パパには言わない

田中潮太

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 マンションの自動ドアを抜けて、フロントにいるコンシェルジュの若い男性に挨拶をする。そうしてカードキーをセンサー部分にタッチして一階に止まるエレベーターに乗り込み二、三、四……と刻んでいく数字を眺めながら翠は紅のことを考えていた。学校にいる間こそ勉強の事や友達の事を考えて過ごしていたが、放課後のチャイムが鳴ると同時に浮かんだのは紅と名乗るあの新しいお友達の事だった。

 見た目こそ自分とそっくりだというのに、妙に大人びいたミステリアスな女の子。

 彼女はきっと自分の姉だと妄想をする。パパが紅のことを知っているのなら、きっとそういう事であると。何故自分に隠していたのかはわからない。パパの考えている事はいつでもわからなかった。
 エレベーターが十二階に到着し翠は現実に引き戻される。エレベーターから一歩降りて右に曲がればドーム型をした真っ黒な監視カメラが翠のことを監視していた。そんな監視カメラの前を通ってすぐ、先ほどのカードキーをドアにかざせばヴーンと機械的な音がしてすぐにロックは解除された。

「ただいま」

 それに返事をする者はいない。いつもの事だ。
 ランドセルを下ろしてから二人暮らしには随分と広いリビングに足を踏み入れる。大きな窓ガラスは今日も曇りが一つもない。部屋全体も掃除が行き届いており埃ひとつなく、物という物があるべき場所にきちんと収納されている。言ってしまえば生活感のまるでない、モデルルームのような部屋だ。

 翠はテーブルの上にある置手紙を手に取った。そこには柔らかな雰囲気の字でこう綴られている。

『おやつにチーズタルトを焼いたので冷蔵庫に入れておきました。夕食はキッチンにあります  かつら

 家政婦の葛からのものだ。葛は顔立ちが綺麗でスタイルも良い。三十は超えているだろうがそう感じさせない器量の持ち主だ。モデルや女優でもおかしくない程の美貌だと言うのに家政婦を生業にしているから不思議なものだと翠は常々思っている。
 置手紙にあった通り、冷蔵庫には既に八等分に切り分けられたチーズタルトが入っていた。翠はそれを小さな皿に移し、フォークを片手に自身の部屋へと移動する。

「おはよう」

 こんにちは、と挨拶するのも何故だか妙に感じ翠はクローゼットを開けて早々に紅にそう挨拶をした。

「おはよう。美味しそうなタルトね」

 扉のあいたことに気が付いた紅は薄暗いクローゼットの奥から出てきて翠の前に立った。改めて前に立つとわかる、まるで鏡のようにそっくりな姿。けれど醸し出す雰囲気は明らかに違う。

「うん、葛さんが作ってくれたから食べようと思って持ってきたんだ」
「それなら、今日は座ってお話しようか」

 紅の提案に、翠は一旦チーズタルトの乗った皿を床へ置くとベッドの上のクッションを取りに行き、スカートが皺にならないようにしてその上へと座った。

「学校はどう?」
「楽しいよ。勉強もそうだけど、友達もいるし」
「そうなの。わたしは学校へ通った事が無いから、学校がどんなところか教えて欲しいの」
「通った事……ないの?」
「うん。だってほら、閉じ込められているから」

 制服を身に着けた紅はてっきり学校へと通っていると翠は思っていた。しかしよくよく考えれば学校に紅はいないどころか他のどこでもこのクローゼットの中以外では一切見かけたことがない。同じ制服を身に着けているのだから、他の学校へ通っている筈もない。

「これから通うことはないの? 六年生からとか、中学生からとか」

 目の前のお友達も一緒に学校へ通えることができたら良いのに。翠はそう考えたが、紅にはまだ謎が多すぎる。どこからどう尋ねて紅の人となりを知って行けば良いのか考えあぐねてしまう。

「ここから出ることができれば、通えると思うけど」

 その鉄格子には出入口のようなものがついていたが、南京錠がかかっており翠が開けることは難しそうだった。当然、内側からも開かない。

「鍵はパパが持ってるの?」
「この鍵をかけたのはパパだけど、開けられるのは翠」
「え? ぼく?」
「うん。だってパパはわたしをここから出す気はないから。そうなると、開けられるのは翠だけでしょ?」
「それはそうだけど……」

 翠は鍵の場所など当然知ることが無かった。鍵のありかはパパが知っているだろう。しかし紅のことを話さずして鍵のありかを尋ねられる訳はない。

「焦らなくてもいいの。ゆくゆくは出たいってだけ。ここでの暮らしは窮屈だけどね」

 眉を下げて長い髪をくるくると指先に巻き付けながら紅はそんな事を言う。
もし翠が逆の立場だったら、すぐにでも出たいと思う筈なのに。
 チーズタルトの味はもはやわからなかった。もさもさと砂を噛んでいる感触。いま知りたいのはチーズタルトの味なんかではなく、鉄格子の向こうにいる紅のことだ。

「南京錠、壊せないかな?」
「無理矢理?」
「うん。重いもの、ぶつけたら壊れるんじゃない?」

 鍵を使わなくても、それなら自分にできるのではないかと翠は思いつく。イスでもハンマーでも、なんでも。とにかく南京錠さえ外してしまえばいいのだ。
 けれど紅は首を横に振る。

「だめ」
「どうして? 鍵を探すより、ずっとはやく出られるよ」
「そんなことしたら、あなたまで怪我をする」
「いいよ、ちょっとの怪我くらい」
「そんなことになったらパパが気が付く」
「うーん……」

 翠が突然怪我をしていればパパは気がつくだろう。医者であるパパに下手な言い訳が通用するとは思えない。そうなるとすぐに紅のことを勘づかれてしまう。

「わかった。じゃあやっぱり鍵を探すよ」
「簡単には見つからないと思う」
「でも探さないと。友達がこんな狭い所に閉じ込められたままじゃぼくまで悲しいから」
「優しいのね」
「ふつうだよ」

 翠にとっては当たり前の感情だった。友達が困っていたら、助ける。そんな簡単なことは幼稚園児でも知っている。

「ええと、それでさ……」

 翠は本題を切り出そうとした。
他愛もない話をしたり、紅をここから出す計画について話すのも悪くはなかったが、翠が聞きたいことはもっと別の所にある。

「話疲れちゃったから今日はまたね。明日でも、明後日でも、もしくは永遠に話さなくても良いけど――とにかく、今日はもうおしまい」
「あっ……」

 ひらひらと手をふって紅はあっという間にクローゼットの奥へと消えて行った。どうやら、紅は気まぐれなところがあると昨日と今日で翠は理解した。友達と二人で話をいたいだけなのにタイムリミットのようなものが存在しているみたいだ。

 明日はもっと、単刀直入に話を切り出そう。

 翠は心にそう決めてお皿とフォークを洗う為にキッチンへ向かった。パパが帰って来る前に宿題を終わらせなくてはいけない。ひとまず、制服から着替えよう。翠の放課後はやることが山積みだった。
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