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終節 時を告げる三日月4

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「!?」

 腰の剣の柄を握り、一瞬にして武人の鋭い物腰に戻ったシルバの右目が、眼前の虚空に揺らめく黒き炎を捕えた。
 その傍らにいた彼の愛馬が、まるで警告を発するように高く嘶く。
【切望の石】の前で、金色の両眼を煌かせながらリュ―インダイルが素早く身構えた。

「なに!?」

 レダの繊細な指先もまた、咄嗟に腰の【水の弓】にかかる。
 落日の光を映した茜色の空から、ゆらゆらと揺れながら落ちてくる闇の黒炎。
 萌える草の地面に降り立ったそれは、ゆるやかに人の形を取っていく。

 そして、そこに姿を現したのは、なんと、昨日、一夜の宿を提供してくれたあの呉服商人アイヴァン・クレラモンドだったのである。
 だが・・・・その眼差しは、煌々と輝く不気味な黄色をしており、柔らかなはずのその表情が、鋭い無表情のまま固まっていた。
 闇の底から響くような低い声で、アイヴァンは静かに言うのである。

『我が闇の母が欲していた、青珠の秘宝を我も一目見たくてな・・・・
それがあれば、我もまた、母のような魔物になれるやもしれぬ・・・・』

「アイヴァン・・・・!?これは、どういうこと!?」

 思わず、そう声を上げたレダの足元に、リュ―インダイルが俊足で走り込んでくる。

『・・・・気付かなかった・・・こやつ双頭狼(トゥース・ワルヴ)に食いつぶされている!
アルアミナの作り出す魔物は、その気配すら感じさせぬまま人間の体も魂も食いつぶし、気付かぬうちに増えていく厄介な魔物・・・・この者も、いつの間にか憑かれておったようだ』

『なんですって!?』

 リュ―インダイルのその言葉に、レダは、驚愕したようにその肩を振わせた。

『リュ―インダイル!レダを連れて行け!!ここは俺が引き受ける!!』

 腰に履いた剣を素早く抜き払い、傍らにいる愛馬の首を軽く叩きながら、シルバが鋭い声を上げる。
 高く嘶いた黒馬が、けたたましい馬蹄を響かせながら、俊足で森の方へと駆け出していく。
 それを背中で見送って、冷静にして沈着な鋭い表情のまま、シルバは、鋭利な白銀の剣を、洗練された身のこなしで構え直した。

 その強い意思を汲み取ったリュ―インダイルは、一度、その金色の眼差しを純白のマントが揺れる彼の背中に向けると、低めた声で言うのだった。

『わかった・・・・気をつけろ、シルバ、無駄に命を散すでないぞ』

『ああ・・・・』

 広い肩越し僅かに振り返った白銀の守護騎士は、小さく微笑んだようだった。
 その微笑が、遥か遠き時間の彼方で見た、懐かしい友の微笑みによく似ていて、リュ―インダイルの胸にもまた、一抹の悲哀と切なさが過ぎったのである。
 それを振り払うように、リュ―インダイルは、戸惑うレダの腕を牙で甘噛みした。

『来いレダ!』

『リュ―イ!でも・・・・!!』

『あやつの気持ちを踏んでやれ・・・・
あやつは、我らが森に帰るのを見届けると、そう私に約束した、それを果たそうとしているのだ・・・・』

 リュ―インダイルの牙に引かれるようにして、レダが、後ろを振り返りながら、【切望の石】に向けて俊足で走り出す。

 藍に輝く長い黒髪が、茜に染まる夕闇の最中に弾むように揺れた。
 紅の瞳の中で、シルバの纏う純白のマントが、その広い背中で流れるように揺れている。
 その足元から、絡み付くように伸びあがってくる、眩いばかりに輝く白銀の光の触手。

 このまま、もう二度と会えなくなるのは嫌だ・・・・!!
 そんなのは嫌だ・・・・!
 自分は、まだなにも彼に告げていない。
 感謝の言葉すら口には出していない。

 そして・・・・

「シルバ―――――っ!!」

 紅の瞳に一杯の涙を貯めて、レダは、喉も張り裂けんばかりに彼の名を呼んだ。
 それと同時に、魔物に憑かれたアイヴァン・クレラモンドの体が縦に真っ二つに裂け、その中から、鮮血を飛び散らせた黒く邪な影が、青珠の守り手達の元へと、豪速で虚空を飛んだのである。

『青珠の秘宝を我が手に、我も魔力を手に入れる・・・・母なる者と同じ力を!!』

 不気味な魔物の声が、まるで地獄からの声のような響きを持って辺りに轟いた。
 とたん、シルバの手にある聖剣『ジェン・ドラグナ』の美しい刀身が、鋭い唸りを上げて翻されたのである。
 その凛々しい唇が、呪文と呼ばれる古の言語を紡ぎ出す。

『ギメル・ダーレト(雷光刃)』

 どおぉぉんという轟音が夕闇の森に響き渡り、切り返えされたジェン・ドラグナの刃から、眩いばかりの白銀の光が、凄まじい煌きを持って虚空に舞い上がった。

 そこから幾筋も降り落ちてくる鋭利な雷光の切っ先が、青珠の守り手達を追い、空を駈けた魔物の頭上へと降り注ぐ。
 けたたましい破裂音を上げる白銀の雷光に、黒き魔物の体が一瞬にして飲み込まれていく。
 
 破裂するように宙を舞う、猛る雷の無数の刃。

 刹那、レダを伴い【切望の石】まで辿り着いたリュ―インダイルが、低く鋭く声を上げた。

『アルク・ラン・アビまでの道を開け!切望の石よ!!』

 【切望の石】と呼ばれる水晶の柱が、その声に呼応するように、にわかに眩い銀色に輝きを放つ。
 音も立てずに足元から吹き上がる銀色の閃光が、触手のような光の手を伸ばし、青珠の守り手リュ―インダイルと、そしてレダの体に急速に絡み付いていった。

「私、貴方を愛してるわ―――――っ!シルバ―――っ!!」

 咄嗟に、背後を振り返ったレダが、宝石のような涙を飛び散らせてそう叫んだ。
 そんな彼女と、そしてリュ―インダイルを取り囲んだ銀色の輝きは、大きく宙に伸び上がると、一瞬にしてその体を飲み込み、その姿を空間の狭間へと取り込んだのである。

 【切望の石】が放つ輝きの最中に、猛る雷の刃によって千々に引き裂かれた、元は人であった闇の魔物の体がばらばらと音を立てて落ちていく。
 それはやがて白い灰になり、静かに、夕闇の森の中へと消えていった。

 そして、青珠の守り手達を取り込んだ【切望の石】の輝きもまた、緩やかにその光を失っていったのである。

 白銀の剣の鋭い切っ先を、【切望の石】に向けたまま、鋭くも切ない表情をしながら、シルバは、ふと、深き地中に眠る紫水晶の右目を細めた。

 静寂を取り戻しつつある夕闇の森に、純白のマントが音も無く、たゆたうように緩やかに翻り、その広い肩に零れた漆黒の長い黒髪もまた、吹き付ける風に静かに揺れていたのだった。

【切望の石】の光に飲まれる寸前に、レダが発したあの言葉は、確実に、シルバの耳に届いていた。

 きっと、あれは彼女の本心であるのだろう・・・・
 何となくは感じていたが・・・・
 仇である自分に、彼女が本気でそんな感情を抱くことになろうとは、彼自身、全く予想もしていなかったのは事実だ・・・・・

 だが、あれが本心だったとしても、恐らく、これから先、もう彼女に会うこともないのだろう・・・・
 ゆっくりと、利き手に持った白銀の剣を腰の鞘に収め、シルバは、その澄んだ紫水晶の瞳を、木々の合間に見える落日の空に向ける。

 そんなことは、最初から判っていたはずなのに・・・・

 何故、今、こんなにも心が痛むのか・・・・
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