祓い姫 ~祓い姫とさやけし君~

白亜凛

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≪ 祓い姫 ≫

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***



 それから三月ののち――。

 祓い姫こと柊木式部の娘、翠子みどりこは牛車に揺られ、長い睫毛を揺らした。

『これは勅命である』
 そう言われ、やはりと思った。
 煌仁と名乗った男を目にしたときから予想できていた。とっくに覚悟はできている。
 だから怖くはないが。

 切れ長の瞳、高い鼻梁に形のよい唇。彼はついぞ見かけない美しい公達であった。
 それはいいとしても、彼のような堂々とした立派な人は翠子を訪ねたりしない。彼女のもとへ来る者は、どこか不安げだったり悲しみに沈んでいるものである。彼のようにまっすぐな目をした人が来る場所ではないのだ。

 くるべきときがきたのだと、翠子は淡々と考え込む。
 そんなつもりはないのに、お祓さまと神のように翠子を崇める人がいる。その都度朱依が神ではないとたしなめたけれど、翠子は感じていた。いつか咎められるだろう。もしかしたら物の怪として成敗されてしまうかもしれないと。

 邸を出る前、翠子は煌仁に『私は殺されるのですか?』と聞いた。もしそうならば屋敷の皆と別れの挨拶をしたかったから。
 彼は『まさか。手を貸してほしいだけだ』と微笑んだが、それにしてはずいぶん強引な言い方だったと思う。

(勅命というのは、そういうものなのかしら)

 何しろ翠子の世間は狭い。屋敷の外を知らないので、言葉通りに受け取るしかない。
 必要なものはすべて用意するゆえ着の身着のままでよいと言われ、愛猫だけを抱いてきた。左右の瞳の色が違う白い雌猫を、翠子と朱依は〝まゆ玉〟と呼んでいる。

 猫一匹、なにができるわけでもないと思ったのか、猫を抱いたままでも煌仁に止められなかったが、果たしてまゆ玉を連れてきてよかったのか。悪かったのか……。

 白く艶やかな背中を撫でながら、翠子は心でまゆ玉に言い聞かせた。
(まゆ玉、万が一の時は、私を助けようとせずに逃げるのよ)

 猫なのだから殺されたりはしないはずだ。
 でも人はどうだろう……。
 ふと視線を上げ、翠子は悲しげな瞳で朱依を見る。

「朱依。いざとなったら朱依だけでも助かって。私は仕方ないけれど、朱依は関係ないんだから」

「なにをおっしゃいます姫さま。朱依はどこまでも姫さまと一緒ですよ」

 朱依は翠子の二つ年上の十九歳で、まだ幼さが残る主人を心より愛し、命をかけて守るつもりでいる。
「大丈夫ですよ。心配ないです。頼まれ事があって行くだけではありませんか」

 ときには姉のように。ときには友人のようにずっと寄り添ってくれた彼女だけは、なにがあっても巻き込みはしない。翠子はそう心に固く誓い、微笑みを返した。
「ええ、そうね」

 牛車に揺られながら朱依は物見窓を覗き込み、あたりを見回した。
「朱雀大路をまっすぐ北に進んでいます。本当に宮中に向かっているようですよ」

 振り返り、にっこりと笑みを浮かべた朱依は、励ますように翠子の手を握る。
「そうなのね」
 翠子も物見窓から外を見つめたけれど、瞳に映るのは闇だけだ。
「暗くてなにも見えないのが残念だわ」

 翠子はもう何年も屋敷を出たことがない。
 どんな理由で連れていかれるにしろ景色くらい見たかったと思うが、月のない闇夜ではそれもままならなかった。

「このあたりは築地塀が続くだけですから、見えてもつまらないですよ」と、気遣わしげに朱依が慰めた。


 それにしてもと、翠子は首を傾げる。
(こんな夜更けに宮中に?)

 宮中とはどこよりも穢れを嫌う神聖であるべき場所である。
 罪人を連れ込むというのもおかしな話だ。となると……偽りなく頼まれ事なのだろうか。

「勅命だなんて。あの煌仁とかいう男、随分大袈裟な物言いでしたね」
 つるりとしたきれいな額にしわを寄せた朱依は口を尖らせて怒る。「供の者もひとりしか付けていないような男が偉そうに」と、けんもほろろだ。
 朱依は溌剌としていて明るくいつも元気だ。ともすると沈みがちな翠子の心をぐいぐいと押し上げてくれる。
「なにを頼まれても断ってやったらいいですよ」

 翠子は思わず笑った。
「でも、とても立派な方なのは違いないわ。身なりも仕草もとても優雅だったもの」
「まあそれはそうですけれどもね」

「ねえ朱依、あの煌仁というお方はどういう方なのかしらね。検非違使けびいし?」
 検非違使とは京の犯罪を取り締まる人々だ。

「そうではないと思います。検非違使というのは、耳のところに小さな扇のような馬の毛の飾りをつけているのですよ」

「じゃあ?」

 ふたりは顔を見合わせて、うーん? と悩んだ。

「名字は名乗られなかったわよね?」
「ええ、そうですね」

 藤原とか綾小路とか、せめて名字だけでもわかれば想像できるのに、名前だけ名乗られたのは初めてだ。
 でもきっと彼は高貴な人に違いない。
 風で御簾が巻き上がった時、正面から見つめ合った彼の、内面からにじみでるあの気品はただ者ではないと思う。

「名字がない貴族なんていないですし」
「そうよね」

(貴族じゃないとなると、皇族。――まさか、それはないわ)
 脳裏をかすめた思いつきに、翠子は小さく頭を振る。
 皇族がこんなふうに少ない従者だけで、わざわざ忌まわしい〝祓い姫〟に会いに来るなどありえない。

 となると彼は何者なのか。
 世間を知らない翠子には、どんなに考えてみても想像すらできなかった。


 牛車はときどき止まり、その度に男たちの話し声が聞こえ、先へ進む。

「姫さま、朱雀門をくぐったようですよ」

 となると、ここから先はいよいよ宮中である。
 平安の京の奥、朱雀門をくぐるとそこから先は大内裏。大内裏の中に帝がいらっしゃる内裏があり、後宮には女御など妃が住まわっている。

 物見窓から覗き見れば、篝火の灯りが増えたせいか立派な太い柱や建物の一部が見え隠れする。
 京すらよく知らない翠子にとって、宮中は夢の世界だ。こんな状況ではあるが胸が躍った。

 話によれば宮中の女性はきらびやかな十二単を身につけているという。
 翠子も一度だけ、女性が成人を迎えたお祝いである裳着もぎの儀で十二単を着た。裳着の儀といっても後見人はいないし、翠子と使用人だけの儀式もどきだったが、皆が翠子のために美しい十二単を用意してくれたのである。
 以来着る機会もなく衣装箱で眠っているけれど、十二単を着たときの胸のときめきは忘れられない。

 祓い姫の自分には美しい衣など似合わないと思っているが、見るのは別だ。美しい物を目にすると心が沸き立ち華やいでくる。時折宮中の女官が十二単を着たまま翠子の元に訪れるときがあるが、その度に翠子はうっとりと見入ってしまうのだった。

 宮中にはそんな美しい衣を着た女官が大勢いるのだろう。
 きらびやかで雅な人々。管弦の宴や舞姫の舞と一年中を通して様々な催しがあるという。そんな宮中に足を踏み入れるなんて、一生そんな日はないと思っていた。

 ついさっきまでの不安など忘れ、夢の宮中に胸躍らせる。

「姫さま、楽しみですね」
「ええ」
 にっこりと笑顔で振り返る朱依に、翠子も笑顔を返す。悩んでも仕方がない。どうせならこの状況を楽しもうと翠子は思った。


 やがて牛車は完全に止まり、すだれが巻き上げられた。
 朱依が翠子の手をしっかりと握り前へ出た。まゆ玉は鈴を鳴らし、翠子の足元から離れずついてくる。

 牛車から降り外に出ると、かがり火が浮き上がらせる荘厳な建物が見えた。柱も太く重厚な造りの殿舎。宿直の武人なのか弓を担ぎ松明を手に庭を歩く男の姿もある。
 ここが宮中なのねと、緊張と感動から翠子の喉がごくりと音を立てた。

「さあ、どうぞこちらに」

 従者に促されるまま歩き出し、ふと空を見上げればいつの間にか雨は止んでいた。星が輝き、弓のような月がぽっかりと浮かんでいる。

 首を下げると目の前に煌仁がいた。

「ついてきてください」
「はい」

 風が前を歩く煌仁の香を運び、翠子の鼻腔をくすぐる。
 新緑を思わせるような爽やかな香り、ついぞ嗅いだことのないホッとすような心地よい匂いだ。宮中に出入りできる殿上人は、やはりまとう香まで違うのねと感心しながらついていく。

 外廊下である簀子を歩き、渡り廊下を越え、とある殿舎に着くと、振り返った煌仁に朱依は「そなたはここで待つように」と止められた。
 そこから先は建物の中になる。

「えっ、でも姫さま」
 不安そうに手を取る朱依に「大丈夫よ」と微笑みかけて翠子は煌仁の後につく。
 暗闇の中、ぽつりぽつりと続く高灯台の灯りを頼りに進むと、十二単の女官が数人ひれ伏して煌仁と翠子を迎えた。

 予想していた通り雅やかな女性たちの登場に胸はときめかせたのも束の間、以降はただ緊張を強いられる時間が続いた。
 女官らに囲まれて十二単に着替えさせられ、あろうことか主上――帝からよろしく頼むとのお言葉をかけられたのである。


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