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≪ 後宮 ≫
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***
前を歩く煌仁と翠子のふたりは、篁と朱依の騒ぎも気にかけず穏やかに歩いていた。
「あそこに梅があるだろう? あちらが紅梅、向こうが白梅」
今は冬が近いゆえ枯れ木のようにひっそりとしているが美しい樹形である。花をつければさぞかし見事であろう。
「はい」
「なのでここは梅壺と呼ばれているんだよ」
藤がある藤壺などと煌仁は丁寧に説明する。弘徽殿や麗景殿など、内裏のうち、北にある七殿五舎(しちでんごしゃ)を後宮と呼ぶとも教えてくれた。
麗景殿に向かった時と同じ簀子を進んでいるが、こうして説明されながら歩いていると景色も違って見える。
「ここが後涼殿。私は今ここに仮住まいをしているんだ」
「仮ですか」
「ああ、ここは内裏と言うんだが、その外側の大内裏という一角があってな。普段はそこの東宮雅院にいるのだ。二の皇子が元気になるまではここにいる」
ここで少し休もうと煌仁が言い、後涼殿の中に入った。
朱依と篁は入ってすぐの廂に腰を下ろして、相変わらず熱心に会話を交わしている。
大きな体を傾けるようにして朱依の話を聞く篁と、言いたいことを言っているだろう生き生きとした朱依の様子を見て、翠子はくすっと笑う。
お似合いなふたりだと思う。朱依に言ったら怒るだろうけれど。
女官が持ってきてくれたお茶を手にかけると、どこからか琴の音が聞こえてきた。
穏やかで優しい響きだ。
耳を澄ましていると今度は重ねるように別の音が聞こえてきた。美しい調べだが、強い響きがある。
「最初の音は麗景殿、後の音は弘徽殿の女房たちだな」と、煌仁が苦笑する。
ああなるほど、張り合っているのかと納得した。
後宮の妃というのは、一族の命運をかけて入内する。負けるわけにはいかないという強い意志が琴の音にも表れているようだった。
そういえばと、翠子はふと思った。
彼の妻はいったいどこの家の姫だろう。同じように争いに巻き込まれているのだろうか。
「煌仁さまのお妃さまは、どちらの殿舎にいらっしゃるのですか?」
「おらぬよ? ひとりも妃はいない」
「え?」
翠子は首を傾げた。
「恋人はいらっしゃるのでしょう?」
「おらぬ」
たくさんの女性がいる後宮で、これほどの美丈夫なのに、なぜ?
「どうしてですか?」
「まあなんというか、これ以上、後宮に争いの種を作るわけにもゆかぬしな」
なるほど。争いと聞けばなんとなくはわかる気もするが、恋人くらいは、本当はいるのじゃないだろうか。
「でも――」
(この先、東宮を皇子に譲るのですよね?)
皇子が成人になるにはあと十年以上先とはいえ、譲ってしまえば争いなど関係ないのでは? と思ったが……。
「ん?」
「あ、いえ」
小さな皇子がどう成長するか。この先何が起きるかは、誰もわからない。
まだよく彼を知らないとはいえ、彼に対する周りの反応を見ていれば翠子にもわかる。翠子の元を訪れている時も、絶えず伝言が届く。
皆が彼を頼っている。
世話をしてくれる女官も唯泉も同じように言う。
『ここ後宮は東宮がいなければ混迷を極めるだろう』
わがままで不遜な態度を取り続ける自分にも優しい。思慮深くて悠然と構えた素晴らしい方だと翠子は思う。
こんな人に国を治めてほしいと自分が思うくらいだから、彼が帝になるのを望む声は大きいに違いない。
そして、周りが強く望めば、彼は断り切れないだろうと思うのだ。
(煌仁さまはこのまま、この欲が渦巻く宮中で、ずっと……)
「姫は? 通う公達はおらぬのか?」
「え? 姫?」
一瞬誰の話かわからなかった。
「そなたの話だ。姫ももう恋人がいてもいい年ごろだろう?」
「わ、私は、祓い姫ですもの……」
通う人など考えたこともなかった。祓い姫などと忌まわしげな名で呼ばれる女に、誰が近づこうとするものか。
言わなくてもわかるだろうに、存外意地悪な人だと思い、悲しくなる。
「なぜそのように悲しげにする。そなたのように美しく、心の清らかな姫は他にはおらぬぞ?」
そんなふうに言われてもうれしくはない。
(私は清らかでもないし、美しくもない)
反論したところで、煌仁は否定してくれるだろう。優しい人だから。
でも褒められれば褒められるほど空しさが募る。
どうしてかはわからないけれど。とても悲しい。
「姫よ、ここをどう思うか?」
「ここ、ですか?」
「そう。宮中をどう思う?」
「とても荘厳で雅やかなところだと思います」
そして、欲や怨念渦巻く怖いところ……とは、心の中で答えた。
「そうだな。まあ、そうだ」
「煌仁さまは幼き頃より、宮中にお住まいなのですよね?」
「ああ。私の家はこの女の園だ。東宮でなかった時期も含め、考えてみればたくさんの母や姉がいるようなものだな。美しい装飾の貝合わせや冊子や双六、ここにはなんでもある」
聞く限り毎日が楽しそうだが、薄く微笑む煌仁はどこか寂しそうに見える。
「皆、煌仁さまをお慕いしていらっしゃいます」
「そうだな……。皆の気持ちはありがたいが、それでも、どこか遠くに行きたい」
えっ?
「遠くへ、ですか?」
「ああ、そなたもそう思っているのではないか?」
煌仁は翠子を振り向き微笑んだ。
(私が? 遠くへ?)
自分はそんなふうには思っていない。
朱依や爺や使用人の皆がいてくれればそれだけで十分に幸せだものと、心の中で反論した。
けれど――。
彼が屋敷に来て勅命だと言ったとき、どこかほっとしたのではなかったか?
その先に破滅が待っていたとしても、ようやく祓い姫という呪縛から自由になれると、肩の荷がおりたような気がしたのではなかったか。
込み上げる複雑な思いに耐えるように、翠子はキュッと唇を結ぶ。
「煌仁さまは、意地悪ですね」
「ん?」
「私が困ることばかり言う」
あははと白い歯を見せて煌仁は笑う。
悔しそうに顔をしかめて見上げた翠子は、煌仁の笑顔が眩しくて慌てて瞼を伏せた。
「困らせても知りたいからな。姫がなにを思い、どう生きてきたのか」
「知っても、何もおもしろくはないです」
「でも知りたい」
(――からかってるんだわ)
唇を尖らせ扇で顔を隠した。
「いくつかわかったぞ。甘い菓子が好き。冊子が好き。そして猫が好き」
煌仁は指を折りながら続ける。
「正直で、怖いもの知らずで、そのくせ臆病で。萩の花が好き。りんどうが好き」
「もう、やめてください」
「夕焼けが好きだろう?」
ついおかしくて翠子は笑い出した。
「やめてくださいってば」
煌仁も楽しそうに笑う。
くすくす笑い合ううち、ふいに煌仁が言った。
「姫は市場に行ったことはあるか?」
「いえ、ありません」
東の市は盛況で何でも売っていると聞く。国中の特産品だけでなく大陸の珍しい物まで所狭しと並んでいるらしい。
翠子は朱依や使用人から市場の土産話を聞くのを、いつも楽しみにしていた。
「ならば、この機会に一緒に行ってみるか?」
「え?」
自分が行くなど考えたこともなかった。
市場の様子を聞くだけで満足だったから。
でももし――。
「今少し忙しいが、もう少しで時間ができる。そうしたら一緒に行ってみよう」
「でも……」
「時々、忍びで行くのだよ。楽しいぞ?」
まばたきも忘れて煌仁をじっと見れば、彼は優しく微笑みかける。
「行くか?」
翠子は思わず「はい」とうなずいた。
前を歩く煌仁と翠子のふたりは、篁と朱依の騒ぎも気にかけず穏やかに歩いていた。
「あそこに梅があるだろう? あちらが紅梅、向こうが白梅」
今は冬が近いゆえ枯れ木のようにひっそりとしているが美しい樹形である。花をつければさぞかし見事であろう。
「はい」
「なのでここは梅壺と呼ばれているんだよ」
藤がある藤壺などと煌仁は丁寧に説明する。弘徽殿や麗景殿など、内裏のうち、北にある七殿五舎(しちでんごしゃ)を後宮と呼ぶとも教えてくれた。
麗景殿に向かった時と同じ簀子を進んでいるが、こうして説明されながら歩いていると景色も違って見える。
「ここが後涼殿。私は今ここに仮住まいをしているんだ」
「仮ですか」
「ああ、ここは内裏と言うんだが、その外側の大内裏という一角があってな。普段はそこの東宮雅院にいるのだ。二の皇子が元気になるまではここにいる」
ここで少し休もうと煌仁が言い、後涼殿の中に入った。
朱依と篁は入ってすぐの廂に腰を下ろして、相変わらず熱心に会話を交わしている。
大きな体を傾けるようにして朱依の話を聞く篁と、言いたいことを言っているだろう生き生きとした朱依の様子を見て、翠子はくすっと笑う。
お似合いなふたりだと思う。朱依に言ったら怒るだろうけれど。
女官が持ってきてくれたお茶を手にかけると、どこからか琴の音が聞こえてきた。
穏やかで優しい響きだ。
耳を澄ましていると今度は重ねるように別の音が聞こえてきた。美しい調べだが、強い響きがある。
「最初の音は麗景殿、後の音は弘徽殿の女房たちだな」と、煌仁が苦笑する。
ああなるほど、張り合っているのかと納得した。
後宮の妃というのは、一族の命運をかけて入内する。負けるわけにはいかないという強い意志が琴の音にも表れているようだった。
そういえばと、翠子はふと思った。
彼の妻はいったいどこの家の姫だろう。同じように争いに巻き込まれているのだろうか。
「煌仁さまのお妃さまは、どちらの殿舎にいらっしゃるのですか?」
「おらぬよ? ひとりも妃はいない」
「え?」
翠子は首を傾げた。
「恋人はいらっしゃるのでしょう?」
「おらぬ」
たくさんの女性がいる後宮で、これほどの美丈夫なのに、なぜ?
「どうしてですか?」
「まあなんというか、これ以上、後宮に争いの種を作るわけにもゆかぬしな」
なるほど。争いと聞けばなんとなくはわかる気もするが、恋人くらいは、本当はいるのじゃないだろうか。
「でも――」
(この先、東宮を皇子に譲るのですよね?)
皇子が成人になるにはあと十年以上先とはいえ、譲ってしまえば争いなど関係ないのでは? と思ったが……。
「ん?」
「あ、いえ」
小さな皇子がどう成長するか。この先何が起きるかは、誰もわからない。
まだよく彼を知らないとはいえ、彼に対する周りの反応を見ていれば翠子にもわかる。翠子の元を訪れている時も、絶えず伝言が届く。
皆が彼を頼っている。
世話をしてくれる女官も唯泉も同じように言う。
『ここ後宮は東宮がいなければ混迷を極めるだろう』
わがままで不遜な態度を取り続ける自分にも優しい。思慮深くて悠然と構えた素晴らしい方だと翠子は思う。
こんな人に国を治めてほしいと自分が思うくらいだから、彼が帝になるのを望む声は大きいに違いない。
そして、周りが強く望めば、彼は断り切れないだろうと思うのだ。
(煌仁さまはこのまま、この欲が渦巻く宮中で、ずっと……)
「姫は? 通う公達はおらぬのか?」
「え? 姫?」
一瞬誰の話かわからなかった。
「そなたの話だ。姫ももう恋人がいてもいい年ごろだろう?」
「わ、私は、祓い姫ですもの……」
通う人など考えたこともなかった。祓い姫などと忌まわしげな名で呼ばれる女に、誰が近づこうとするものか。
言わなくてもわかるだろうに、存外意地悪な人だと思い、悲しくなる。
「なぜそのように悲しげにする。そなたのように美しく、心の清らかな姫は他にはおらぬぞ?」
そんなふうに言われてもうれしくはない。
(私は清らかでもないし、美しくもない)
反論したところで、煌仁は否定してくれるだろう。優しい人だから。
でも褒められれば褒められるほど空しさが募る。
どうしてかはわからないけれど。とても悲しい。
「姫よ、ここをどう思うか?」
「ここ、ですか?」
「そう。宮中をどう思う?」
「とても荘厳で雅やかなところだと思います」
そして、欲や怨念渦巻く怖いところ……とは、心の中で答えた。
「そうだな。まあ、そうだ」
「煌仁さまは幼き頃より、宮中にお住まいなのですよね?」
「ああ。私の家はこの女の園だ。東宮でなかった時期も含め、考えてみればたくさんの母や姉がいるようなものだな。美しい装飾の貝合わせや冊子や双六、ここにはなんでもある」
聞く限り毎日が楽しそうだが、薄く微笑む煌仁はどこか寂しそうに見える。
「皆、煌仁さまをお慕いしていらっしゃいます」
「そうだな……。皆の気持ちはありがたいが、それでも、どこか遠くに行きたい」
えっ?
「遠くへ、ですか?」
「ああ、そなたもそう思っているのではないか?」
煌仁は翠子を振り向き微笑んだ。
(私が? 遠くへ?)
自分はそんなふうには思っていない。
朱依や爺や使用人の皆がいてくれればそれだけで十分に幸せだものと、心の中で反論した。
けれど――。
彼が屋敷に来て勅命だと言ったとき、どこかほっとしたのではなかったか?
その先に破滅が待っていたとしても、ようやく祓い姫という呪縛から自由になれると、肩の荷がおりたような気がしたのではなかったか。
込み上げる複雑な思いに耐えるように、翠子はキュッと唇を結ぶ。
「煌仁さまは、意地悪ですね」
「ん?」
「私が困ることばかり言う」
あははと白い歯を見せて煌仁は笑う。
悔しそうに顔をしかめて見上げた翠子は、煌仁の笑顔が眩しくて慌てて瞼を伏せた。
「困らせても知りたいからな。姫がなにを思い、どう生きてきたのか」
「知っても、何もおもしろくはないです」
「でも知りたい」
(――からかってるんだわ)
唇を尖らせ扇で顔を隠した。
「いくつかわかったぞ。甘い菓子が好き。冊子が好き。そして猫が好き」
煌仁は指を折りながら続ける。
「正直で、怖いもの知らずで、そのくせ臆病で。萩の花が好き。りんどうが好き」
「もう、やめてください」
「夕焼けが好きだろう?」
ついおかしくて翠子は笑い出した。
「やめてくださいってば」
煌仁も楽しそうに笑う。
くすくす笑い合ううち、ふいに煌仁が言った。
「姫は市場に行ったことはあるか?」
「いえ、ありません」
東の市は盛況で何でも売っていると聞く。国中の特産品だけでなく大陸の珍しい物まで所狭しと並んでいるらしい。
翠子は朱依や使用人から市場の土産話を聞くのを、いつも楽しみにしていた。
「ならば、この機会に一緒に行ってみるか?」
「え?」
自分が行くなど考えたこともなかった。
市場の様子を聞くだけで満足だったから。
でももし――。
「今少し忙しいが、もう少しで時間ができる。そうしたら一緒に行ってみよう」
「でも……」
「時々、忍びで行くのだよ。楽しいぞ?」
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