パパには言わない

田中潮太

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彼女の本質

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 不穏な気持ちのまま翠は学校へと登校する。外はもう寒く、部屋にかけられていた覚えのないボアジャケットに助けられた。

(そういえば座席……席替えしてないといいけど……)

 学校の階段を上がりながらそう考える。翠はいつも教室内で一番か二番に登校している為に間違えて他の席に座ってしまっては気が付く事が出来ない。さりげなく、教卓の上の座席表を確認するしかない。
 不安を抱えつつ教室に入ると翠は一番乗りでほっと胸を撫でおろした。教室前方の教卓の上、座席表をしっかりと確認する。座席は変わっていなかったようで翠は安心して自分の席へとついた。ジャケットを教室後方のフックへかけ、席へ戻るとリュックサックから教科書とノートを取り出し現在の授業内容の確認を始めた。

 今日の時間割に必要な内容に一通り目を通した頃にはクラスメイトのほとんどが登校していた。一か月の空白を埋める為に集中していた翠は顔をあげて一息つくとクラスの妙な雰囲気に気が付いた。一か月ぶりなのだから変化があったのかもしれない。しかしそういった類の変化ではなく、翠を取り巻く空気感が変化していたのだ。小学生の頃に教室で仲間外れにされていた頃の空気感に似ていると翠は感じた。ただ似ているというだけでそれとは少し違うようだった。存在しないかのように扱われてはいない。翠の事をクラスメイト達はしっかりと、これ以上ない程にはっきりと認識している。認識した上で避けられている――感覚的に翠はそう感じた。誰もが翠の様子を伺っている。
 どうしたのかと翠は戸惑う。するとそこで葉月が登校してきた。翠は葉月が席についてから葉月の元へ向かう。

「おはよう葉月」
「あっ翠……おはよう」

 以前の翠が知る葉月ではない。余所余所しい、と思った。
 以前の葉月ならば元気に挨拶を返してくれていた筈だ。絶対にこの一か月の間に何かがあった。しかし、葉月の翠に対する雰囲気を察するに葉月に詳細を尋ねることは叶わないだろう。

「あ、あのさ。現文のノート一瞬だけ貸してくれない? 書き忘れてる部分があって」

 もちろん嘘だ。挨拶をして反応が乏しかったゆえにそう誤魔化すしかなかった。

「うん、いいよ……えーと」

 葉月がスクールバッグからピンク色のノートを取り出し翠に手渡す。

「ありがとう。現文始まる前に返すね」

 ノートを受け取り席に戻る。葉月の綺麗な字で書かれたノートを開き、書き写すような素振りをする。先程確認したところ、紅はきちんと授業のノートを取っていた。そして恐らく板書以上のことをノートに書きこんでいる。それはきっと翠が目を覚ました時に勉強に困らない為だろう。紅の細やかな気遣いに感心し感謝したがその感情にクローゼットが開かなかったショックがぶつかる。

(もしかしたら、もう会えないのかな……)

 この一か月に何があったのか翠はわからない。この一か月を翠として過ごしていたのは紛れもなく紅の筈だ。そしてクラスメイトのこの変わりよう。この一か月に紅が何かをしたのか? と翠は考えたがその考えはすぐ否定した。紅が翠の状況を悪くするような行動に出る訳がない。仮に紅の行いが今の状況を生んだとして、だとしても紅が間違った行動をする筈がなかった。以前紅が男子の野次に対しきっぱりと意見したのも正論を言ったまでの事だった。
 結局、その日一日翠は一人で過ごした。移動教室も昼休みも葉月は他の女子と行動を共にしており翠が話しかける隙はない。そしてこれ以上葉月に話しかけようとも思わなかった。せっかく出来た友人が友人では無くなっていた事。翠はその状況に慣れているつもりでいたが、今回ばかりは悲しく思った。

 そして放課後。帰宅して紅との対話を試みようと思い誰よりも先に教室を出る。教室内の空気に耐え切れなかったのもあるが、一刻も早く紅と話がしたかった。この一か月何があったのか、そして一か月間自分のフリをして頑張ってくれた事。しかしクローゼットが開かなかった事が頭を過る。

 大丈夫だ、紅は答えてくれる。
 そう思い込むしかなかった。

「ぁ……ね、ねぇ! 浦上さん!」

 下駄箱で靴を履き替えていると翠は聞きなれない声に呼び止められた。そちらに顔を向けると同じクラスの前田という男子生徒がおどおどとしながら翠の顔色を伺っていた。

「うん? えーと……」

 前田は教室内でも大人しい性格の生徒だった。翠とは接点がなく、話すのも翠の記憶上ではこれが初めてだった。

「あの、突然ごめん。まだちゃんとお礼言えてなくて……言おうと思ってたんだけど、タイミングが……」

 ぼそぼそと早口で言葉を連ねる前田に翠は何と言ったらいいのかわからずに黙っていたがもしかするとこの一か月の出来事を知る事ができるかもしれないと、それとなく探りを入れる。

「お礼ってなんの事?」
「ええと、ほら……厚木くんたちに、怒ってくれたでしょ。それに、僕が言えなかった事、全部いってくれて……」

 前田がゆっくりと話す間に他の生徒達がやってくる。クラスメイト達が怪訝な目で自分たちを見ている。翠は場所を変えた方が良いと前田に提案し校舎横の倉庫の影へと場所を移した。

「多分、だけどぼくは前田くんにそこまで感謝されることはしてないよ」

 謙遜。恐らく紅はこの男子生徒を助ける行動を起こしたのだろう。厚木と言えば気が強く度々問題を起こしているクラスメイトの一人だ。大人しい前田に厚木が目をつけいじめまがいのような事が起きていたのではないかと翠は推測する。そして紅がそれを助けたのではないかと。

「そんな! 僕は浦上さんに助けられたんだよ」

 紅が前田を助けた。その事実は本当のようで、翠は紅に対して以前にも増した尊敬のまなざしを向ける他ない。
しかし具体的に何が起きていたのか全くわからなかった。紅はよっぽどの事をしたのだろう。それも翠に対するクラスメイトの視線が変わってしまう程に。事のあらましを引き出すことができないかと翠は思考する。

「ぼくも必死だったから実は記憶が曖昧なんだ。えーと、そんなすごかった?」

 怪しまれないように、なんとか話を聞き出せないかと翠は知恵を絞り出す。しかし傍から見れば不自然な言葉しか思い浮かばない。

「僕のせいで、浦上さんも目をつけられたのに。なのに浦上さんはあんなふうにやり返してくれて。すごかったよ、ほんとう、あの、ありがとう」

(紅がやり返した?)

 一体何をしたのか。今朝自分を取り巻く空気が変わっていたのはやっぱりそれが原因だったのかと翠は頷く。

「浦上さんが厚木くんを何度も殴ってたの、正直すっきりしたんだ。僕も厚木くんを殴ってやりたいとか思ってたけど、実行に移す勇気はなくて……あれ以来厚木くんは僕に一切絡んでこなくなったし。浦上さん、本当にありがとう」

 そう言って笑った前田は翠に心からの感謝を示していた。

「ううん、当たり前の事をしただけだよ」

 事の大きさに声が震えそうになり取り繕う。前田に気が付かれる事はなくその後は挨拶を交わし別れた。
 目立つ事は避けようと決めていた翠と紅だったが紅は一人のクラスメイトを救ったようだ。紅はいつも正しく、そして人の為を思っている。翠の為に他人へ言葉を投げかける。悪い出来事に心を痛める。紅は感情に敏感で左右されやすいがそこが紅の長所であると翠は紅を評価している。
 しかし今回ばかりは紅に対し疑問を持った。

(紅が人を殴った?)

 紅がそんな事をするようには思えなかった。紅は言葉で正論を述べることがあっても決して暴力で訴えたりはしない筈だ。実際の事件を見ていないが故にわからないが、厚木は紅に何をしたのだろうか? 翠の知る限り、厚木は素行の悪い生徒ではあったが自分とは班が同じというだけでそれ以外に接点はない。前田は自分のせいで紅が目をつけられたと言っていたが、いじめのターゲットにされたのだろうか? だとすれば、紅が厚木に対してやり返した、というのはあり得る話だ。けれど紅が人を殴ったという事だけはやはり納得がいかない。

 紅が悪い行いを、それも暴力を振るうとは思えなかった。早く家に帰りこの件を紅に確かめなくてはいけない。翠はそう思いながら急ぎ足で家を目指した。
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