龍崎専務が誘惑する

白亜凛

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2.夢のTOKIO

 一瞬グラリと彼の顔が揺れた。

「お、っと。大丈夫ですか?」

 支えられながらぜぇぜぇと呼吸をした。どうやらショックのあまり息するのを忘れてしまっていたらしい。

「あ、いえ。はい。だ、大丈夫です。き、緊張してしまって」

 ふと気づけば、私の左手はしっかりと靴を持っている。
 右手は彼の手を握ったままだ。

「うわっ、すみません」
 慌てて彼の手を離し、靴を後ろ手に隠した。――今更だけれど。

 クスクスと龍崎さんは笑う。

「コーヒーでも飲みませんか? 折角ですから」

「あ、はい……」

 
 はぁ、どうしよう。

 玄関に靴を置いて、リビングに向かいながら考えた。

 ヴァンパイアなの? それとも他人の空似?

 背中に入れ墨があるヤクザには見えない。ビジネスマンだし、今までこの部屋を掃除していて極道っぽさは微塵も感じなかった。

 といっても、謎の部屋はあるからなぁ。

 声は同じような気もするし違うような気もするし。似ているような、似ていないような。

 龍崎さんは七三に分けた片方の髪は額に掛かっている。ヴァンパイアはオールバックだったから、それだけでも少し印象が変わるだろう。あの夜はずっと室内の灯りの下でしか見ていないので、細かいところまでは記憶にない。

 でもでも、落ち着け私。

 大丈夫。ヴァンパイアだとしても、私が黒猫だとはバレないはず。

 そのためにあの夜は変装したんだもの。ウィッグにバサバサのツケまつ毛に派手な化粧、カラーコンタクトもしていたし、印象的に残るよう口元にホクロを描いた。

 今日は化粧なんて申し訳程度の薄化粧。髪は後ろでひとつにまとめているだけだし、デニムのパンツにグレーのセーターという動きやすさ重視の地味な服装だ。

 わが身を振り返っても、あの日の黒猫の片鱗はどこにもない。

 大丈夫バレるはずがない。
 大きく息を吸って、彼のいるダイニングルームへと向かう。コーヒーをいただいてすぐに帰ろう。

「どうぞ座ってください」

 促されるまま「失礼します」と、ダイニングテーブルの席につこうとしてハッとした。

「あ、あの。コーヒーは、私が」
 うっかりしてしまったが、私は家政婦なのだ。

「いいえ、あなたの仕事はもう終わったのですから、気にしないでください」

「はい。すみません、では失礼します……」

 彼は、目の前でスーツの上着を脱ぎ、椅子の背もたれにその上着を置く。その様子をチラチラと覗き見たが、背格好といい、やっぱりヴァンパイアと似ている。

 決め手は背中にあるはずの、龍の入れ墨。

 それさえ確認できれば確定なのに、白いワイシャツの背中はどんなに凝視してもなにも見えない。

「なにか?」

 彼がわずかに振り返った。目の端だけでこっちを見ている。

「えっ? あ、い、いえ、なにも」

 私ったらそんなに強い視線を送っていたの?

 は、恥ずかしい。
  わけのわからぬ緊張感で、どうにも落ち着かない。

 よーし、それならばと、思い切って話しかけてみた。

「あ、あの。お料理、お口に合いますでしょうか?」

 今日はバレンタイン特別メニューだけれど、普段は思い切り家庭料理だ。実家は祖父母がいるので、どうしても年寄り向けの食事になってしまう。いつもの調子でブリ大根だの、里芋の煮っ転がしだのと田舎料理になっているが、それでいいのかどうか。
 ずっと気にはなっていた。

「ええ、美味しくいただいていますよ」

「もう少し洋食とかも増やしたほうがいいでしょうか?」

「いいえ、このままで。外食では味わえない家庭的な料理で落ち着きますし」

「そうですか、よかったです」

 ホッと胸をなで下ろし、気持ちに余裕ができた。

 安心したところであらためて見る龍崎さんの後ろ姿に、思わず見惚れてしまう。

 姿勢がよくて肩幅は広い。

 それなのに腰は細くて、きっと腹筋は綺麗に割れているんだろう。洗濯物にはいつもスポーツウェアがあるから、普段から鍛えているに違いない。

 贅肉なんてないんだわ。

 コーヒーができあがったようだ。

 カップに注ぐなに気ない仕草が、やけに色っぽい。

 長い指のせいかな……。
 芳醇な香りを漂わせながら、コーヒーカップをふたつ持ってきた彼は、カップを置いて席に着いた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 テーブルを挟んで正面に座った彼を目の当たりにすると、ますますいたたまれなくなってくる。後ろ姿とは違うイケメンの迫力に目眩がしそう。

 チラリと見ると、龍崎さんは手元のコーヒーに視線を落としている。

 それにしても、なんてステキな人なのだろう。

 毛先が額に流れ、その先の長い睫毛に縁どられた切れ長の目元がもう、たまらなく魅惑的。

 ひと口コーヒーを飲んだ彼は、ネクタイを緩め、シャツの一番上のボタンを外して左手で頬杖をついた。

 左手の薬指には、指輪が光っている。

 ああ、そうだった。さっきの電話。妊婦の奥さんがいるんだっけ。本当の家は他にあって、単身赴任なのかもね。
 そう思った途端に、心に暗雲が立ちこめた。

 バカだなぁ、私。どうしてショックを受けてるの……。

 気を取り直してコーヒーに口をつける。

 キリマンジャロだろうか、苦味と酸味がキリキリと心の傷に沁みるようだった。

 カサッと音がしたので顔をあげると、龍崎さんはチョコレートの箱に手を伸ばしていた。

「あ、バレンタインなので。ささやかですが」

 私が書いたメモに目を落とす。

 簡単な文章しか書いていないとはいえ、目の前で読まれるのは気恥ずかしい。

「ありがとうございます。いいですか? 開けても」

「ええ、どうぞ」

 箱を開けた彼は、トリュフを一粒取り出して口に含み、すっと箱を私の前に差し出した。

 私にも勧めてくれているらしい。

 ならばと手を伸ばして摘まんだのは、ひとつだけ入っていたハート型のホワイトチョコレート。龍崎さんが既婚者とわかった今、それを残したくはない。

 コーヒーの熱でねっとりと溶けていくハートのチョコレート。たぶんとても美味しいのだろう。

 でも今の私には甘さも旨みもよくわからない。

「お会いできて、ちょうどよかった」と、彼が話しはじめた。

「はい?」

「実は近いうち、ここを引き払うことにしましてね」

 え?

 私は、クビってことですか?
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