ある解放奴隷の物語

二水

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第三話 不信心者(上)

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 ときに人は天を仰ぎ神に祈る
 恵みと慈悲を与えんと
 ならば祈る神を知らない少年に神は何を与えるのだろうか
   ――吟遊詩人ジーンの歌より


 重い荷物を背負い三日三晩、ヨナはようやく次の町に到着した。
 まるで黒い毛皮を着るように巨大な魔物の死体を背負う彼を見て町はざわめいた。
「あれは魔物じゃ……」「何をしているんだあいつ……」などひそひそと囁く声を無視し、ヨナはどんどん町の中を進んでいく。人だかりはそれを避け、彼だけの道が歩を進めるごとに出来上がっていった。
「寝れるところはどこかにある?」
「あー……ウチが宿屋なんだが……看板は見たか?」
「看板?」
 店主の指さす方には木の板に何かが書いてあるが、ヨナは文字が読めないため、なんの意味を表しているのかはさっぱりわからなかった。どうやらこの形で宿屋の意味らしい。
「わかった。ここが宿屋。いくらで泊まれる?」
「銅貨五枚だが……おい、ひどい臭いだ」
 店主が顔をしかめた。
 死体はヨナと共に日に晒され、すでに腐敗を始めていた。町の人々が彼を避けていたのは異様な風体のほかに強烈な腐敗臭もあったのかもしれない。
「悪いけど、そいつと一緒じゃ泊められねえな」
 うーん、とヨナは困った顔をした。とはいえこの死体も道中の食料と兼ねて何かに使えないかと思いながらなんとなく持ってきた物だったのでそれはまた扱いに困ってしまう代物だった。僅かながらの旅の供としての愛着も芽生え始めていた可能性も否ではない。
「魔物を背負った少年がいると聞いて来てみれば」
 一人の老人がこちらに向かって歩いてくる。町民たちとは服装が少し違うようだ。
「異様な出で立ちにその魔物、事情を聞かせてくれないかな」
「神父様!」
 遅れて妙齢の長髪の女性が傍に侍る。ヨナのなりを見て身構えたが、神父がそれをなだめた。
「その魔物は?」
「僕を食べようとしたから殺した」
 再びどよめく周囲。魔物というだけで多くの人々は怖れ逃げ帰る存在だというのによりにもよってそれを殺したというのだ。
 空っぽのそれの腹を目ざとく指差し神父はなおも続ける。
「そのはらわたと……ふむ、脚もどうやらないようだがそれは戦いの時に?」
 ううん、とヨナは首を横に振った。
「重かったからおなかの中は全部すてた。足は食べた」
「はて、聞き違いかの。今、『食べた』と?」
 そう、とヨナは今度は首を縦に振った。
「食べた」
「魔物を?」
「おなかがすいてたから」
 神父は額に手を当てた。さすがに「食った」という回答は予想外だったらしい。
 よどみのないその答え方はおそらくすべて事実なのだろう。魔物を殺して臓物を掻き出してそして食らったことすべてが。
悪意のない瞳は何がおかしいのかと問うように神父を見つめ、逆に彼は困り果ててしまった。
「神父様……この子、あちこちに傷が……」女性がそっと耳打ちをした。
 彼女の言う通り、ヨナの体にはない場所を探すのが難しいくらい道中や野営でできた細かい擦り傷や切り傷が体を覆っていた。それを見て神父はヨナの頭を撫で、周りの者たちに聞こえるくらいの声を出した。
「まずはゆっくり休んでいきなさい。傷も放っておけば大きな病になるやもしれん」
「これは?」
 宿屋を断られたのを思い出し、ヨナが魔物の死体を指さす。店主はばつが悪そうに頭を掻いた。
「すっかり腐ってしまっておるようじゃが……どうしたいかの」
「じゃあ埋める」
「埋める?」
 ヨナは頷く。
「君を襲った魔物に対して墓を作ると?」
 神父の問いにヨナは首を傾げた。墓とはなんだ?死体を埋めたら墓というものになるのだろうか。
 信仰が日常でありすべてが神から与えられる者。信仰を知らない故にすべてがなるようになる者。両者の価値観は噛み合う様子がなかった。
「今まで死んだらみんな埋めた。だからそれも埋める」
 神父は諦めたように、「そうか、そうか。それなら一緒に埋めよう」と提案した。
「店の裏でもいい、すこし預かってはくれないかね。いくら死体といえど教会の聖域に魔物はちょっと置けんのでな……」
預かり賃だ、と半ば強引に店主に銀貨を握らせると、店主は困った顔で「神父様がそう言うなら仕方ねえや……」と引き下がり、「魔物は目のつかないとこに置いといてくんな、部屋はこっちだ」とヨナに手招きした。
「あとで彼女が怪我を治療しよう。教会に来なさい。それではよい滞在を」と神父は言い残し、同伴の女を連れてゆっくりと歩き去って行った。
 人々もそれに合わせていつもの賑やかさを取り戻し、ヨナは店主に案内されるがまま部屋へ向かった。
「悪いけどよ、隣に風呂屋があるから寝るならそっちへ行ってからにしてくれ。シーツに魔物のシミでもつけられちゃ縁起悪くて客が飛んじまう。……いや、魔力が得られるっていう売り文句で出すのも悪かねえな……」
 思案する店主を横にヨナは簡素な装備をその場で外し、宿を出た。
 隣の風呂屋と呼ばれたところは集会場の奥にある番台で使用料を払うところらしく、ヨナは言われたとおりに銅貨を二枚支払うと、浴場へと進んだ。
 そこはまるで息苦しくなるほどの湿気と暑さで、一瞬ヨナはどこか間違った場所へ足を踏み入れたのではないかと困惑した。
 前が見えないほどの湯気、ほのかに香る甘酸っぱい香り。真夏の炎天下でもそうそうありえないであろうほどの熱気に頭がくらくらした。
「『魔物殺し』が来たぞ!」
 誰かがそう言うとどこからともなく男たちが寄ってきて、ヨナを段差に押し付けるように座らせた。
「おい、あの魔物を一人で殺したって本当かよ」「短剣一本で仕留めたらしいぜ」「しかも食ったらしいぞ」「なあ、あの毛皮俺に譲っちゃくれねえか。遠くに住んでる親戚に自慢してえんだ」などなど、みなが口々にヨナのほうを向いてしゃべりたてる。
 一体どうしてこの人たちはこんなに蒸し暑いところで平気でいられるんだ。
 ヨナの体からはさらさらの汗が吹き出し、熱気でやられないように目をつぶって顔の汗を何度も拭った。
「大したもんだぜ、どうやってやったんだ」
「僕に向かって飛びかかってきたから……それを躱して足を斬ったんだ」
 上半身だけでその時の状況を身振りを交えながら説明するヨナ。聴衆は暑さをものともせずうんうんと頷きながら聞き入る。
「それで……最後に首を斬ったら動かなくなった」
 魔物の最期の下りで彼らは我が事のように声を上げ、その武勇を称えた。
「それでここまであいつを摺って来たってわけだ。神父様がいる前じゃあ言えねえが、俺たちはおまえさんのことをお前さん自身が思ってるよりも買ってるんだぜ」
「そう……あっ」
 限界だ。男たちに囲まれながらヨナはすっかりのぼせてしまい、意識は暗闇へ吸い込まれた。
 
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