お針子の魔法使いと悪魔の弟子

蛾脳シンコ

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第1話『レンリエッタの苦悩』

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 東の海に浮かぶ国、『クークラン公国』はまさに発展を遂げていた。
 東国式蒸気機関の開発と悪魔世界(略して魔界)の悪魔達を奴隷として使役する事でそこいらの国よりもアッと先を行く先進国であった。
 そしてそのクークランの首都であるシャフターナには立派な城とそれらを囲う街があった。

 まず城を囲む一流街は国を統治下に置く『クーセイルクラウン家』に近しい者や貴族などが住む上流階級専用の街であり、煌びやかな雰囲気の漂う場所である。
 次にその一流街を囲むのは中流階級の国民たちが暮らす二流街であり、最も大きく最も栄えている街。
 さらにその二流街を囲ってしまうのは三流街…下流階級の生産者やあぶくれた悪魔達が暮らすみすぼらしいスラム街だった。

 今回のお話は三流街との厚く高い壁と一流街との低い柵に挟まれる二流街に住む…ある少女の物語である…





 二流街、商業地区のシープ通りでは今日もいつも通りの朝が始まろうとしていた。
 昇る太陽が煌びやかな朝日で石造りの大通りを照らし、道端で寝ていた野良ネコや悪魔を眩しがらせるのもいつもの通りだった。
 そんなシープ通りの34に建つ仕立屋『ウェアクロース・テーラー』の看板も朝日に照らされ、ドアの取っ手がキラキラと輝くと同時にある言葉が響いた。

「さっさと起きろ、レンリエッタ!」
「う、う~ん……はい~…」

 荒波に呑まれる夢を見ていた少女、レンリエッタはガタついたドアの向こうから響く声に目を開けた。遮るカーテンも無いので遠慮なく朝日が差し込むその部屋には机と椅子が一つと骨にマットを乗せたようなベッド、そしてボロボロのタンスがあった。
 レンリエッタは背の中間ぐらいまで伸びる長い白髪をまだ覚めきれない手付きで梳かし、そのままのろのろとタンスを開けて中の衣服を取ると気持ちの悪い虫を引き剥がして言った。

「毎日毎日、私の服なんて食べてもおいしくないのに…」
「何してるんだい!さっさと支度を済ませな!」
「ひぇ!?は、はい…」

 妙に小綺麗な服に着替えていると突然バンッと部屋の扉が開き、青筋を立てた義理の母のミシェンがきつい声で怒鳴りながら現れた。すっかり目が覚めたレンリエッタは情けない返事をすると階段を降りて行く彼女の足音を聞き、ホッとした。
 義母はそれはそれは恐ろしい女であり、まるで親の仇の様に何かある度にレンリエッタを怒鳴り付けたり、酷い仕置きを行うのだ。今日はツイていた、湯の沸いた鍋を持っていなかったので今朝は寒い思いをせずに済んだのだ。

 レンリエッタが3階の自室(元用具入れ)から2階のダイニングへ降りると義父のペンスーンがご自慢の口髭を撫でながら新聞に目を通していた。キッチンでは先ほどの義母が朝食の卵を焼きながらチラッと彼女の方を見て舌打ちをして、その近くのテーブルには最も嫌う2人が居た。

「あらぁ、レン。今朝はびしょ濡れじゃないのね。」
「なんですって?はぁ…!賭けは私の負けね。」
「……おはよう。」
「黙りな、アンタのせいで2ケイルも負けちゃったじゃない、どうしてくれんのよ。」

 その二人はウェアクロース家の娘であった。
 母と同じ紺色の髪を垂らすベリーは尖った瞳で嫌味な笑顔を浮かべ、その妹メルキンは父譲りの茶色い髪の毛をくねらせては少し不満げな表情を浮かべた。悔しい事にどちらも美人である。
 それ等はレンリエッタが世界で最も嫌う二匹の小鬼だ。ことある事にからかって来たり、小突いて来たり、物を奪って行ったり、酷い時は川や道路の真ん中に放り出してくるのだ。好きになる方が無理だった。
 賭けに負けたとメルキンはレンリエッタ(彼女等はレンと呼ぶ)へ詰め寄るが、幸運か不運かミシェンが金切り声で怒鳴りつけて来た。

「コーヒーが沸いたよ!さっさと皆のカップに注ぎな!」
「分かりました…はぁ…助かった…」
「ふん、覚えときなさいよ。」
「あは!儲かった儲かった♪」

 認めたくはないがミシェンに助け舟を出されたレンリエッタはコーヒーの注がれたサーバーを持ってテーブルの上に置かれたカップに一つ一つ注いで回った。
 まず最初にペンスーンの白いマグに注ぎ、その次にベリーのカップに注ぐとメルキンが「ちょっと!」と不満を漏らしたのでその次に注いだ。そしてミシェンと来て最後は自分のだが…もう残っていなかったので諦めた。
 きっちり4人分、家族の分だけがあった。レンリエッタはコップに水道水を注いでそれに並べてみたがまるで浮いており、まさにそれはこの部屋を表していた。

 その朝、レンリエッタは水を一杯と湿気たクラッカーを2枚ほど食べて朝食を終えた。食欲は無かったし、これ以上食べろと言われても絶対に手が進まないと確信していたが何故かは分からなかった。
 食事を終え、素早くコップを洗ったレンリエッタはミシェンから朝の小言を言われる前にとっとと1階のテーラーへと降りるとショーウィンドウのカーテンを開け、朝日で店の中を照らした。

「はぁ…(今日も一日が始まる…張り切って行かないと…!)」

 そう意気込むと大通りの真逆を向き、店の中を見渡し始めた。
 朝日に照らされるテーラーに並ぶのはこの店で仕立てられた衣服たち。スーツやドレスは礼服用の地味な色の物もあれば、祝いの席などにも適した少々派手な色合いの物もある。
 もちろんスーツとドレスに限らずありとあらゆる服が並べられており、レンリエッタはその光景を見るのが好きだった。

「レンリエッタ、店を開ける。さっさと奥に行け。」
「は、はい…」

 店に目を通しているとペンスーンが足早に降りて行き、レンリエッタへ奥に行けと言って作業場へと移らせた。奥へ行けと言う言葉は決して「さぁ仕事をするぞ」なんてものではなく、その真意は彼女を店から遠ざける為だった。
 何故かと言えば問題になるのは白い髪。13歳の子供なのにたっぷりと白髪を垂らす彼女は見慣れない者からすれば不気味と言う他なかったのだ。
 肌の色も全員白めの家族に反して少し黒めなので見つかってしまえば良からぬ噂を立てられるのは当たり前だし、過去に幾度かあった。その都度ミシェンを始めとした家族は『雇っている異邦の子』と称して誤魔化している。
 レンリエッタ本人もその事で悩む事は多々あったので気持ちは痛いほど分かっていたが、それが余計に辛かった。どう足掻いても家族の一員にはなれないという事実が。

「さぁてと……よし!仕事するぞ!」

 だがいくらクヨクヨしていてもどうにもならない。
 レンリエッタは見慣れた作業場へやって来るとポーチが付いた厚手のエプロンを結び、胸を張って部屋を見渡した。大きな作業机が置かれ、棚には服やら布が大量に置かれたちょっと狭い部屋(だが自室より広い)…此処こそが彼女が最も自分を好きになれる場所なのだ。

 レンリエッタの仕事は仕立屋の裏方である。
 仕立てる衣類の布を型紙に沿って裁断したり、刺繍を縫い込んだり、補修する事などが主な業務。ミシンは旧式と言えど中々に使わせてもらえなかったので針仕事は基本的に手作業で行う。
 だがその針仕事こそがレンリエッタの唯一の強みであった。

「(やっぱり私って針子が似合ってるのかな……他にやらせてもらえないし、楽しいから良いんだけど…)」

 髪を結んだレンリエッタは暗いジャケットに刺繍を縫い付けながら考えていた。
 確かに針仕事は好きだし、現にスルスルと作業を終えて次の服に移っている。だがこれ以外に楽しみが無い人生と言うのは少しばかり悲しくは無いだろうか。
 同年代の少女たちは学校へ通い、そこで友達と一緒に流行りや男子の事でも話すのだろう。だがレンリエッタには通う学校も気軽に話せる友達も居なかった。

「(このままずっと……此処で…いいや!ダメダメ…成人したら出て行くって決めてるんだから…!)」

 もしかしたら一生此処に縫い付けられたままなんて事が頭に浮かんだが直ぐに振り払い、気が付くと刺繍の縫い付けは終了していた。
 次にボタンの縫い付けに移った。こちらは刺繍に比べれば全然楽である。場所は決まっているし、ちょっとばかり糸を通して縫い付けるだけで終わってしまう。

「はぁ~あ…(一度でも良いから何でもない日に外へ出てみたいなぁ)」

 レンリエッタは一度手を止め、窓から外を眺めた。
 見える景色は変わり映えが無かったがそれでも息抜きはなる。店の裏を流れる川とその上を進む蒸気船、川を挟んで対岸の裏道を進む数人の悪魔たち、偶に窓の前を横切る野良猫など…
 外の様子は素晴らしく見えた。レンリエッタはたったひとりで街を歩いてみたいという衝動に駆られたが……直ぐにその気は失せてしまった。

「(けど、駄目だよね…)」

 自分はあくまでもこの店に育ててくれた恩を返すために働いているのだ。
 結局気持ちが晴れる事は無く、彼女は再度手を動かし始めた。

 結局その日はいつものように閉店時間の17時まで特に何も起きる事は無かった。そう、17時までは…



「あぁ、すいません!ちょっと良いですか!」
「お客さん、随分と慌てて何か様ですかね?申し訳ないが当店はもう閉店時間で…」

 日が暮れてきた影響ですっかり大通りも落ち着いて来た頃。
 ペンスーンがカーテンを閉め、ドアのカギを閉めようした時にひとりの客が現れた。
 客はスーツを着た礼儀正しそうな青年であり、その印象とは裏腹にひどく慌てているように見えた。汗だくで手には何か渋い色のコートを抱えている。
 レンリエッタは作業部屋からちょっとだけ顔を出し、その様子を伺っていた。

「(何しに来たんだろう…)」

「お願いします…ボタンを直すだけで良いんです!明日の朝には伺うので!」
「困りますね、うちは営業時間外の受付はしていないんです。」
「そこをなんとか出来ませんか!?どうしても明日の昼には必要なんです!完璧な状態でないと…あぁ!」

 ペンスーンは断ろうとしていたが青年のあまりの慌てぶりにどこか同情を感じていた。
 少し考えると彼はくるっと作業部屋の方を見て、レンリエッタは一瞬だけ目が合った後にバッと隠れたが…当然にも彼は作業部屋へやって来た。

「おいレンリエッタ、お前に仕事を頼めるか。」
「……あのコートのボタンを付ければ良いんですか?」
「ああ、普通なら追い返すところだが……どうにも思い当たる節があってな、出来るか?」
「出来ると思います……いや、出来ます。」

 レンリエッタはぎこちない返事をしたが直ぐに取り消し、出来ると断言した。
 するとペンスーンはまたしてもクルッと踵を消して先ほどの青年が待つ店へと戻ると、優しい声で伝えた。

「明日の朝、7時に取りに来れますか?」
「は、はい!もちろん!お代は沢山支払います!」
「だとしたら受けましょう、代金はその時に頂きます。」
「あ、ああ!ありがとうございます!本当にありがとうございます!!」

 ペンスーンが仕事を引き受けると青年は何度も礼を言って頭を下げた。結局力づくで追い出すまで10分以上も感謝を伝えたが、決して悪い人間では無さそうだ…頭が良さそうとも言えないが。
 というわけで臨時の仕事が入ったレンリエッタは早速コートを受け取った。そのコートは渋い黄土色をしており、触った心地と妙な感覚から尋常でない品だと気が付いた。

「こ、これって……」
「どうかしたのか?」
「いや…なんでもありません……直ぐに補修作業に移ります…」
「そうしてくれ、ボタンはこれだ。」

 取り付けるボタンを受け取ったレンリエッタは直ぐに作業場へ戻り、机の上にコートを広げた。
 やはりそれは妙な雰囲気を放っている…まるで何か不思議な存在が憑りついているかのようだ…幽霊か何か、あるいはもっと恐ろしいものか…

「す、すごい……こんなに強い感覚は初めて…」

 実はその感覚を感じる事は初めてでは無かった。
 昔からレンリエッタは特定の場所、特定の物に対して妙な雰囲気を感じる事が多々あったのだ。磁場と言えば良いか、まるで……そう、例えるとするならば魔法のようなもの。
 キラキラとしたオーラのようなものが纏わり付いている場所や物、人が一定数は居るのだ…人の場合、大多数が悪魔だった。(当たり前だが言ったところで見える人も信じてくれる人もいなかった)

 だが今回感じる感覚は他のどれとも似つかないほどに強力…キラキラしたものは見えないが、ただならぬ雰囲気を感じ取って仕方がない…容易に触れて良い物なのか戸惑ってしまいそうだ。
 しかし引き受けたのなら仕事は完了せねばならない…恐れを抱いたところでレンリエッタのお針子魂は止められない。

「や、やるぞ…!」



 ――意気込むレンリエッタを下に、2階のダイニングではウェアクロース一家が夕飯を摂っていた。厄介者が居ない分、皆食事がいつもより楽しそうだった。
 メルキンは今日自分は学校でどれほど利口に振舞っていたかを両親に報告して、ベリーはと言うとその話を聞きながら内心で『うそばっかり』と思いつつも笑い堪えるように母親へグラスを差し出した。

「ねぇママ、苺ジュースをもっとちょうだい。」
「ええ、沢山あるからドンドン飲みなさいね。でもお腹を壊しちゃダメよ?」
「うふふ…ねぇメルキン、この場にアイツが居たらなんて言うかしらね?」

 真っ赤なイチゴジュースがなみなみ注がれたグラスを持つベリーの言葉にメルキンは瞬く間にイタズラな笑みを浮かべ、あははと笑った。
 アイツというのは…言わずもがな、レンリエッタの事であり、その言葉を聞いたミシェンは少しばかりムッと顔をしかめた。一方でペンスーンは黙って顔色も変えずにヴルストを口に運んでいる。

「きっと青ざめるに決まってるわ、そして殺す気なの!?って喚き散らすに違いないわね。」
「アイツの慌てる顔が思い浮かぶわねぇ…あはは!」
「止めなさいな二人とも、食事が不味くなる。」
「うふ…ごめんなさいママ。」

 口では謝りつつもベリーは『これ以上不味くなるもんか』と思いながら夕飯を半分以上残して席を立った。
 一方でメルキンは自身のコップに波打つジュースを見て薄ら笑いを浮かべた。その滑稽な頭の中にはもう既にレンリエッタをいじめる策が浮かんでいたのだ。
 彼女は姉ベリーへ耳打ちするようにそっと話し掛けた。

「姉さん、賭けをしない?」
「なによコソコソ言うなんて…今朝のリベンジのつもり?一体どんな勝負をする気?」
「さっき私が言ったセリフ、アイツがそっくりそのまま喋ったら3…いや4ケイルちょうだい」
「ふ~ん…ちなみにアンタが負けたら私に得はあるの?」
「私がさらに4ケイル払うわ。」

 メルキンの企みは今朝の賭けのリベンジでもあった。イチゴジュースを見せ付け、もしレンリエッタが先ほどのセリフをそのまま喋れば今朝の倍を貰い、負ければ倍払うと言うのだ。
 それを聞いたヴェリーは「乗った」の一言で承諾し、二人は早速両親の目を掻い潜ってコップを持って下へと降りて行った。

 仕立屋の作業部屋では既にレンリエッタがボタンの取り付けを終えて椅子に座りながらコートを眺めていた。
 目が離せない、例えるとするならば金銀財宝の様である。このコートが欲しいという無茶な願いすらも頭に思い浮かんでしまう…それ程までに魅力的なのだ。

「凄いなぁ…このコート……なんだか、欲しくなっちゃう…」
「調子はどうかしら?レェ~ン?」
「うわぁ!メルキン…な、なんなのさ!?」

 うっとりとしていたレンリエッタは虫唾の走る猫撫で声を聴いてゾッと意識をドアに向けると、そこにはメルキンがいつも通り「これからいじめてやるよ」と口より物を言う表情で立っていた。ドアの陰からはベリーが笑いを堪えている音が響いていた。
 直ぐに出て行ってもらいたいレンリエッタは強気に出ようとしたが、彼女の持つコップが赤い液体で満たされているのを見て、さらにゾッとした。それはまさしくアレである。

「そ、それ……まさか…!」
「そのまさかよ、アンタのだ~いすきなぁ…新鮮なイチゴジュースよ!」
「それを近付けないで!あっちにやって!!」

 コップの液体がイチゴジュースだと理解したレンリエッタは一気に血の気を引かせて顔を真っ青にすると怯えながら後ずさりした。イチゴジュースに怯えるのも変な話だが、彼女が重度のイチゴアレルギーだと知れば納得出来るだろう。ひと齧りはもちろん、ジュースなんて一滴でも口に入れば喘息になってしまう。
 そんな相手にメルキンはさらに笑みを浮かべながらナイフの様にコップを突き付け、じわじわと詰め寄った。口を開かせようと苦しませる点ではある意味拷問と同じである。

「甘酸っぱくて美味しいイチゴジュース、飲みたくないの?今日だけ一杯あげるけど?」
「ふざけないで!私を!?そんなの早くどっかやってよ!」

「あーー!言った言った!賭けは私の勝ちよ!」
「えっ……?」
「あーあ!まったく…損しちゃったじゃない!なんて事してくれたのよ!」

 意外にもすんなり当たりワードを引いたメルキンはまるで子供の様にはしゃいだ。
 まるで意味が分からないレンリエッタは(これ見よがしに)悔しそうなベリーがドアの陰から出て来るのを見て、また自分が賭けの対象にされたのだと理解した。
 いつもなら惨めさや悲しみが襲って来るのだが……今回ばかりは違った、とても激しい怒り…そして憎しみが昇って来るのをその身で感じていた。自分の命を平然と脅かす二人に対して真っ青だった顔が一気に真っ赤へ燃えるような怒りが湧き出ている…

「ふざけないでよ!!なんでそんな事するのさ!!死ぬかもしれないのに!!」
「なによ柄にも無くプンプンしちゃって。そもそも大袈裟すぎるのよ、イチゴを食べて死んだ奴がこの世に居ると思うの?きっと居たとしたらアンタが最初でしょうね!」
「くぅッ…!!もういいよ!出てってよ!!早く部屋から出て行ってッ!!」
「はん!こんなしみったれたババ臭い部屋、直ぐに出て行ってやるわよ!」

 涙を浮かべて歯を食いしばり、喉が張り裂ける様な声で怒鳴るレンリエッタにメルキンは言い返しながらも部屋を出ようとした。だが……その足元に、微かに光る一本の糸が張られていた。まるでブービートラップの様にピンと張られた緑色の糸…その糸が一体なぜそこへ、誰が張ったのかは不明だが…メルキンは見事に糸に足を取られてつまづいてしまった…

「あぁ…!?」

 メルキンは間の抜けた声を出して躓き、倒れ込んだ。倒れ込んだ先には作業机があった。そしてその机には………例のコートが置かれていた。

「いったぁ…!いてて……あ…」
「あぁ!!そ、そんなぁ!コートが…!」

 ドスンッと倒れる音の後、バシャンッと液体が弾ける様な音がした。
 言わずもがな…コートにはイチゴジュースが降りかかり、大きな…大きな染みを作っていた。クークラン全土よりも立派な地図だった、優雅な半島もあったがそれどころではない。
 すっかり血の気が引いたレンリエッタは直ぐに布を当てて拭き取ろうとしたが染みは取れなかった。

 数分後、騒ぎを聞きつけたミシェンとペンスーンにレンリエッタは怯えながら事情を説明した。
 甘い匂いが沸き立つその部屋で、彼女へ掛けられたのは哀れみや慰めの声では無かった。

「なんて事してくれたんだい!!このノロマな役立たずめ!!」
「ごめんなさぃ…ごめんなさい…!」
「お客様の大事な召し物が台無しじゃないか!どうやって責任取るつもりだい!?」
「うぅうう…」

 ミシェンは文字通り鬼の形相でレンリエッタを怒鳴りつけた。病人のような白い顔には青筋が浮かび、その瞳はまるで目の前の役立たずを引き裂くかのように強烈だった。
 だがレンリエッタは頭が追い付かず、ただ「ごめんなさい」と言うばかりで何もしようとはしなかった。自分が死ぬほど惨めで最悪な奴だと卑下して現状に言い訳をするばかり。
 メルキンとベリーはクスクスと笑い、ペンスーンはただ……怒りも悲しみも無い声で言った。

「もう部屋に戻れ」
「で、でも…コートが…」
「戻るんだ」
「…はい……ぅ…」

 その言葉に従うしか無かった。本当に冷たい声だった。
 レンリエッタはその晩、一晩中ベッドの中で自責の念に駆られながら涙を流した。



 ――『お前は世界で一番不幸なヤツだ きっと世界一惨めな死に方をするぞ みんなお前が嫌いだ』
 誰が言わずともその言葉は囁かれるようにレンリエッタの心の中で幾度となく響いた。声を漏らせないほど深い絶望と悲しみに襲われ、今すぐ誰かに殺してほしいとすら思った。
 だが彼女を殺しに現れる者は居らず、だからと言って愛する者も居ない。

 レンリエッタはいつも一人だった。



つづく…
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