ある解放奴隷の物語

二水

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第二十三話 二人の商人(上)

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 賭け事をしよう
 金貨の裏には何が描いてあるか
 さあ当ててごらん
   ――吟遊詩人ジーンの歌より


「ふうむ、あまりよくないですね」
 魔物急襲の知らせの後、ウェインズは眉をひそめた。
 商人の耳は馬より早いと言われる。彼は既に王宮に対して装備拡張の提案とそれに伴う一式の段取りを済ませ、あとはそれを先方が呑むかどうか待つだけの段階になっていた。
 危機にこそ最大の商機が訪れるという言葉を彼はまさに実行に移したのだが、同じことを考える同業者はやはり多く王宮も二の足を踏んでいた。
「如何いたしましょうか」
 ベラは彼が物静かなふうを装っていてもこの情勢でなお価格やコネに気を使って物事を進めようとしている王宮に対して苛立っているのを感じていた。
「ま、対応が遅れて最悪の事態になったときに困るのは彼らですから。僕たちは傭兵を用意して周囲の警戒に当たらせましょう」
 備えあれば憂いなしです、と白金貨を彼女に手渡すウェインズ。
「そういえば彼……ヨナさんが集会場で仕事を受けたとか」
「はい、ベン……鍛冶屋のほうのベンの下で手伝いをしています」
 ああ、あのベンかとウェインズはすぐにその顔を思い出した。
「巨人族の彼ですか。名前が同じなのでわかりやすくていいですね。たしか彼のところにも鉄鉱石を卸していましたね」
「はい。彼の要求する水準のものを集めるのにとても苦労しました」
「手のかかる客はいい客です。さて、たまには僕たちも散歩でも行きましょうか」
 二人は徹夜で調香に勤しみ疲れて眠ってしまったフェルリを起こさないよう準備を整えて外に出た。
 日差しは眩しく、一瞬目がくらむ。家でだらけてばかりいるのもよくないのでこれからは散歩を日課にするのも悪くないかもしれない。
「それで、どちらへ?」
 ベラに問われ一瞬顎に手を当てて考えるウェインズ。
「僕と勝負してみませんか」
「勝負、ですか」
 たまには初心に返ってみるのも大切だと彼は言う。そして金貨を一枚彼女に手渡した。
「今日の日暮れまでにどれだけお金を稼げるかの勝負です。元手はこの金貨一枚、方法は問いません。ベラが勝ったら……そうですね、なにか一つ欲しいものを差し上げましょう」
 いいでしょう、とベラはその勝負を受けた。
「では日が沈む頃にここで落ち合いましょう」
 二人は噴水前で別れ、それぞれ自分が思う方法で勝負をせんと違う方向へ歩き出した。
「さて……どうしようか……」
 気まぐれで勝負を仕掛けたものの、ウェインズにこれといった考えがあるわけではなかった。
 一番手っ取り早いのは地区を跨いだ転売だが、わずか半日程度の時間では効率が悪い。
「ま、なんとかなるでしょう」
 金貨を手の上で転がしながら鼻歌を歌ってウェインズは雑踏の中に消えて行った。
 その頃ベラは北の区画を歩いていた。さすが貴族の住まう区画なだけあって、道は常に奴隷が掃除をし綺麗な景観を保っている。路上で婦人たちが「上品な」話に花を咲かせ、男たちは自慢の金品の品評会などしている。
 ウェインズほどの財力があればここに住まうことも可能であったが、彼はあえて南の区画に居を構えた。その理由がベラにはよくわかっていた。
 特権の上に胡坐をかいているだけの俗人共が。吐き気を催しそうなほどの嫌悪感に顔をしかめながら歩いていると声を掛けられた。
「おやおや、ウェインズ商会の若娘ではないか」
 妙に甲高く蠅が耳元で飛び回るような不快な声。ベラは舌打ちをしてからゆっくりとそちらを振り向いた。
「あらご機嫌麗しゅう、レンボス卿」
 レンボスも商人であるが、その立ち位置はウェインズとは大きく離れているものであった。ウェインズが商人として大成し貴族位を得ようとするのに対し、彼は貴族の地位ありきで半ば道楽的に商売をしている人物であった。
 王室にも顔がきくといえば聞こえはいいが、結局のところは王に取り入るための手段として商人の顔を持っているに過ぎない。
「噂によればおたくの商会は国難が近づいているというのに、あろうことか王都を守る誇り高い騎士に武器や防具を売りつけようとしているとか。私としてはよくないと思うのだがどうかね」
 金を取って商品を売るという矜持も、それが成立するまでの駆け引きなどという粋な楽しみも持ち合わせてはいない貴族の商人。
「我々はあくまでも商人でございます。苦労して得たものに苦労しただけの価値を据えて売るのは至極当然だと思うのですがいかがでしょう」
「そうじゃない、そうじゃないんだよ。これは忠告だ。王の前で同じことが言えるものかと多くの貴族が思っている。恵まれた者が国に、民に貢献するのは義務ではないかとね。それを怠るようでは……日陰者になってしまうかもしれんなあ」
 彼が言っているのは今回の警備増強に関することだろう。これを機に自分たちの地位を上げんと格安または無償で装備の提供を申し出る者すらいるという。
 口では綺麗ごとを並べていても商売が出世の道具程度にしか見られないことに彼女は苛立っていた。
 鍛冶屋のベンに材料を仕入れ、完成した装備をミールの兵士たちに売っているのは誰もが知るところである。その評判は上々で、値は張るが確実なものを用意するという信頼がミールでの商会の地位を一気に押し上げた。そしてその業務の大半を担っていたのはウェインズの使用人であり、同時に彼が最も信頼を置く若き商人でもあるベラその人である。いかに状況が不利であれ、妥協して他の貴族たち同様の条件で装備を提供するつもりは毛頭なかった。
 こうしてレンボスが声をかけてきたのは事実上の宣戦布告だろう。手を引かないのなら貴族の権力でウェインズ商会を潰すと脅しをかけてきているのだ。
「若造は可哀想なことになるかもしれんが……今なら私が従業員くらいは救ってやれんこともない」
 ははあ、喧嘩を吹っ掛けてきた次には篭絡ときた。敵を倒すにはまずは手足から。頭が手ごわければ手足である雇われ従業員を引き抜いて孤立させようということか。
 ベラは作り笑いのまま「とても旦那様には申し上げられる話ではないですね」と答えた。
「そうだろうな。なんなら君は商会ではなく私個人のところへ来てもいい。……若くて美しい聡明な女というのはなかなかいないからな」
 品定めするような視線がベラの全身を舐めた。彼女は鳥肌が立つのを感じつつも、つとめて冷静に「御冗談を」とそれをあしらう。
「オードバン家などという弱小貴族に取り入ろうとは奴隷の考えそうな卑しい考えよ。なりふり構わないというか……。君も身の振り方を考えるなら今ならまだ機会はあるぞ」
 そこまで言ったところでベラの堪忍袋の緒が切れた。表情を表に出さないとはいえ、話している途中彼女の握っている拳が震えていることにレンボスは早く気付くべきだった。
「私だけならいざ知らず旦那様とその奥方になられるレディ・オードバンに対する侮辱、聞き捨てなりません」
 そしてベラはこの場での謝罪を要求した。しかし当然ながら彼はそれを聞き入れず、衆人環視の中でさらに煽り立てる。貴族の連中だけでなく騒ぎを聞きつけた通行人たちが遠巻きにレンボスがベラ達のことをこき下ろすのを見ているが諫める者は誰もいない。彼らにとってはこれも日常の光景であり、見ている貴族たちにとっては自分たちに代わって立場の再確認をしてくれているという優越感に浸るための娯楽の一環程度の見世物だ。
「そうですか。それでは発言を撤回する気はないと。そういうことでよろしいですね」
「くどいぞ。一市民ふぜいが伯爵の私にそんな口を利くことすら侮辱に当たることもわからんとは。下手に出ていれば調子に乗りおって。貴様の市民権を剥奪して奴隷に落としてやってもいいんだぞ」
 ならば、とベラはその場で短剣を抜いた。
「決闘を申し込みます」
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