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第二節 落日は海鳴りに燃ゆる17

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 町外れの丘の上に、ふわりふわりと、まるで雪のように漂い始めた紅蓮の焔。
 古の英雄イグレシオは、にわかに、その繊細で端正な顔を緊張の色に染め上げた。
 もう、間近に・・・・
 敬愛し、そして、憎んだ、真実の主君がいる。
 熱波を含んだ海風が、ざわりと虚空でざわめいた。
 内海アスハ―ナに沈み始めた太陽が、暮れかける空に茜色の鋭い光の矢を放っている。
 静かに伸び上がってくる長い影に、紅の火炎が散った。
 若獅子の如き見事な栗色の髪を朱に染め上げて、燃え立つ炎を纏う長身の青年が、今、ゆっくりと、その姿を眼前に現してくる。
 利き手に金色の妖剣『告死の剣(アクトレイドス)』を携え、鮮やかな朱の衣の長い裾を流れるように揺らしながら、彼は、鬼気迫る鋭い形相をして、静かにそこに立った。
 背筋が寒くなるほど冷酷で、禍々しいほどに美しい緑玉の瞳が爛々と輝きながら、イグレシオの魔眼を睨むように捕らえている。
 古の英雄の腕にいるリーヤティアが、いつもとは明らかに様子が違うアーシェの魔法剣士を見つめながら、思わず、その名を呟いたのだった。

「・・・ジェスター・・・・っ!?」

 彼女の声は、確実に彼の耳に届いていた。
 しかし、それに答えることもなく、彼は、携えた妖剣の鋭利な切っ先を、真っ直ぐにイグレシオの端正な顔に向け、低く鋭い声で言うのである。

「どういうつもりだ?・・・・おまえに呼び覚まされるまでもない・・・ふざけた真似を・・・・・っ!
さぁ、【鍵たる者】からその手を離せ・・・・・・・」

「・・・・・・・・・っ!」

 にわかにその場に張り詰めた鋭い緊張に、その形の良い眉を眉間に寄せ、イグレシオは、赤銅色の髪の下から覗く、銀水色と緑玉の神秘的な眼差しを細めながら、ぎりりと奥歯を噛み締めたのだった。
 言いようのない凄まじい威圧感が、魔物と呼ばれる彼の心を蛇のように締め上げていく。
 その視界の中で、冷酷で美しい異形の瞳が、大きく鋭く見開かれた。

「イングレー・・・何度も言ったはずだ・・・・・聞こえぬか?・・・・その手を離せと・・・・言っていよう・・・・っ!」

 どぉぉんという轟音が辺りに響き渡り、ジェスターの肢体から吹き上がった紅蓮の爆炎が、にわかに炎の刃と成り果てる。
 次の瞬間、海風が吹き荒ぶ虚空に深紅の鋭利な軌跡が描かれ、燃え立つ炎の刃が、身動ぎすら出来ないイグレシオの秀麗な頬と両肩を、閃光の如き速さで薙ぎ払ったのだった。

「く・・・・・・っ!!」

 苦痛のうめきと共に鮮血が虚空に弾け、驚愕するリーヤの体から、一瞬、イグレシオの手が離れた。
 苦悶に端正な顔をしかめながら、イグレシオは、がくんと崩れるように地面に片膝を着く。
 リーヤは思わず、そんな彼を気にするかのように振り返るが、爆炎を纏うジェスターの元へ俊足で駆け出したのである。
 艶やかな紺碧色の巻き髪が虚空に乱舞する。
 よほど緊張していたのだろうか、秀麗な顔を固く強張らせたまま、咄嗟に彼女は、その両腕を彼に向かって大きく差し伸ばしたのだった。

「ジェスター・・・っ!!」

 ジェスターの肢体に絡み付いていた紅蓮の炎が、弾けるようにその場から消失すると、その左手がリーヤの片腕を掴み、そのまま、しなやかな体を自らの胸に引き寄せる。
 威勢よく飛び込んで来た彼女を、身動ぎもせずに抱き止めると、ジェスターは、鋭く細められた緑玉の両眼で、金色の刃の先にいるイグレシオを睨むように凝視した。

「失せろ・・・・おまえの話は、後でゆっくりと聞いてやると、前にも言ったはずだ・・・・さもなくば・・・・・・」

「さもなくば・・・・・・・私を殺しますか?ゼル?」

 鮮血が滴り落ちる肩を片手で押さえながら、艶やかな赤銅色の長い髪を棚引かせて、イグレシオが、ゆっくりとその場に立ち上がる。
 そんな彼の唇が、どこか切なそうに、そして、どこか思惑有り気に微笑した。
 落ち着き払った静かな声が、彼の精悍な唇から、ゆるやかに紡ぎ出される。

「今の貴方には・・・・私は殺せない・・・・いや、殺すことなど出来ないのですよ・・・・・・
ゼル、今此処で、私を殺せば、貴方の望む結末は来ない・・・・何故なら・・・・・・
私は・・・・・・・・・だから・・・・・」

 辺りに轟音を響かせ、虚空に伸び上がった黒き炎が、そんな彼の微笑みを覆い尽くした。
 その言葉の語尾が黒く輝く炎の合間に消えて、彼の姿をも、夕映えの虚空に掻き消していく。
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