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第三章 人生とは過去である
第五話 涙に値する過去
しおりを挟む僕らは無言のまま、ただ道を歩き続けた。正確に言えば無言だったのは椿姫だけで、僕は頭の中が必至すぎて言葉が出なかっただけなんだけど。
自分の家に行くのがこんなに怖いと感じるなんて思わなかった。近づくだけでこんなに恐怖と後ろめたさに襲われるとは。自分が過去のことをを無意識に避けてしまっていたことをしっかり意識づけさせられた。
小百合さんと柳田医師に過去と向き合うように言われたとき、僕は必死に過去と向き合っているつもりだった。けれど、実際にはただひたすらに過去を避け続けていて、ようやく過去に直面しただけだったんだ。そしてきっとこれはまだ第一段階なんだ。
十一月の日差しは午後三時半なのに、もう弱ってきていた。冬特有の乾燥した冷たさが足元から上がってくる。その代わりに、雲一つない快晴が僕らを包み込んでいた。空を見上げたとたん、僕らがちっぽけな存在のような気がした。
ようやく心が落ち着いてから、しばらく歩いていた。だんだんと見たことある十字路に差し掛かる。昨日来た時と変わらない様子の家を見つけて、安堵と緊張感に縛られそうになる。それをほどくために、家を指さしながら椿姫に声をかけた。
「あれが僕の家だよ」
ほとんど聞いていないっだろうと思っていたから、予想以上のレスポンスの速さに驚いた。
「なんとなく、私の家に似ていますね。」
椿姫はいたって平然とした様子で、僕の家をまっすぐに見ていた。椿姫のその様子に安心して、背中を押される気分で十字路を渡った。ついに、僕は自分の家の前に着いた。
「ほかの人がいないか、一回確認しましょうか」
椿姫は僕の家の周りを見渡すと、特に僕らを見ている人間がいないことを確認した。そして、あたかもこの家の住人ですといった様子で門を開けた。
「ちょっと」
僕が椿姫を止めようとすると、彼女は落ち着いた様子で言う。
「この家の住人のようにしていないとかえって怪しまれますよ。木の葉を隠すなら森の中ってやつです」
僕が入れなかった問の先までずかずかと侵入していく椿姫を追いかけた。久しぶりに間近で庭を観察する。半年放置されていたとは思えない手入れが丁寧に施された庭だ。家の玄関まで歩きながら、椿姫はわかっていたように言う。
「この家、住人がいますね。しかもちゃんと庭の手入れができる人なんですね」
「そうなのかもな」
僕があえて気づかないふりをしていたことを、言葉にしてくる椿姫の姿に慄きながらも、一緒に来てよかったと思った。彼女いなければ、僕は見て見ぬふりをしていたんだろう。
家の玄関の前に着くと、なるべく落ち着いて家の鍵を取り出した。いまだに財布に括り付けてある大きめの家の鍵。
「あれ」
カギ穴に差し込もうとしたけれど、手が震えてしまってきれいに差し込めない。左手で右手を抑えるようにしたのに、余計手が震えてしまうようだ。
僕がもたついていると、見かねたように椿姫が僕の手からかぎを奪った。
「この家の住人がいるなら、時間がないんですよ。」
そういうと鍵を差し込んだらしい。僕が目をつむっていると、
ガチャ
鍵の開く音がした。その音を聞いて僕が目を開くと、椿姫が扉が引き開ける。
瞬間、眼前に広がる何時しかの玄関と廊下の姿。木目調に透明のコーティングがされている反射の強い床。一面に白く、意図的な凹凸によって均一でない壁。そして僕の部屋や両親の部屋があった二階に続く階段。
何一つ変わらない姿でそこにあった。忘れかけていた夢の姿が明瞭になって想起される。記憶の波に溺れるような、息もできないほどの情報量に押しつぶされた。
「時間がないんですよ」
僕の手を握って、椿姫は家の中に入っていった。引きずられるように僕も家の中に侵入していく。
リビングに入った瞬間、目を疑った。何一つ変わらない部屋、とは言わないものの、僕がいたころとほぼ変わらない部屋がそこにあった。しかも、丁寧に掃除がされているし、新しい食パンまでおいてある。ちゃんと誰かが生活している証だ。
僕が立ち止まっているのと同じくして、椿姫もこの光景に唖然としていたようだ。
「...同じ構造...」
椿姫がこぼした言葉がかろうじて耳に拾われた。確かにこの部屋は椿姫の家のリビングと同じ構造をしている。机のなじみ具合とかおいてある装飾のわずかな違いはあっても、つくりは全く同じだ。僕は気が付いていたから気にしなかったが、椿姫にとってはそうだろう。
僕がリビングの中に入ると、椿姫はついてこなかった。そして、椿姫は階段のほうに向かいながら
「ちょっと見たいところがあるので」
と言い残すと、二階に上がってしまった。ちょうどよいと思い、僕は食器棚に向かった。そして、下の扉を開けると変わらぬ金庫が現れた。うろ覚えながらも、数字は僕とお母さんとあいつの誕生日だったので、何通りか試すとボルトの沈みこむ感覚と同時に、金庫の扉があいた。
「養子縁組届出書」
一番上においてあった紙を見て、僕は目を疑った。椿姫が降りてこないことを確認すると、金庫の中の紙を一式取り出してみた。
通帳、生命保険、共済掛金、家財保険に学費の明細書。ありとあらゆる重要な書類が床の一部を埋め尽くした。その中でも、今見ても仕方のないものは、順番を変えないように入れなおした。
手元に残ったのは二枚の紙。養子縁組届出書のコピーとそれに関する契約書。椿姫がいつ降りてくるかわからないので、とりあえずスマホで写真を撮ってから、中身を確認する。
先に養子縁組届を確認して、僕は魂が抜けるほどに驚いた。養子になるものとして、椿姫の名前が、そして養親の名前に悟と沙織、つまり僕のお父さんとお母さんの名前が書いてあった。
理解ができない。けれど、子の紙には不可解な現実の証明としてたたずんでいた。次に、契約書のほうを確認しようとshちあ。けれど、文字が細かく、言葉が固いので何が書かれているのかよくわからない。ただ分かったのは、契約者の名前が、悟と沙織、そして小百合さんの名前が書いてあることだけわかった。
条項を一つ一つ確認しようと思ったとき、二階から椿姫が降りてくる音がした。急いで金庫に二枚の紙を入れると扉を閉めた。椿姫はさっきとほぼ変わらない様子で、階段のほうからリビングに入ってきた。食器棚の前にうずくまる僕に近づくと、優しくいった。
「私の用事は終わりました。あとはリビングか和室の近くにいるので、用事が終わったら着てくさい」
そういうと、リビングのあちこちを見回し始めた。僕は確認すべきことはもうなかったけど、気になったので昔の自分の部屋に行くことにした。
二階に上がると、僕の家と椿姫の家の見た目は全然違う。椿姫の家はたくさんの部屋に分かれていて、一つ一つの部屋は少し狭めの作りだ。それに対して僕の家は小さめの僕の部屋と、大きな両親の部屋、そして全員の共用スペースに分かれている。共用スペースを通って僕の部屋の前に立つ。
部屋の戸を開けると、わずかながらに荒らされた形跡があった。そういえばさっき、椿姫は用事が終わったと言っていた。もしや、椿姫の用事は僕の部屋にあったのだろうか。ほとんどの荷物を出してしまっているので、特に何もないはずだけど。
そう思いながらも、自分の部屋に足を踏み入れると懐かしさに涙が出た。半年ぶりに入るこの部屋は、あまり手入れがされていなかったらしく、少し埃っぽい。机の上は何一つ置かれているものがなく、ただ電灯が置いてあるだけ。相当に使い込まれた机のカバーはボロボロになっていた。
よく見ると、机の引き出し付近だけ、異様に埃がない部分がある。見た目からして椿姫がここを開けたのだろう。開けてみたら椿姫が何を見たのかわかるだろう。しかしこの引き出しに入っているものは、多くの手紙や思い出だ。
それでも開けてみると、予想通りたくさんの手紙や写真、はがきが埋まっていた。他の人が見たらわからないだろうが、明らかにその中身に違和感を覚える。時系列順に保存していたはずのものが並んでいないのだ。
ただ、久しぶりに見たせいで、何かがとられていたとしても気づけなかった。僕に分かったことは、椿姫は意図的に僕の引き出しの中身を荒らしたことだけだった。僕は引き出しを戻そうとしたとき、一枚の手紙が落ちていることに気が付いた。
拾い上げてみると、それはどうやらお母さんから僕にくれた手紙のようだった。小学生の時の課題で、親に手紙を出してその返事を受け取るというものがあった時のものだ。
僕は未来を想像して、あえて手紙を目線より上に持って手紙を読んだ。
「翔へ
お母さんは家族全員が幸せにしてくれることが一番の幸せです。
もしできたら、家族全員で世界一周とかしてみたいですね。
橋上 沙織」
最後のほうまで目を通すまでに、僕の目には、大粒の涙が幾滴も流れていた。いつしか、お母さんからもらったこの手紙は、いつも大切に読んでいたけれど、入院するときに回収することができなかった。だから半年もの間放置してしまったんだ。
僕は袖で涙をぬぐうと、この手紙をリュックの一番後ろの部分にしまう。それから、ほかに持って帰りたい手紙とかがないかを探した。けれど、ほかにお母さんからもらったものは見つからなかった。あとは、小学校の同級生からもらった年賀状がほとんどだった。
特にすることもないので、部屋を出た。ただ、もう一つ確認したいことがあったので、両親の部屋に向かう。ここは僕の部屋の扉と違い、スライド式だ。僕の予想通り、この扉は滑らかに開けることができた。
中は僕が知っている部屋の内装と変わっていなかった。二人が寝ていた布団と未開封のままの段ボールたち。前の家から持ってきたけれども、使わない者たちの置き場になっている。それに、お母さんが大切にしていた机が残っていた。
二人の布団を観察すると、明らかに二人の布団のものが違う。あいつの布団はちゃんと冬物に代わっていて、毛布と厚手の布団が置いてある。それに対してお母さんの布団は長らく使われていないためか、春用の肌掛けだけだった。
そこまで確認すると、僕はスマホで時間を確認した。4時過ぎを指していた。そろそろ帰らないといけないので、僕は下の階に降りた。少しかびた布団のにおいが鼻に残った。
リビングに戻ると、椿姫は食器棚の食器を観察していた。僕が戻ってきたことに気が付くと、僕のほうに近づいてきた。
「もう見ることはないですね?」
「大丈夫」
もう少し見たいような気もしたけど、個々の住人ではない以上、もう引き返すしかないだろう。僕らは玄関に向かうと、この家を後にした。扉を閉めた時、椿姫が僕からかぎを取ろうとしたので、
「もう大丈夫だよ」
といって、自分でこの家の鍵を閉めた。庭を見渡すと、さっきはよく手入れされていることにしか気が回らなかったけど、よく見ると病院で見たことのある花が多いことに気が付いた。最近ならコスモスがたくさん咲いていたけど、この庭の最も目立つところに小さくコスモスが咲いていた。
「きれいな庭ですよね」
椿姫がとげのない口調で言った。僕もゆったりと庭を見ていたかったけれど、椿姫の手を引くと門のほうに向かった。椿姫は何も言わずについてきた。僕が椿姫の手を放そうとすると、逆に椿姫が僕の腕をつかんできた。
「なんかあった?」
僕の質問には答えずに、椿姫はその手を離した。ふと、門のほうから道の先に目をやると、見てはいけない人影を見てしまった。僕は焦りながら椿姫に
「急いで出るよ」
というと、門の鍵を閉めて、走り出した。椿姫は状況をつかめていないようだったけど、僕の言うとおりについてきてくれた。十字路を渡って、家が見えなくなるまで走ると、僕は走る速度を落とした。
後ろを見ると、僕と同様に息を切らした椿姫が膝に手をついていた。椿姫のほうに近づいて、彼女の背中をさすると
「大丈夫ですよ」
といって姿勢を戻した。二人して息を整えると、椿姫はいつもの鋭さのない言葉で僕に聞いた。
「それより、どうして急に走り出したんですか?」
僕は胸に手を当てて、心臓の様子を確認しながら答えた。
「あいつが帰ってきているところを見たんだよ。遠巻きだったから本人かはわからないんだけどね」
中肉中背で特徴のない姿だから、絶対とは言えなかった。それでも、危険性があるなら避けるべきだろうと思った。僕の言葉を聞いた椿姫は、疑問を顔に浮かべていた。
「なんかあった?」
僕が椿姫に尋ねると、落ち着いた様子の椿姫は急に歩き出した。僕も急いで椿姫の背中を追いかける。
「歩きながら話しましょう。そろそろ家に帰らないとまずいですからね」
そういうと、まっすぐ前を向いて家のほうに歩いた。僕も椿姫の横を歩きながら、矢田部家に向かう。十一月らしく、この時間帯でも夕焼けの影が僕らを包み込んだ。
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