ある解放奴隷の物語

二水

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第九話 水枯れのアシエンダ

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 湯水のように金を使うと言うが
 湯水がなければ何に金を使うんだ
 金貨をかじって腹が膨れるか
   ――吟遊詩人ジーンの歌より


 盗賊の一件以降、必要最低限の会話を除きほとんど会話はなかった。
 ヨナはいつも通りに戻ったのか、時々ノーラが教えたように親指と人差し指で窓を作って風景を楽しみながら進んでいる。
彼の行動は積極的ではあるが、人との距離感を縮めるのには非常に消極的だ。ノーラが話しかけるまでヨナの方からは一切喋らない。それは最初に出会った頃からノーラは感じていた。話しかけなければとは思うものの、なんと声をかければいいのかがわからなかった。
静かでまるで兎のようにおとなしい少年が見せた肉食獣のような一面は、彼女の信仰する人の本来の姿は善であるという教えに明らかに反しているものであった。そしてその時のヨナがすばやく、そしてしなやかに体を動かしているのを踊りでも見るかのように捉えてしまった自分の心の内も本当は善などではないと思い詰めていた。
 あれは仕方のないことだった。とノーラは自分に言い聞かせた。
 数度の野営をしながら北へ進む二人であったが次の町は遠く、それにつれて二人が話すきっかけが徐々に失われていってるような気がした。
 しかしとうとう話さなければいけない時が来た。
「ヨナ君」
「ん?」
「水が……切れました……」
 出発前に買った羊の胃袋で作った水筒はすっかり空っぽで萎びていた。
 きれいな河川がある場所では補充をしていたのだが、生憎とここ二、三日ほどは荒れ地が多く水源の確保すらできていなかったのだ。
 水がないことを意識すると渇きが喉を小突く。それはなんとも厭らしい自分の本能だった。
 それからもしばらく歩き続けた頃、ようやく一つの大きな集落に辿り着いた。
 喉は今見ている地面のように干上がり、まるで葦のように細くなってしまったと錯覚するほどだった。
「やあやあ旅人さん。こんなところまでようこそ」
 敷地に入ったのを見てか、そこの集落の主と思わしき者が出迎えに現れた。
「我が荘園へようこそ。ピーグスと申します」
 ピーグスは二人の手を交互に握り、挨拶をした。
「彼は冒険者のヨナ、私はシスター・メロディウス。南の修道女です」
 奇妙な二人の紹介の後、「おお、冒険者様とシスターですか。これはこれは良い出会いでありますな」とピーグスは快活に笑った。
「こちらへ寄らせていただいたのは水を少しお分けいただけないかと思いまして……」
 枯れた声でノーラが請うと、ピーグスは「喜んで。さ、どうぞ」と領内へ促した。
「このあたりは荒れ地になってしまいましてね。水源はここの井戸だけなのです」
 ピーグスの農園は荒れ果てたものであった。あちこちまばらに枯れた雑草が生えている程度であとはそれまでの道程と同様ところどころ割れ目を覗かせた地面が続いていた。
 農園の中央部に井戸があり、そこへ行くと痩せた奴隷が水を汲み上げた。
「……ぷっはぁ!助かりました!ありがとうございます」
 二人は水桶から三度にわたって水筒に水を汲み、それをかわるがわる飲んだ。
 久しぶりに存分に水を飲めたことによりヨナの顔もとても満足そうだ。
 旅で使う分の水の補充も済ませ、二人は改めてピーグスに礼を言う。
「いいんですよ。困ったときはお互い様です」
 一帯の状況をノーラが聞いている最中に奴隷が桶の水を手で掬おうとし、ピーグスがそれをぎろりと睨みつけたのをヨナは見逃さなかった。
「もし本日お泊りの予定がなければわが荘園にご宿泊なされてはいかがですかな。荒れ地はしばらく続きますゆえ」
「本当ですか!何から何まで助かります」
 いえいえ、と手を振るピーグス。ヨナは奴隷のほうを見たが、向こうは一瞬ヨナと目が合うとすぐに視線を逸らしそれから彼を見ようとはしなかった。おそらくあの奴隷はヨナ達に関わろうとすればピーグスに仕置きを受けるのだろう。かつてヨナがそうであったように。それならばこちらから関わらない方が彼の為だと思いそっとその場から離れた。

その晩質素ではあるが十分な量の食事を振舞われ二人はつかの間の平穏を得た。
「昔はもっと豊かな荘園だったのですがね……。穀物だけではなく果実園や家畜なんかもいたのですよ」
 それは在りし日のまだ緑豊かな土地だった頃、地平線の向こうまで続く大農園としてピーグスの名は近隣では名を馳せていたとピーグスは話した。
「もともとは豊かな土地だったのですが、もう二年ほど前でしょうか。ある日魔術師がやってきたのです」
 魔術師を名乗る者ははじめは荘園の一部を間借りする形で研究をしていた。奴隷達にも優しく接する好青年だったのだが、徐々に研究はエスカレートしていき作物を枯らし始めた。それについて問い詰めると魔術師はピーグスの使用人や奴隷を引き連れ姿を消してしまったのだという。その時ようやく彼は魔術師に嵌められたことに気が付いた。魔術師の人当りのよさそうな態度もおそらくこうすることを見越してのことだったのだろう。
 それからは農地を復興させるべく資産を食いつぶしながら奴隷に畑を耕させているそうだった。
「一体彼が何の目的でこんなことをしたのか私にはわかりません。今や残っているのはあの枯れかけの井戸と連れいていかれなかった奴隷だけです」
 曰く、魔術師の影響によって枯れてしまった大地はいくらその後苗や種を植えても成長しないのだという。
 ヨナは一人で外へ行き、かつて作物を育てていたという場所を見て回った。彼にとって土の状態を見るのは簡単なことだ。ぐるりと見渡した後、さらさらとした土を舐めた。まるでそれは無機質な砂の塊であり、これでは到底作物が育つのは不可能だろう。
 戻ったヨナは二人にそれを報告する。
「驚いたな。土の状態がわかるのですか」
 ヨナはこくりと頷いた。
「栄養が必要」
「なるほど、肥料ですか」
 本来ならば収穫を終えても落ちた葉や実などが新たな肥料となるのだが、ヨナが舐めた地面はそれらがすっかり搾り取られたあとのような無味だった。
「農場の経営ばかりに目が行き、肝心の作物の育て方というものの勉強を私は怠っていたようですね。肥料の不足などという基本的なことにすら気づかないなんて」
「それにしても今まで何年も使えていた農園がすべて荒れ地になってしまうほど地面が死んでしまうというのは……魔術師の仕業とはいえなんだか不気味ですね」
 魔術を使う人間はそう多くはない。それはもともとの才覚の有無に加え中途半端な魔術の行使は破滅を導くと人々の間で伝えられているためで、現に行われた魔術の研究の結果はこの有様だ。周囲一帯を死の大地にしてしまうのがその魔術師の主目的だったのかは不明だがそれだけ強力かつ強大な力だということは全員が理解をした。
「ま、なってしまったものは仕方ありません。私の農業についての理解不足もありましたゆえ。猫の手も借りたい……奴隷の知識も借りたいということで明日にでも残った者たちを集めて話を聞いてみましょう」
 ヨナはノーラの服の袖を引っ張ると、ノーラにこっそりと耳打ちをした。
「どうかされましたかな?」
「いえ……その、奴隷の方々はもし荘園が復興した折には何か褒美が出るのかと……」
 奴隷は人ではなく領主の所有物であるという考えはいまだに強く浸透している。
 それはかつてヨナを使っていた主人も、解放宣言を出したロメル男爵も建前上とはいえ奴隷に対してそういう位置づけをしていた。そしてこのピーグスも奴隷が彼の所有物である荘園の水を勝手に飲むことすら許しはしない。
 自由もなく、誇りもなく、名前すら名乗ることを許さず、ただ動く作業機械としての在り方を世界は容認している。
ピーグスは一瞬眉をひそめたが、「うむ……」と考え込んだ。そしてヨナの顔を見ると、何かを悟ったように「いいでしょう」と承諾した。
「思わぬ来訪者からの思わぬ知識もきっと、これまでどおりのやり方では何も変わらないという啓示なのかもしれません。ならば私も変わらなければならない」
 ピーグスは荘園の奴隷たちを屋敷に呼び寄せに行った。
 しばらくして裸足の奴隷たちがぞろぞろと部屋に入ってきた。およそ十人ほどの奴隷たちはそろって骨と皮ばかりの体で死んでいないのがやっとの様子だ。
「私に……農業を教えてくれ」
 頭ではわかっていてもやはり奴隷に物事を頼むというのは相当にプライドが傷つくのだろう。ヨナとノーラが見守る中でピーグスは震えながら頭を下げた。
 奴隷たちは何事かとお互いの顔を見合わせる。井戸水を汲んだ奴隷がヨナの方を見ると、ヨナはそれに黙って頷いた。
「この荘園が再び実りを得られた暁には相応の褒美も出す。今は辛抱の時だ……あの美しい誇るべき我が……我らが荘園を取り戻すのに……ウッ……」
 頭を下げながら嗚咽を漏らすピーグスにノーラは嫌そうな顔をした。身分の低い者に頼みごとをするのがそこまで屈辱を感じるのかと。しかしその涙には奴隷に頭を下げる恥もあったが、あたりに名を知らしめるほどの荘園を失った経営者としての悔しさ滲んでいた。
 ヨナはノーラとは裏腹にうんうんと頷き、ピーグスの奴隷にウインクをした。
 
翌日、屋敷を出るヨナ達をピーグスが奴隷達を連れて見送りに来た。彼の服装は気取った細工付きのものではなく、奴隷達と同じく麻で出来たちくちくと固いものだった。
「『やるなら徹底的に』、我が家の家訓です。私はこれから彼らと寝食を共にしながら一から農業をやっていきます」
 一晩の間に色々と考え、自分の持っていたものを全部捨てる覚悟ができたのだろう。ピーグスの顔は晴れ晴れとしていた。
「いつか私たちの作物が市に再び並ぶ日が来るでしょう。その時はぜひ手に取ってください、ピーグス荘園のすばらしい作物を」
 二人は手を振り、向こうまで続く荒れ地を北へ向かって歩き出した。
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