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≪ 弘徽殿 ≫
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しおりを挟む後宮を散歩してから、またしばらく日が経った。
木の葉は赤く黄色く色づき始めたが青々とした空は晴れ渡り、ぬくぬくとした穏やかな午後である。
綿入りの円座の上で丸くなったまゆ玉が気持ちよさそうに寝ている横で、唐菓子をつまんだ朱依は、温かい麦茶をひと口飲んで、扇を広げてあくびをした。
「ふぁ」
煌仁も唯泉も忙しいらしく、ここ数日顔を見せない。
篁は時々やってきて報告をしてくれる。毒を盛った犯人はまだ特定されないが、皇子は元気になってきたし、物の怪も姿を現さないらしい。世話をしてくれる女官に聞いても、麗景殿も弘徽殿も落ち着いているそうだ。
夜の警備がついたせいか、あれ以来不審な文が投げ込まれたりもしていない。
唯泉が殿舎という殿舎を片っ端から祓って歩いているという、そのせいか翠子の体も心も軽くなったような気がしていた。
そんなわけで、後宮は平和な日々が続いている。
「うーん」と唸ったのは翠子だ。
脇息に寄りかかり、煌仁にもらった冊子を読んでいる。
「どうしました?」
「この物語でも、すてきな公達が姫をさらうの。不幸な家からね」
「ほぉー。でもまあ、恋物語ではありがちな出来事ですしね」
「そうなの?」
「ええ。すてきな公達はそうやって、姫を不幸からさらってくれるものなのです」
「へえ」
さすが恋物語好きな朱依である。
翠子は妖怪が出てくる話や冒険物が好きなので、恋物語はこれまであまり読んでいなかった。
「気になるんですね、姫さま。恋物語が」
朱依が口もとをにやにやさせながら目を細めてじっと見る。
「だって他にないんだもの……」とは言い訳で恋物語の他にも冊子はある。なのに最近は、意図せずとも手に取る冊子はどれも恋物語だった。
「姫さまもお年頃なんですから興味をもって当然ですよ。むしろ遅いくらいです」
「ねえ朱依、恋するってどんな気持ちなの?」
「そうですねぇ、この辺が」と、朱依は左胸に手をあてた。
「どきどきして、寝ても冷めてもその人しか考えられないって感じですかねぇ」
実は私も経験はしていないのでと朱依は笑ったが、翠子は密かに焦っていた。
心当たりがある。
〝寝ても冷めてもその人しか考えられない〟
その人しか考えられないわけではないが、つい考えてしまうのだ。
麗景殿で抱き上げてくれた彼。琵琶を弾く彼。翠子をからかって笑う彼。ふとした瞬間に脳裏に浮かぶのである。
これが恋ならどうなってしまうのだろう。
(どうもこうもないわ。考えるだけ無駄よ)
煌仁は東宮という高貴な方だ。たとえ一方的でも恋をしてもいい相手ではないのだから。
「いつか姫さまも素敵な公達がさらってくれますよ」
そんなの無理よ、祓い姫なのにと心で言ったけれど口にはしなかった。言えば朱依が悲しむだろうから。
「篁に聞いたんですけれど、東宮は恋人もいらっしゃらないそうですよ。とてもまじめな方なんですって」
煌仁がどれほど人望があるか、篁から聞いた話を朱依は翠子に聞かせた。
細かい話はさておき、自分が知らない煌仁の話を聞くのはとてもうれしかった。「それで?」と続きをせかすようにして、翠子は話を聞く。
「あんなに女官に冷たいのに人気があるのは、皆知っているからだそうですよ。東宮が立派な方だって」
朱依はそう締めくくった。
「私、申し訳なかったわ。失礼な態度ばかりとって……」
「姫さまはよろしいんですよ。無理やり連れてこられたんですから」
「でも」
「いいんです。ご期待に応えたじゃないですか、それでおあいこですよ」
それでも浮かない顔の翠子に「じゃあこうしましょう」と朱依は提案した。
「市に行ったら、糸を買って紐を作って差し上げるというのはどうですか?」
「組紐?」
「ええ、紐は使い道が色々ありますから」
「それはいいわね」
まだ予定は決まっていないけれど、東市に行く楽しみがひとつ増えた。
「あ、そうそう姫さま。もうひとり、東宮と人気を分けているすてきな公達がいるらしいですよ?」
朱依は、その辺にいる女官を捕まえては色々聞いているらしい。
いつの間にか結構な事情通である。
「ふうん」
興味がなさそうな翠子に構わず、朱依は説明を始めた。
「弘徽殿の女御の弟君らしいですよ」
「へえ」
弘徽殿の女御の弟と聞けば興味が湧く。
「結婚もせず、あちこちで浮名を流しているらしいです。やですねー、そういう男は」
「うん。そういう人は嫌い」
煌仁には恋人すらいないのにとムッとして、また考えてしまったとハッとする。
気にするから余計気になるんだわと自分に言い聞かせた。
(そういえば。煌仁さまはどうして知っていたんだろう)
『萩の花が好き。りんどうが好き』
後宮を散歩した日、彼は翠子が好きなものを告げた。
今度会ったときに知っている理由を聞かなくちゃと思うと、わくわくと胸が弾む。
自分の好きなものを気にかけてもらえるのは、存外うれしいものだなと初めて知った。
優しい人だから、煌仁は恋人や妻を大切にするに違いない。気にかけてもらい愛される女性がちょっと羨ましく思った。
今は恋人すらいなくても、いつかは結婚するのだろう。
帝になれば妃なしというわけにはいかない。もし、予定通り東宮の座を譲ったならばもう障害はなくなる。僧にでもならない限りいずれは妻を迎えるのだろう。
彼が選ぶのはどんな女性なのか。
『皆の気持ちはありがたいが、それでも、どこか遠くに行きたい』
そう言った時の遠い眼差しを思い出し、ふと切なさが込み上げる。
優しい女性だといい。
どこか寂しそうな彼の隣で寄り添ってくれる心穏やかな人がいい……。
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