を思わせる。
 ちかの周りにいる泥臭い男たちとは大違いだ。
 この男が、劣情に心を乱されることがあるのだろうか。弥勒菩薩のような伏せたまなこが、獰猛に輝き、女を見下ろすことがあるのだろうか。そんなことを思いながら、ちかは斎淳を眺める。
 春光に向ける慈愛に満ちた眼差しを羨ましく思うこともある。しかし、奥に潜むちかの女の性がそれじゃつまらないと唾を吐いた。
「斎淳さん」
 思ったより自分の声が響いた。
「……なにか」
 斎淳は微笑を浮かべて応える。
「襦袢まで濡れてしまって、すごく寒いんです。乾かしたいのだけれど、いいかしら?」
「え……」
 簡素な小袖の帯を解き、襟を開く。
「なにか掛けるもの貸してくださる?」
「あ、ああ」
 斎淳は慌てた様子で立ち上がり、衣紋掛けを用意する。ちかはその広い背中に近づき、囁きかけた。
「斎淳さん、襦袢の紐が濡れて固くなって解けないんです。解いてくださいな」
 斎淳が振り向いた。
「……私をからかっているのか?」
 斎淳の眼は怒りに燃えている。ちかは急に心細くなった。目頭が痛む。
「……まさか。死ぬまでに一度くらい、自分が惚れたひとに抱かれてみたいと思っただけ」
 冷えた頬に流れた涙が熱い。
「そんな悲しいことをいうもんじゃない」
 斎淳も泣きそうな声だった。
「あたし、女に生まれてきて、いいことなんかひとっつもなかった。女は死んでも、男に生まれ直さなきゃ、成仏もできないんでしょ!? なんでこんな嫌な思いして生きていかなきゃなんないの!?」
「男に生まれても、そういいことばかりじゃないよ。武家の長男は家を継げるが、次男三男なんか、よほど運が良くなきゃ日の目を見ることもない。運良く召し出されて新たに家名を立てられれば最高だが、ほとんどが実家の部屋住みか、婿養子か、最悪、脱藩するか、私のように出家するかだ。希望なんて限られた者にしか与えられない。幸い、私は出家して百姓や町人に必要とされるようになった。居場所を見つけられた」
 斎淳の手が、ちかの腰紐にかかる。
「……斎淳、さん?」
「このまま徳を積んで悟りを開いて自分だけ極楽にいけたとして、惚れた女が成仏できないなら地獄と同じ。ならばいっそのこと、この世で二人極楽を見ようじゃないか」
 固く閉じた紐が手荒く解かれ、濡れた襦袢が落ちる。ちかは斎淳の首に腕を回し、互いの口を吸った。冷たい柔肌が熱い男の肌で蕩けていく。頭の中が白くなるほどの悦びに浮かされながら、ちかは涙をとめられなかった。
「何故、泣く」
 斎淳の指が、ちかの目じりを拭う。
「なんで涙がとまらないのか、あたしもわからないんです」
 ちかは斎淳の脱いだ衣の上に横たわり、斎淳を受け入れるために脚を開いた。
「やめておこう」
 入口に宛てがい、あと少し腰を進めれば容易く一つになれたところを、斎淳は体を起こして、羽織りものをして、改めて布団を敷いた。
「こんなことをしても、おまえは悲しいのだろう」
 ちかを腕に抱き、時々夜泣きする春光にするように頭を撫でた。
「あたし、悲しくなんか……」
「自分でもわかっていないのだ。自分の悲しみを。わかってしまえば、それに押し潰されてしまうから」
 髪をすく指は長く華奢だが、男のそれだった。ひやりとしたてのひらが、ちかの額にあてられる。
「斎淳さん」
 ちかが呟いた。寝息が聞こえる。斎淳は小さく微笑み、布団を出た。
 翌日ちかが目を覚ますと隣は空で、本堂から読経が聞こえてきた。身支度を整えると、ちかは黙って寺をあとにした。
 それから間もなく、斎淳が春光を大きな寺に預けて各地へ巡礼に出たのを人づてに聞いた。春光が預かっていたちかの賃金は本堂の下の瓶の中にちゃんとあった。ちかはそれを元手に旅支度をして江戸を出た。
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