不死身の遺言書

未旅kay

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四章.

5話.流転

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 私は新聞を読むことが朝の日課となっている。輪廻の輪から切り離され。数年の間、社会から隔絶された環境に身を置いていたことで世論の出来事に興味を持ったからでは全くない。
 とある知り合いの繋がりで頼まれた、千五百文字程度の新聞小説の仕事を請け負ったお陰で送られてくる、県規模で発刊されている新聞を惰性で目を通しているだけだった。

 その日だけは違った。青空を灰色の雲が覆い尽くした気持ちの良くない朝。秋晴れの存在を忘れてしまいそうになる。
 偶然なのか、必然だったのか。運命だったのか。
 私は普段なら読みもしない死亡記事の一部分に、久方ぶりの悪寒を感じ目を通してしまった。体の震えが止まらない。
 紙面の片隅に私が見知った人物の名前が事故死という言葉の横に印字されていたからである。


 その時、心から死にたいと思った。自分自身に対する殺人衝動だった。この身を現世うつしよに縛り付けた呪いから断ち切りたくて堪らなくなった。机の奥に置いていた短刀を握りしめて、力任せに存在しない足枷にその刃を突き刺し続ける。
 無意味だった。床に薄く傷ができるのみ。
 それが無意味であることに気づき、自分の手首に短刀を突き刺しては力任せに引いた。
 肉を血管を切断した。
 痛みは感じない。
 痛みを感じないことが気持ち悪い。
 ブチブチと音が鳴って、骨や筋肉が切れる音がしても、同時に血管が紡がれていく。骨が奇怪な動きで繋がっていく。

 既に事実としてはよく解っていた結果である。
 『死ぬ』ことをその概念から否定するように、元のカタチに戻っていく。床を汚す血は直ちに乾いていく。
 最近は感じることが少なかった嫌悪感がジリジリと増していく。刃が刺さった位置を、戻らないように口で噛み千切ちぎる。

 「もう……いいだろ」

 誰かへ向けられた、赦しへの懇願。

 「疲れたんだ。死なせてくれ」

 返答などはない。

 蛇口を捻って、風呂に冷水を勢い良く流し貯める。
 冷水がバシャバシャと浴槽を打ち付ける音を背に、上半身の衣服を脱ぎ、風呂に両脚を入れた。
 冷たさは痛みに変化したが、数秒で何も感じなくなっていく。
 肩まで冷水が到達し、身体全体が浸かっていく。
 水中で頸動脈を力任せに千切った。
 四肢の感覚が消失していく。全身の血管が収縮する。
 目を開くと、真っ赤になった浴槽から冷水が漏れ出ていた。
 口に流入してきた冷水により、ゆっくり私の意識は遠のいていく。


 何故だか安心感があった。
 誰もいない青き水の世界で、誰かに背後から包まれたような感覚。
 若き日の自分が共に笑い、泣いた少女。
 隔絶された空間でも、生きていることを感じることの出来ていた日々の記憶が数秒だけ蘇り、過ぎ去った。
 安心感も瞬くよりも速く、過ぎ去り消失していく。

 『置いて行かないでくれ!』

 再び脳裏をよぎったのは、黒く冷たい孤独だった。

***

 誰かに身体を持ち上げられている気がした。
 血相を変えて、赤い浴槽から私を引き上げる女。
 力の抜け、ズボンが水を吸った私の身体は、さぞ重たかろう。
 女は僅かに苦戦するも私を洗面所の前の廊下まで運び、仰向けで横たわらせた。
 さすがの女も━━赤崎亜里沙も息が荒れていた。

 「照望ッ!照望は、死なないんでしょ!目を覚ましなさい!」

 私は微かに残る意識の中、返答しようと試みるが肺や気管に溜まった水で声を出すのを妨げられた。

 「脈はあるし、生きてはいるか」

 亜里沙の温かい手が、私の手首を触れる。

 「しょうがないか……」

 亜里沙は私の胸の辺りを数回両手で圧迫してから、私の顎を軽く持ち上げた。私の口に亜里沙の唇が当たる。

 「ぐほッ、ゴホ」
 
 亜里沙が口を離すと、直ぐに私の体内に溜まっていた水が吹き出て床を濡らした。

 「すま……ない」

 「無理して動かないで。どうせ身体に力が入らないんでしょ」

 そう言うと、亜里沙はバスタオルで私の頭から順に上半身を拭いた。

 「下も脱がすから」
 
 正直、羞恥心で抵抗したかった。

 「そこは、いい」

 「こんな時に何言ってるの。別に縮んでたって意地悪言わないわよ」

 「別に、そんなわけじゃない」

 結局、一糸纏わぬ姿にされて全身の水分を拭い終えられたが、私の身体には力がうまく入らなかった。

 「このままじゃ寒いだろうから、三階のベッドまで運ぶけどいいわね?」

 「申し訳ない」

 「謝ってばかりいないで、明日には何でこんな事したのか言いなさいよ」

 亜里沙の肩を借りながら、私は三階の寝室まで移動した。

 身体がベッドに沈む。

 「私、温かい飲み物でも淹れてくるから」

 「待ってくれぇ!」

 自分でも不思議な行動だった。私は亜里沙の手を握り、彼女に離れて欲しくないと願ってしまった。

 「少しだけ……、一緒に居てはくれないだろうか」

 亜里沙は少し意外そうな表情をしてから温かい笑みを浮かべて、ゆっくり私の隣に横になった。

 「寒い?」

 「ああ」

 亜里沙は着ていた上衣を脱ぎ、履いていたズボンを下げた。
 そのまま、私の上に覆いかぶさる。

 「温かい?」

 「ああ」

 私は無言のまま、彼女の背中に片腕を少しづつ回し下着のホックを手に力を込めて外した。

 「身体に感覚、戻ってきた?」

 「……少し」

 亜里沙の胸が、私の肋骨に押し当てられるのを感じた。亜里沙の呼吸に合わせて僅かに雫を垂らしながら上下する。

 「すごく……すごく寒いんだ」

 「じゃあ、朝まで一緒に居てあげるね」

 「でも。それでは君に申し訳な……」

 亜里沙の甘く温かい息と柔らかい唇の感触が私の言葉を遮り、言葉が喉を流れ落ちた。

 「ああ。温かい」




 男と女は肉欲のを奏でながら、互いを求め合い朝を迎えた。

 性のに満たされた部屋の中で幾度となく重ねた唇を合わせる。私の腹の下を軽くなぞり、亜里沙は天井を見上げた。

 「そのぉ━━照望の大切な人のお孫さんが、亡くなった」

 「ああ。彼女の血の流れる者は、絶対に幸せにならないといけないんだ」

 私は亜里沙に手を握られ、握り返した。

 「本当に大切な人だったのね。その子供や孫にまでも幸せを願えるんだから」 

 「そうだ。とても俺にとって大切な人なんだ」

 彼女と過ごしていた時の私は、まだ私が普通の人間として生きていた頃だった。初めて好意を持った大事で特別な人物。
 
 「じゃあ、行ってみない?最期のお別れの言葉の一つでも言わないと」

 「俺にそんな権利はあるのだろうか」

 疑念を打ち消すように、亜里沙は私の体温の戻った体を抱き寄せた。

 「権利なんて関係ないよ。しっかりお別れしないと!新聞で名前を見つけたのも、きっと偶然なんかじゃないのよ」

 「ああ。ありがとう、亜里沙」

 車を二時間走らせて、葬儀場に到着した。

 故原田灯里はらだあかり、原田○○儀葬儀式場と書かれた立て看板が設置された線香くさい葬儀場の引き戸を開いた。既に中には、真っ黒な礼服を着た親類や知人で溢れていた。その大半が原田灯里の旦那となった男の側の血縁者だろう。私は普段とそれ程変わらない服装である━━ワイシャツにジーパンという格好で出向いた。そんな私の格好に対して、不快感を感じる者がいないわけではないだろう。
 故人に対しての思い出話をしたり、悼み悲しむ者の少なさに入室して数分で気づいた。

 私は原田灯里を直接見るべく、供花の前に並べられた二つのお棺の内、手前に置かれた方の前に立った。

 化粧が施された原田灯里の顔を覗き見た。不思議と私の心中の感情の起伏を感じることが出来なかった。血色は無く、口元一つ動くことのない無機質な人の顔。

 「幸せだったかい?」

 返答は勿論ない。

 「相変わらず、君は彼女によく似ているな。最初見た時は私に対しての嫌がらせかと思ったよ。━━━━生まれてきてくれてありがとう」

 私は原田灯里に最期の別離の言葉を小声で発した。

 「あの、すいません。どちら様でしょうか?」

 すると横から、僅かに涙を拭いたであろうシルクのハンカチを握った年老いた婦人が横から話しかけてきた。

 「灯里さんの知人の者です」

 「そうだったんですね。○○のことも見てやって下さい。ホント、あんな女と結婚なんてしなければ、こんなことにはならなかったかもしれないのに……」

 婦人は眉間にシワを寄せた。私が原田灯里の知人と聞いて、私の服装からの印象も相まって嫌悪感を露骨に表情に出したのだ。知人を名乗る人間に対して、その故人の悪口を言うのはどうなのだろうか。

 「おい、やめないか。人様の前で」

 背後にいた夫であろう男が、しゃがれ声で婦人の言葉を制した。身なりの整った背筋の伸びた人物であった。

 「だって…………彼奴アイツにそっくりな娘なんか残して」

 「ぉぃッ!」

 再びの夫の先程よりも強めの声に、婦人は気まずさと遣る瀬無い気持ちの入り混じったような表情で黙った。

 「いえ、もう片方には特に思い入れも無いので結構です」

 私は声色を変えぬように励んだ。
 婦人が「まぁ!」と口元に手を当てたことが分かったが、目を合わせることなく私は静かに人の少ない壁の前に立った。

 特にやることも無いので、帰ろうかと思考する。日本の葬儀というのは、ゴチャゴチャと有象無象で溢れかえるモノなのだろうかと呆れてしまった。正直、この空間に長居はしたくない。

 息を吐きながら一歩前に出ると、少女が一人溢れた涙を両手で拭いながら声をあげて泣いていた。
 私はその少女に視線を向けると、少女を凝視してしまった。原田灯里よりも、私の大事な人に少女が似ていたからだ。

 「こんなことって……やめてくれよ」

 その周囲の大人たちは悲嘆する少女を横目で見ては、声をかけるでも頭を撫でるでもない。『ウチは無理よ三人もいるんだから』『じいさんとばあさんは引き取る気ないのか?』『まだ八つよ。こんな小さい子の面倒なんて見きれないわ』聞き取れた言葉だけで、イラつきで胸が一杯になりそうである。

 少女の引き取り手が見つからないのだろう。
 私が僅かに知っている原田灯里側の親類である━━矢子家の人間の目も少女に対しては厄介者を見る目だった。原田灯里の父母であり、少女にとっての祖父母も相当前に亡くなっていた。生きていれば良かったのだが。

 少女はこの現状に気付いているのだろうか。少女の表情に注目する。両親を亡くした想い以外に、場の重さを感じとっているのがむせぶ瞬間の諦めたような絶望したような少女の瞳から解ってしまった。
 頼れる大人がいないのだ。
 比較的遠くに座る友人や知人は、そんな哀れな少女の様子を状況しか見ようとしない。
 これだけ人数がいるというのに、誰も少女を見ていないのだ。

 ━━おれ以外は。

 こんな性根の腐った大人達のもとに行かせてはならない。それとも、施設にでも行かせるのか。
 別に私は施設を悪いと決めつけたいとは思わない。私自身、少年期を施設に類似した環境で過ごしたからだ。
 それでも、少女にとってそれが一番好ましいとも限らないのである。
 私は少女の未来が一向に定められることなく少女の背中に積み重なっていくのに、痺れを切らした。

 一歩、また一歩。ゆっくりと、私は少女の泣く声の聞こえる姿へ歩みを進めた。

 その目を、その声を、色は僅かに違えど癖のある髪も。私は嫌になるくらい覚えている。

 もう泣かないでくれ。見ていられない。嗚呼、私は何をしているのだろう。
 後の人生にいかなる困難があろうとも、子供時代だけは幸せに送る権利があるのだ。

 「やぁ、お嬢さん。お名前は?」

 「ひ…より。日和」

 肩膝でしゃがみ込み、私は日和と視線の高さを合わせた。

 「私は、涼川照望。君のお婆さんと知り合いでね。私にとっての恩人だったんだ」

 「照望……さん?」

 僅かに息が荒れながらも、ゆっくり日和は首を傾げた。

 「日和が良かったら、私の……家に来ないかい?」

 日和は私からしても疑問を持つほどに、即決で首を縦に振って答えた。日和なりに何か考えたのか、それとも何も考えずに反射的に首肯したのかは分からない。

 「うん。行く。照望さんと一緒に住む」

 周囲が分かりやすくざわめくのを感じた。エゴイズムな言葉も口々に飛び交っている。

 それを沈静化させたのは、先程に婦人を制した原田灯里の義理の父の言葉であった。

 「君がどこの誰だか知らないが、信用に値すると明言できる根拠はあるのか?この子は私の大切な孫娘だ」

 「今……この子の周りにいる者たちと比べれば、私はまだマシな人間ではあります」

 その周りにいる者たちからの視線に、強烈な嫌悪を感じながらも義理の父の目から視線を逸さなかった。
 ここで決して、感情的になってはいけない。

 「…………」

 日和が私の服の裾を軽く握った。

 嫌な沈黙が流れる。
 数十秒後、不意に沈黙は崩される。

 「すいません!あーーーー、ちょっとすいません!アーーーー、すいませんすいません……色々すいません!」

 注目が一斉にスーツ姿の亜里沙にズレた。

 「私は刑事をやっている━━赤崎亜里沙と申します!いやーー、すいません。亭主が失礼したようで。アカりんとは中学の時によく公園で遊んでいてぇーー、幼馴染ってカンジ?私も亭主もアカリんにはすごく感謝していて」

「ほら、ダーリンも頭下げて!また、人様に変なこと言ったんでしょ」

 人の片手の腕力とは思えない質量が私の後頭部を押し下げた。
 静寂が僅かに崩れていき、妻が警察関係者なら日和を引き取らせても良いのではという空気が、これまた分かりやすく伝播し始めた。
 この国の国家公務員に対しての、信頼度の高さがはかり知れた。

 義理の父の表情が晴れることは無かったが、婦人の方が「引き取りたいって言うんだったらいいんじゃない?」と亜里沙に愛想笑いを見せながら夫を言い聞かせていた。

 他の親戚たちは厄介払いができて良かった、己に降りかかる火の粉を無くせて一安心と表情を緩ませ始めていた。

 日和は、「一緒に住む」と言ってから葬儀場を出るまで一言も口にしなかった。
 亜里沙に感謝すべきことは、あの場の空気を察し私の妻を演じてくれたこと。日和を引き取るにあたっての複雑なやり取りを、私の代わりに一手に引き受けてくれたことだった。

 数時間後、葬儀場を後にして亜里沙が運転する車の後部座席で日和が私の顔を見つめながら一言口にした。

 「照望さんは……亜里沙さんと、どういった関係なんですか?」

 え?数時間経過して、最初の言葉がそれなのかと意外だった。

 「えーーーーっと、もしかして、ずっと気になっていたとか?」

 「はい」

 もっと他に話すこともありそうだと思ったが、単純に返答に困った。
 考えていると、私より先に亜里沙が答えた。

 「私と照望は……、大人の関係よ」

 亜里沙がバッグミラー越しに、日和に対してウインクした。いや、前見て運転しろ。

 「違う。同居人だ」

 「やっぱり、照望さんのお嫁さんじゃ無かったんですね」

 「ふふふ……やっぱりって」

 亜里沙が笑いながら、ハンドルを切った。

 その勢いで日和が隣に座っていた私の肩に掴まった。

 「照望さんは、私に一目惚れしたんですか?」

 「一目惚れかぁ。一目見て、君を守りたいと思ったのは確かだが……、さすがにまだ若いかな」

 最近の女の子は、ませているのだろうか。

 「えーー。でも……よろしくお願いします」

 「実は、考えたんだけど。照望じゃなくて、私が日和ちゃんと特別養子縁組制度で親子ってことにしたから」

 亜里沙の判断は、私と日和の今後の関係性を考えた上だった。私は決して、日和を私の子供にしたいわけではないことを汲み取ってくれた。

 日和が元気に育つことの手助けをしたい。日和の人生を見守ろうと、日和が自立するその時まで。

 「じゃあ、亜里沙さんが私のママですか」

 「そこ!嫌な顔しない!」

 もう打ち解けたのか。

 「日和、一つだけお願いしたい」

 どうしても、私の中で大人げないとしても日和にお願いしたいことがあった。

 「照望さん、何ですか?」

 「君のお母さんの、灯里さんの旧姓である━━矢子やこを名乗ってくれないか」

 灯里の結婚相手に対する嫌悪感が生んだ、自分本位な理由からだった。

 「矢子……、お母さんの苗字。……矢子日和」

 黙り込んで日和は、夜の交通道路で流れて出入りする電灯の光を眺めた。

 「照望さん。こんなに夜更かししたのは、初めてです」 

 「ん?ああ、眠かったら横になってもいいよ」

 「照望さん、私は今深夜テンションなので。その勢いで、矢子日和になりたいと思います」

 なぜだか、日和は腕を組んで決め顔で私の顔を覗き込んだ。

 「はははははははっ!日和ちゃん。私、あなたのこと好きよ」

 亜里沙が上機嫌になった。日和を気に入ってくれたことが分かり安心した。
 亜里沙のような年上の女性が近くにいたら、日和にとって良いだろう。

 「私は亜里沙さんより、照望さんに好かれたいです!」

 「なっ!日和ちゃぁん」

 私は気兼ねせずに日和が亜里沙と会話しているのを感じた。

 「私も日和のことが好きだよ。だから気兼ねせずに沢山頼ってくれ」

 元気だった日和が一瞬、動作を停止させてから「うーーー」と唸って俯いた。
何か不味いことを言っただろうか。

 「日和ちゃん、それってラブじゃなくてライクよ」

「わかってます!」

 日和が少しでもリラックス出来るように私も亜里沙も考えているが、まだ八歳やっつの少女にとって両親二人の死は今後、重く背中に伸し掛かることだろう。定期的にその現実を実感することもある筈だ。


 少しずつでいい。少しずつで。
 家族にはなれなくとも、彼女ひよりの生きる手助けをしたい。

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