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≪ 祓い姫 ≫
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さかのぼること半年。
宮中の奥深く女御たちが住まわる後宮で、奇怪な事件が起きていた。
二の皇子と三の皇子が同時に、謎の病に倒れたのである。
最初に毒が疑われたが、毒見係も、同じ料理を食した皇女にも異変はなかった。医師や薬師、陰陽師に僧らが京中から集められたというのに、原因はようとして知れない。
そんな中、二の皇子の枕もとに物の怪が現れた。
ところが今度はその物の怪を、誰も祓えないのである。
「なにが我こそは京で一番だ。使えん首を並べおって」
ぶつぶつと文句を言いながら検非違使の長官、井原篁は詰め所の妻戸を開けた。
振り返った年若い部下が、あどけなさの残る笑顔を向ける。
「お疲れさまです長官。朝議のほうは如何でしたか」
眉間に皺を寄せた篁は「いつも通りじゃ」と言い捨てる。いささか精悍過ぎる面構えの彼が顔を歪めると、怒っているように見えるがそうではない。彼は苦悩しているのだ。
「物の怪が祓えぬままでは、どうにもならん」
「そうですね。少なくとも物の怪が原因かどうかははっきりしますもんね」
「ああその通りだ。毒の可能性も消えたわけではないからな。引き続き監視は怠るなよ」
「はい。どっちにしても左大臣が怪しいですよね」
年若い部下が考えもなく漏らした言葉を「こら、滅多なことを言うな」と篁は厳しく叱りつけた。ここは宮中だ。どこに左大臣の耳があるかわからない。
「はい、すみません」
しょんぼりする部下を尻目に、弓を手に取った篁も『まあ限りなく疑わしいが』と思っている。分別があるゆえ口にしないだけだ。
部下や篁だけじゃない、恐らく宮中の誰もがそう思っているだろう。
当の左大臣もそれをわかった上で堂々としている。証拠が出ない自信があるのか、余裕綽々の狸顔を脳裏に思い浮かべ、篁は忌々しげに眉間のしわを深くする。
「まさか東宮は疑われてはいないのですよね」
「もちろんだ」
「よかったです」と部下は安堵の笑みを浮かべた。
くさくさする気持ちを吹き飛ばすには体を動かすに限る。足早に階を下りた篁は、藁を丸めた的に向かって弓を構えた。
鋭い眼光を的に向け、ぎりぎりと張りつめた音を立てる弓を引きながら、篁は歯を食いしばる。
(東宮を疑わせてたまるか!)
ズバッと鋭い音がする。
正射必中、弓は中心の的を射抜き、いくらか気分が晴れた。
詰め所の中では検非違使たちが話を続けている。
「どう考えてもこの国を任せられるのは東宮しかいませんよ」
ひとりが言えば、皆が大きくうなずく。
「今年は洪水にも日照りにも悩まされずに済んだのも、東宮が大規模な用水路を作るという発案のお陰ですからな」
「ああ、確かにそうだ」
「悲田院もです。多くの孤児が商人や薬師になるのを夢にみて、がんばって勉強しております」
検非違使たちの東宮への思いは熱く、いつまで語っても語り尽くせぬのだろう。次々と声を上げて東宮を褒め称えている。
聞こえている篁も、その通りだと心でうなずいていた。
東宮は成人を前にいったん臣下に下っている。
だが昨年、帝のたっての願いで東宮として宮中に戻った。宮中を出ている間の彼がどうしていたかは誰も知らない。嵯峨野にある寺に引きこもっていたという以外は篁もわからない。
謎めいているがゆえに、陰で異議を唱える者もいるが、東宮が政を仕切り始めてから現在の民に優しい京に変わったのは事実である。
東宮をおいてこの京を守れる者はほかにはいない。
(なんとしてもお守りする。我が命に変えてでも!)
強い思いを矢にこめてひとしきり放ち、ひと呼吸置いて弓の手入れをしていると、柔らかい衣擦れの音が聞こえてきた。
先ぶれもなく、ふらりと現れたのは噂の東宮だ。
「篁、よいか」
「はっ」
東宮はすらりと背が高く、男から見ても惚れ惚れとするほどの美丈夫だ。
日頃から刀や弓で鍛えている鍛錬の賜物だろう、禁色の直衣を悠々と着こなす体躯は堂々としていて逞しく、それでいて面差しは、この世で一番美しいと評判だった亡き母君の美貌を受け継いで輝くばかりである。
己が仕える主がこのような貴公子だというのが誇らしいのだろう。東宮の登場に、年若い検非違使は瞳を輝かせた。
頬を緊張させた篁は部下に人払いを命じ、東宮のために座を設ける。
左大臣側の間者がどこに潜んでいるかわからない。念には念を入れ、床下のほか会話が届く範囲をぐるりと検非違使が取り囲んだところで、ようやく篁が口を開いた。
「清涼殿に行かれたのですか?」
清涼殿は東宮の父、帝の御座所である。
「うむ。清涼殿、麗景殿、弘徽殿と順番に見舞いここへ来た」
東宮の口調は淡々としている。
「また、おひとりで、ですか?」
「なにかあればそのときだ。気にするな」
「ですが万が一もあります。私がお迎えに上がりますから、必ずお知らせくださいませぬか」
篁は口を酸っぱくして念を押した。頼むから自分を連れ歩いてくれと。
「お願いでございます、殿下」
篁の熱い思いに押され、わずかに苦笑を浮かべた東宮はうなずく。
「ああ、わかった。それでどうだった朝議のほうは」
「変わりません。ただ、左大臣は主上の体調を気にしているようです。弘徽殿の女御の口から伝わったのでしょうが、これ以上隠すのは厳しいかと」
ふたりの皇子が病に倒れ、それでなくても病いがちな帝は心労のあまり寝込んでしまわれた。
三の皇子の祖父である左大臣は、わが孫が帝の座につき、外戚となって権力の確立させるのを狙っている。主上の病を自ら聞いてくるとは、邪心を隠す気もないのだろう。
万が一帝になにかあれば、左大臣はなにをするかわからない。
「仕方あるまい。だが、いい知らせがある。唯泉が来るぞ」
「おお、そうでしたか。良かった。これで一気に片付くかもしれませんな」
唯泉とは、白の陰陽師と言われる京きっての腕の立つ陰陽師である。
物の怪や鬼の退治から病の治癒まで、彼の功績は枚挙にいとまがないが、国中を旅しているので、簡単につかまらない難点があった。
彼の式神である鳥に文を託して連絡を待つ以外に彼を捕まえる方法がない。十日かけて鳥が居場所を突き止めたのだろう。今朝になってようやく返事が届いた。
「しかし、これでまた宮中の医師と陰陽師がぐずぐず言いますな」
「言わせておけ。修行が足りぬと一喝してくれるわ」
東宮は毅然と言い放つ。容赦なく断罪されて青くなる彼らが目に浮かぶようだ。
篁は薄く苦笑しながら思う。
(やはり殿下に帝になっていただきたい)
国は乱れている。数年に一度は見舞われる自然災害やそれに伴う飢饉、疫病への対策。やらねばならないことが山積みだ。
なのに朝議は権力争いの土俵になってしまっている。
その中でただひとり、東宮が厳しく決裁を跳ね返し結果を出させてきた。今この国には彼のように強引なまでの決断力のある為政者が、絶対に必要なのだ。
それなのに……。篁は溜め息をつく。
東宮本人にその気がない。
彼は、あくまでも〝仮〟の東宮だと言ってはばからないのである。
「陛下、主上の体調不良が長引くようなら譲位を促すという話があるのは事実です」
「その必要はない」と、東宮は即答した。
「ですが」
「なにも滞ってはいない。快復されるまでは、私が補佐する」
そうきっぱりと言われたのでは、篁とてそれ以上は言えなかった。
「はぁ……」
あからさまに肩を落とす篁を、東宮は目の端で睨む。
睨まれた篁は目をしばたいて恐縮し口を結ぶ。
以前酔った勢いで『どうしても帝になってくださいませぬのか?』と聞いたことがある。
東宮は『妃を娶らなくてもよいならな』と言って、にやりと口角を上げた。
妃のいない帝などありえない。
本人の意思とは関係なく、後宮に妃が送り込まれてくるだろう。左大臣は間違いなく弘徽殿の女御の妹を押し付けてくる。もちろん左大臣だけじゃない、右大臣も大納言もと、名だたる面々が娘をごり押ししてくるだろう。
だまって引き受ける彼ではない。怒って全員を送り返すかなにかして、全面戦争にでもなるかもしれない。そうなっては、宮中は滅茶苦茶だ。
『二の皇子はまだ三歳だが、あと五年もすれば資質も明白になってくるだろう。その時東宮の座を譲り皆が納得のもと私が臣下に下る。それが最善なのだ』というのが彼の考えである。
以降は再び臣下に下り、現場で指揮を執る。それが最善策だというのだ。
そう言われてはそれが最善策のような気もするが、篁は納得しきれないのだった。
(なんとか、帝になってくれぬかのぉ……)
出るのはため息ばかりである。
それからときを置かずして、白の陰陽師こと唯泉が宮中に姿を見せた。
「篁、久しぶりだな」
彼の登場はいつも神出鬼没である。音もなくふらりと現れるので、声をかけられるまで、篁は後ろに彼がいるとは気づかなかった。
「唯泉さま」
数年ぶりの再会に、篁は眩しそうに目を細めた。
白の陰陽師と言われる所以である銀色の長髪が、日の光を浴びて煌めいている。
長い睫毛に縁取られた切れ長の目の奥で、時に黄金に輝く薄い色の瞳。人の域を超えた美しい容貌に初見の人間は度肝を抜かれるが、何度も会っているはずの篁もその度にハッとしてしまう。何度会っても慣れない。
「お久しぶりでございます。お待ち申し上げておりましたぞ」
「では早速参ろう。煌仁はあとから来るそうだ」
「はい」
途中、篁は今の宮中の状況を説明して聞かせた。
あらかた東宮から話を聞いているらしい唯泉は無言のまま、ゆったりと左右を見回しながら歩く。
白の陰陽師の登場はいつであろうと格別で、宮中には緊張の糸が張りつめる。特別な行事でもないのに彼が現れる理由は限られるからだ。
その訳をおもんばかり、女官も殿上人も遠巻きにして神妙に先を譲り、深々と頭を垂れる。
おごそかな空気に包まれた殿舎を、色なき風のように通り抜け、そして唯泉と篁は麗景殿に着いた。
一旦立ち止まった唯泉は、ぐるりと視線だけを動かして麗景殿を見回し、正面の奥を見つめ「ほぉ」と薄く微笑む。
「とりあえず、あの物の怪を祓えばよいのだろう?」
唯泉には物の怪が見えるのかと、篁は緊張しながらうなずいた。
「はい。ちなみに、人が物の怪を操ることはできるのですか?」
「操る? 呪術師ならできるが……」
唯泉は、じっと一点を見据え「呪術ではないな」と言った。
「あれはここに棲みついている物の怪だ」
〝あれ〟と聞いて篁の背筋にぞわりと冷たいものが伝う。
篁も唯泉をまねて室内を見つめたが、なにも見えないし感じない。それでも、やはり物の怪はいたのである。
そのまま唯泉が物の怪を祓い、落ち着いたかに見えた。
だが、しばらくして、今度は麗景殿の二の皇子だけが倒れたのである。
さかのぼること半年。
宮中の奥深く女御たちが住まわる後宮で、奇怪な事件が起きていた。
二の皇子と三の皇子が同時に、謎の病に倒れたのである。
最初に毒が疑われたが、毒見係も、同じ料理を食した皇女にも異変はなかった。医師や薬師、陰陽師に僧らが京中から集められたというのに、原因はようとして知れない。
そんな中、二の皇子の枕もとに物の怪が現れた。
ところが今度はその物の怪を、誰も祓えないのである。
「なにが我こそは京で一番だ。使えん首を並べおって」
ぶつぶつと文句を言いながら検非違使の長官、井原篁は詰め所の妻戸を開けた。
振り返った年若い部下が、あどけなさの残る笑顔を向ける。
「お疲れさまです長官。朝議のほうは如何でしたか」
眉間に皺を寄せた篁は「いつも通りじゃ」と言い捨てる。いささか精悍過ぎる面構えの彼が顔を歪めると、怒っているように見えるがそうではない。彼は苦悩しているのだ。
「物の怪が祓えぬままでは、どうにもならん」
「そうですね。少なくとも物の怪が原因かどうかははっきりしますもんね」
「ああその通りだ。毒の可能性も消えたわけではないからな。引き続き監視は怠るなよ」
「はい。どっちにしても左大臣が怪しいですよね」
年若い部下が考えもなく漏らした言葉を「こら、滅多なことを言うな」と篁は厳しく叱りつけた。ここは宮中だ。どこに左大臣の耳があるかわからない。
「はい、すみません」
しょんぼりする部下を尻目に、弓を手に取った篁も『まあ限りなく疑わしいが』と思っている。分別があるゆえ口にしないだけだ。
部下や篁だけじゃない、恐らく宮中の誰もがそう思っているだろう。
当の左大臣もそれをわかった上で堂々としている。証拠が出ない自信があるのか、余裕綽々の狸顔を脳裏に思い浮かべ、篁は忌々しげに眉間のしわを深くする。
「まさか東宮は疑われてはいないのですよね」
「もちろんだ」
「よかったです」と部下は安堵の笑みを浮かべた。
くさくさする気持ちを吹き飛ばすには体を動かすに限る。足早に階を下りた篁は、藁を丸めた的に向かって弓を構えた。
鋭い眼光を的に向け、ぎりぎりと張りつめた音を立てる弓を引きながら、篁は歯を食いしばる。
(東宮を疑わせてたまるか!)
ズバッと鋭い音がする。
正射必中、弓は中心の的を射抜き、いくらか気分が晴れた。
詰め所の中では検非違使たちが話を続けている。
「どう考えてもこの国を任せられるのは東宮しかいませんよ」
ひとりが言えば、皆が大きくうなずく。
「今年は洪水にも日照りにも悩まされずに済んだのも、東宮が大規模な用水路を作るという発案のお陰ですからな」
「ああ、確かにそうだ」
「悲田院もです。多くの孤児が商人や薬師になるのを夢にみて、がんばって勉強しております」
検非違使たちの東宮への思いは熱く、いつまで語っても語り尽くせぬのだろう。次々と声を上げて東宮を褒め称えている。
聞こえている篁も、その通りだと心でうなずいていた。
東宮は成人を前にいったん臣下に下っている。
だが昨年、帝のたっての願いで東宮として宮中に戻った。宮中を出ている間の彼がどうしていたかは誰も知らない。嵯峨野にある寺に引きこもっていたという以外は篁もわからない。
謎めいているがゆえに、陰で異議を唱える者もいるが、東宮が政を仕切り始めてから現在の民に優しい京に変わったのは事実である。
東宮をおいてこの京を守れる者はほかにはいない。
(なんとしてもお守りする。我が命に変えてでも!)
強い思いを矢にこめてひとしきり放ち、ひと呼吸置いて弓の手入れをしていると、柔らかい衣擦れの音が聞こえてきた。
先ぶれもなく、ふらりと現れたのは噂の東宮だ。
「篁、よいか」
「はっ」
東宮はすらりと背が高く、男から見ても惚れ惚れとするほどの美丈夫だ。
日頃から刀や弓で鍛えている鍛錬の賜物だろう、禁色の直衣を悠々と着こなす体躯は堂々としていて逞しく、それでいて面差しは、この世で一番美しいと評判だった亡き母君の美貌を受け継いで輝くばかりである。
己が仕える主がこのような貴公子だというのが誇らしいのだろう。東宮の登場に、年若い検非違使は瞳を輝かせた。
頬を緊張させた篁は部下に人払いを命じ、東宮のために座を設ける。
左大臣側の間者がどこに潜んでいるかわからない。念には念を入れ、床下のほか会話が届く範囲をぐるりと検非違使が取り囲んだところで、ようやく篁が口を開いた。
「清涼殿に行かれたのですか?」
清涼殿は東宮の父、帝の御座所である。
「うむ。清涼殿、麗景殿、弘徽殿と順番に見舞いここへ来た」
東宮の口調は淡々としている。
「また、おひとりで、ですか?」
「なにかあればそのときだ。気にするな」
「ですが万が一もあります。私がお迎えに上がりますから、必ずお知らせくださいませぬか」
篁は口を酸っぱくして念を押した。頼むから自分を連れ歩いてくれと。
「お願いでございます、殿下」
篁の熱い思いに押され、わずかに苦笑を浮かべた東宮はうなずく。
「ああ、わかった。それでどうだった朝議のほうは」
「変わりません。ただ、左大臣は主上の体調を気にしているようです。弘徽殿の女御の口から伝わったのでしょうが、これ以上隠すのは厳しいかと」
ふたりの皇子が病に倒れ、それでなくても病いがちな帝は心労のあまり寝込んでしまわれた。
三の皇子の祖父である左大臣は、わが孫が帝の座につき、外戚となって権力の確立させるのを狙っている。主上の病を自ら聞いてくるとは、邪心を隠す気もないのだろう。
万が一帝になにかあれば、左大臣はなにをするかわからない。
「仕方あるまい。だが、いい知らせがある。唯泉が来るぞ」
「おお、そうでしたか。良かった。これで一気に片付くかもしれませんな」
唯泉とは、白の陰陽師と言われる京きっての腕の立つ陰陽師である。
物の怪や鬼の退治から病の治癒まで、彼の功績は枚挙にいとまがないが、国中を旅しているので、簡単につかまらない難点があった。
彼の式神である鳥に文を託して連絡を待つ以外に彼を捕まえる方法がない。十日かけて鳥が居場所を突き止めたのだろう。今朝になってようやく返事が届いた。
「しかし、これでまた宮中の医師と陰陽師がぐずぐず言いますな」
「言わせておけ。修行が足りぬと一喝してくれるわ」
東宮は毅然と言い放つ。容赦なく断罪されて青くなる彼らが目に浮かぶようだ。
篁は薄く苦笑しながら思う。
(やはり殿下に帝になっていただきたい)
国は乱れている。数年に一度は見舞われる自然災害やそれに伴う飢饉、疫病への対策。やらねばならないことが山積みだ。
なのに朝議は権力争いの土俵になってしまっている。
その中でただひとり、東宮が厳しく決裁を跳ね返し結果を出させてきた。今この国には彼のように強引なまでの決断力のある為政者が、絶対に必要なのだ。
それなのに……。篁は溜め息をつく。
東宮本人にその気がない。
彼は、あくまでも〝仮〟の東宮だと言ってはばからないのである。
「陛下、主上の体調不良が長引くようなら譲位を促すという話があるのは事実です」
「その必要はない」と、東宮は即答した。
「ですが」
「なにも滞ってはいない。快復されるまでは、私が補佐する」
そうきっぱりと言われたのでは、篁とてそれ以上は言えなかった。
「はぁ……」
あからさまに肩を落とす篁を、東宮は目の端で睨む。
睨まれた篁は目をしばたいて恐縮し口を結ぶ。
以前酔った勢いで『どうしても帝になってくださいませぬのか?』と聞いたことがある。
東宮は『妃を娶らなくてもよいならな』と言って、にやりと口角を上げた。
妃のいない帝などありえない。
本人の意思とは関係なく、後宮に妃が送り込まれてくるだろう。左大臣は間違いなく弘徽殿の女御の妹を押し付けてくる。もちろん左大臣だけじゃない、右大臣も大納言もと、名だたる面々が娘をごり押ししてくるだろう。
だまって引き受ける彼ではない。怒って全員を送り返すかなにかして、全面戦争にでもなるかもしれない。そうなっては、宮中は滅茶苦茶だ。
『二の皇子はまだ三歳だが、あと五年もすれば資質も明白になってくるだろう。その時東宮の座を譲り皆が納得のもと私が臣下に下る。それが最善なのだ』というのが彼の考えである。
以降は再び臣下に下り、現場で指揮を執る。それが最善策だというのだ。
そう言われてはそれが最善策のような気もするが、篁は納得しきれないのだった。
(なんとか、帝になってくれぬかのぉ……)
出るのはため息ばかりである。
それからときを置かずして、白の陰陽師こと唯泉が宮中に姿を見せた。
「篁、久しぶりだな」
彼の登場はいつも神出鬼没である。音もなくふらりと現れるので、声をかけられるまで、篁は後ろに彼がいるとは気づかなかった。
「唯泉さま」
数年ぶりの再会に、篁は眩しそうに目を細めた。
白の陰陽師と言われる所以である銀色の長髪が、日の光を浴びて煌めいている。
長い睫毛に縁取られた切れ長の目の奥で、時に黄金に輝く薄い色の瞳。人の域を超えた美しい容貌に初見の人間は度肝を抜かれるが、何度も会っているはずの篁もその度にハッとしてしまう。何度会っても慣れない。
「お久しぶりでございます。お待ち申し上げておりましたぞ」
「では早速参ろう。煌仁はあとから来るそうだ」
「はい」
途中、篁は今の宮中の状況を説明して聞かせた。
あらかた東宮から話を聞いているらしい唯泉は無言のまま、ゆったりと左右を見回しながら歩く。
白の陰陽師の登場はいつであろうと格別で、宮中には緊張の糸が張りつめる。特別な行事でもないのに彼が現れる理由は限られるからだ。
その訳をおもんばかり、女官も殿上人も遠巻きにして神妙に先を譲り、深々と頭を垂れる。
おごそかな空気に包まれた殿舎を、色なき風のように通り抜け、そして唯泉と篁は麗景殿に着いた。
一旦立ち止まった唯泉は、ぐるりと視線だけを動かして麗景殿を見回し、正面の奥を見つめ「ほぉ」と薄く微笑む。
「とりあえず、あの物の怪を祓えばよいのだろう?」
唯泉には物の怪が見えるのかと、篁は緊張しながらうなずいた。
「はい。ちなみに、人が物の怪を操ることはできるのですか?」
「操る? 呪術師ならできるが……」
唯泉は、じっと一点を見据え「呪術ではないな」と言った。
「あれはここに棲みついている物の怪だ」
〝あれ〟と聞いて篁の背筋にぞわりと冷たいものが伝う。
篁も唯泉をまねて室内を見つめたが、なにも見えないし感じない。それでも、やはり物の怪はいたのである。
そのまま唯泉が物の怪を祓い、落ち着いたかに見えた。
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