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6章
第54話 ニンジンの皮
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パーカッションパートだけが残った音楽室で、樋暮先輩と段原先輩が深いため息を吐いてうずくまった。樋暮先輩は、先ほどの自分のひどい演奏を反省しているようだった。
一方段原先輩は少し様子が違った。海茅には彼が泣いているように見えた。
「あの……段原先輩……?」
海茅に声をかけられた段原先輩は、「あー……」となんとか声を出す。
「ごめん。なんか……」
「ど、どうしましたか……?」
段原先輩の先ほどの演奏は悪いところなんてなかった。
こんなに落ち込むことなんてないのに、と海茅が思っていると、段原先輩がくぐもった声を漏らした。
「顧問の話を聞いて、今までの違和感がなんだったか分かった……。そう、そうなんだよ……。俺は、人を感動させるための演奏がしたいんだ……」
どうやら段原先輩が泣いていたのは、落ち込んでいたのではなく、心を揺さぶられたからのようだ。
「段原先輩。先生が言ってた、人を感動させる演奏ってなんですか? 私にはよく分からなかったです……」
「俺にも分からない。でもさ、たぶんだけど、金賞を取るよりずっと難しいこと」
「どうやったら人を感動させる演奏ができるんでしょう?」
さあ、と段原先輩は首を傾げ、次は彼が海茅に質問する。
「海茅ちゃんはさ、どうしてそんなシンバルの音が出せるの?」
「えっ? 分かりません……」
「たぶん、理想のシンバルの音があって、その音に近づくためにたくさん練習したんでしょ?」
ここで謙遜をするのもなんだか野暮だ。しかし大きく頷けるほどの自信もないので、海茅は中途半端に肯定する。
「ま、まあ……。そうですかね……?」
「魂を込めて、命を削る想いでシンバルを鳴らしてるんでしょ?」
「は、はい……。シンバルに心血注いでるような気はします……」
海茅は以前から、クラッシュシンバルに自分の一番大切なものをひとつまみちぎって音に乗せている感覚がしていたので、この質問には素直に頷いた。
そんな海茅に、段原先輩は目尻を下げる。
「だから海茅ちゃんのシンバルの音には、人を感動させるなにかがあるんだね」
「えっ……と……。買い被りすぎというか……なんというか……」
照れ臭そうに頬をかく海茅を見て、段原先輩はクスクス笑った。
そして小さく息を吐き、考えながら言葉を紡ぐ。
「顧問にも、この吹奏楽部で表現したい音楽のイメージがあるんだと思う。そのイメージは、きっとこの世のものとは思えないほど綺麗なんだろうね。もしくは目を覆いたくなるほど残酷なのかもしれない。どちらにせよ、俺たちが想像もできない美しさなんだろうな」
段原先輩の言っていることは、海茅にとって抽象的で難しすぎる。
「でも、顧問は指揮を執ることしかできない。音楽を奏でるのは俺たち中学生の部員。顧問だけがいくら魂を注いでも、俺たちが何もしなかったら意味がないんだ」
そして段原先輩は海茅の目を上目遣いで見た。
「俺には人を感動させる演奏がなにか分からない。でも、顧問は知っている。だったら顧問の求める音を、演奏を、俺はやってみたい。顧問の描いている景色を俺も見たいし、表現してみたい」
海茅のクラッシュシンバルは、王子様が森を助けたその夜の星空。
顧問が指揮を振る侭白中学校吹奏楽部の演奏は、その星空でさえワンシーンにすぎない、物語そのものだ。
顧問の頭の中ではきっと、海茅がイメージしているものよりも、もっと美しい景色の中で、もっと深みのある物語が紡がれているのだろう。
「……私も見てみたいです」
「そうと決まったら練習しないとね。あとは……部員同士で話し合いもした方がいいかな。今の部員、音も心もバラバラだもん」
どのパートも同じ答えに辿り着いたようだ。
夕方頃、音楽室を訪れた部長が、樋暮先輩に呼びかける。
「樋暮。今日の夜、ごはん食べた後にパートリーダーで話し合いしたいんだけど、大丈夫?」
「はい! 大丈夫です」
「ありがとう。じゃあ、よろしくね」
夕方の自習練習を終えた部員は家庭科室に呼ばれた。そこでは、海茅の知らないOBの先輩たちが、ほかほかの甘口カレーを作って待っていた。OBの大人っぽい化粧や服装から、高校を卒業した人たちだと分かる。
「みんなお疲れー! 頑張った分いっぱい食べてね!」
OBたちはそう言って、部員の前に大盛りのカレーとサラダを配膳した。
カレーの中には、不揃いの野菜がこれでもかというほどゴロゴロと入っている。食べてみると、火が通りきっていないのか、まだ少しシャキシャキした。
海茅がなんとも言えない顏で頬張っていると、段原先輩がコソッと教えてくれた。
「OB手作りの、ちょっと美味しくない晩ごはんは合宿の風物詩。合宿の手伝いとして毎年大学一年生のOBが数人来てくれるんだけど、なぜか料理があまり得意じゃない人たちばかりでさ」
「なるほどぉ」
「でも、わざわざ俺たちのために作ってくれたって考えると嬉しいよね」
「はい! すごく嬉しいです」
海茅はちらっとOBに目をやった。
OBたちは、鍋を囲んでわいわいとくだらないことを口論している。
「えっ? ニンジンの皮って剥くの!? 剥かなかったんだけど!」
「剥くでしょ! 剥くよね……!?」
「っていうかニンジンに皮なんてあったの……?」
OBの会話が耳に入った部員たちは、こっそり目を見合わせて笑いを堪えている。
海茅も口角が上がるのを必死で我慢した。
この一日ずっとピリピリしていたので、OBたちのニンジンの皮の話に心が癒されるようだった。
一方段原先輩は少し様子が違った。海茅には彼が泣いているように見えた。
「あの……段原先輩……?」
海茅に声をかけられた段原先輩は、「あー……」となんとか声を出す。
「ごめん。なんか……」
「ど、どうしましたか……?」
段原先輩の先ほどの演奏は悪いところなんてなかった。
こんなに落ち込むことなんてないのに、と海茅が思っていると、段原先輩がくぐもった声を漏らした。
「顧問の話を聞いて、今までの違和感がなんだったか分かった……。そう、そうなんだよ……。俺は、人を感動させるための演奏がしたいんだ……」
どうやら段原先輩が泣いていたのは、落ち込んでいたのではなく、心を揺さぶられたからのようだ。
「段原先輩。先生が言ってた、人を感動させる演奏ってなんですか? 私にはよく分からなかったです……」
「俺にも分からない。でもさ、たぶんだけど、金賞を取るよりずっと難しいこと」
「どうやったら人を感動させる演奏ができるんでしょう?」
さあ、と段原先輩は首を傾げ、次は彼が海茅に質問する。
「海茅ちゃんはさ、どうしてそんなシンバルの音が出せるの?」
「えっ? 分かりません……」
「たぶん、理想のシンバルの音があって、その音に近づくためにたくさん練習したんでしょ?」
ここで謙遜をするのもなんだか野暮だ。しかし大きく頷けるほどの自信もないので、海茅は中途半端に肯定する。
「ま、まあ……。そうですかね……?」
「魂を込めて、命を削る想いでシンバルを鳴らしてるんでしょ?」
「は、はい……。シンバルに心血注いでるような気はします……」
海茅は以前から、クラッシュシンバルに自分の一番大切なものをひとつまみちぎって音に乗せている感覚がしていたので、この質問には素直に頷いた。
そんな海茅に、段原先輩は目尻を下げる。
「だから海茅ちゃんのシンバルの音には、人を感動させるなにかがあるんだね」
「えっ……と……。買い被りすぎというか……なんというか……」
照れ臭そうに頬をかく海茅を見て、段原先輩はクスクス笑った。
そして小さく息を吐き、考えながら言葉を紡ぐ。
「顧問にも、この吹奏楽部で表現したい音楽のイメージがあるんだと思う。そのイメージは、きっとこの世のものとは思えないほど綺麗なんだろうね。もしくは目を覆いたくなるほど残酷なのかもしれない。どちらにせよ、俺たちが想像もできない美しさなんだろうな」
段原先輩の言っていることは、海茅にとって抽象的で難しすぎる。
「でも、顧問は指揮を執ることしかできない。音楽を奏でるのは俺たち中学生の部員。顧問だけがいくら魂を注いでも、俺たちが何もしなかったら意味がないんだ」
そして段原先輩は海茅の目を上目遣いで見た。
「俺には人を感動させる演奏がなにか分からない。でも、顧問は知っている。だったら顧問の求める音を、演奏を、俺はやってみたい。顧問の描いている景色を俺も見たいし、表現してみたい」
海茅のクラッシュシンバルは、王子様が森を助けたその夜の星空。
顧問が指揮を振る侭白中学校吹奏楽部の演奏は、その星空でさえワンシーンにすぎない、物語そのものだ。
顧問の頭の中ではきっと、海茅がイメージしているものよりも、もっと美しい景色の中で、もっと深みのある物語が紡がれているのだろう。
「……私も見てみたいです」
「そうと決まったら練習しないとね。あとは……部員同士で話し合いもした方がいいかな。今の部員、音も心もバラバラだもん」
どのパートも同じ答えに辿り着いたようだ。
夕方頃、音楽室を訪れた部長が、樋暮先輩に呼びかける。
「樋暮。今日の夜、ごはん食べた後にパートリーダーで話し合いしたいんだけど、大丈夫?」
「はい! 大丈夫です」
「ありがとう。じゃあ、よろしくね」
夕方の自習練習を終えた部員は家庭科室に呼ばれた。そこでは、海茅の知らないOBの先輩たちが、ほかほかの甘口カレーを作って待っていた。OBの大人っぽい化粧や服装から、高校を卒業した人たちだと分かる。
「みんなお疲れー! 頑張った分いっぱい食べてね!」
OBたちはそう言って、部員の前に大盛りのカレーとサラダを配膳した。
カレーの中には、不揃いの野菜がこれでもかというほどゴロゴロと入っている。食べてみると、火が通りきっていないのか、まだ少しシャキシャキした。
海茅がなんとも言えない顏で頬張っていると、段原先輩がコソッと教えてくれた。
「OB手作りの、ちょっと美味しくない晩ごはんは合宿の風物詩。合宿の手伝いとして毎年大学一年生のOBが数人来てくれるんだけど、なぜか料理があまり得意じゃない人たちばかりでさ」
「なるほどぉ」
「でも、わざわざ俺たちのために作ってくれたって考えると嬉しいよね」
「はい! すごく嬉しいです」
海茅はちらっとOBに目をやった。
OBたちは、鍋を囲んでわいわいとくだらないことを口論している。
「えっ? ニンジンの皮って剥くの!? 剥かなかったんだけど!」
「剥くでしょ! 剥くよね……!?」
「っていうかニンジンに皮なんてあったの……?」
OBの会話が耳に入った部員たちは、こっそり目を見合わせて笑いを堪えている。
海茅も口角が上がるのを必死で我慢した。
この一日ずっとピリピリしていたので、OBたちのニンジンの皮の話に心が癒されるようだった。
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